小学校での教員経験が長い方を招いて、お話を伺う。その中で学力論に触れられ、態度主義と知識偏重という構図で、時代の中で両方の間を揺れ動いてきた様子を話された。
その授業後の感想で、ある学生がこんな旨を記している。曰く、中学生の頃、内申点を上げようと、授業する教員をいつもしっかり見つめて、「態度の良い生徒」をアピールしていた、と。
いかがだろう、これが私の言う、「児童生徒にも彼らなりの都合がある」ということだ。もちろん、教員の話に惹かれて見つめる場合も、さっぱりわからない授業だが好きな先生だから応援する場合も、はたまた授業の内容にではなく、変わった格好してはんなあと眺めている場合もあるだろう。だから「よく教師を見つめていたから、生徒はよく学んでいた」などと、したり顔で述べるのは、噴飯ものだと私は言うのだ。
児童生徒は、大人と同じように、いや語彙が乏しい分だけ非言語コミュニケーションにより秀でている可能性がある。そんな彼らの振る舞いを、自分たちの都合よく解釈して、成長だ、学びだなどとお喋りするのは「鰯の頭も信心から」そのものである。信者以外に解せるものではない。