新潟で原発事故避難児童に「菌」-小学校の担任
東京電力福島第1原発事故で、福島県から新潟市に家族と自主避難している小学4年の男子児童が、担任の40代男性教諭から名前に「菌」を付けて呼ばれ、1週間以上学校を休んでいることが2日、分かった。新潟市教育委員会が明らかにした。
児童は夏休み前に、担任に「同級生から名前に『菌』を付けて呼ばれているのが嫌だ」という趣旨の相談をしていた。市教委によると、児童は11月22日に担任から教室で連絡帳を渡された際、名前に「菌」を付けて呼ばれた。児童は24日から学校を欠席している。22日は早朝に、福島県沖を震源とする最大震度5弱の地震が発生していた。(京都新聞、20161202)
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ここにも、包摂しようとするがゆえの排除が見られる。
小学校教員に顕著といっていいだろうか。「みんなで」「一緒に」「どの子も」といった一見、美しい言葉が実は、同調、画一といった全体主義を胎んでいること、また、「進んで」「自ら」といった期待が、多数派への従順さを要求していることに気づきにくいようだ。
何しろ、子どもの意見を必ずしも聴くわけでもないのに「子どものために」と豪語して恥じないのだから。強い自省を含めて、正義を振りかざすのは危険なことでもある。
愛称が、言われる側が受け止めて初めて成り立つものならば、このケースは愛称ではない。にもかかわらず、担任教員がそう述べるのは、児童との関係を自分だけで決めてい良い、という傲慢さがあるからだ。
「子どもには子どもの都合がある」と、私が繰り返し話すのも、教育者と呼ばれる人が、個業性ゆえにマイルールを作りがちなことを危惧するがゆえに他ならない。
また、こうした事案のために教育委員会を含め、学校で膨大な資源が浪費されることは、マネジメント上の失敗と見なすべきだろう。