東京学芸大学附属高校における深刻な「いじめ」問題に関して、文部科学省から通知があった。そこに「特に国立大学附属学校は、地域のモデル校となるべき存在であり、このような事態はあってはならないことです」と記してあるのを見て、ああ、文部科学省の学力もさっぱりやなあ、子どもの学力ではなく教員の学力を、そして、教員の学力よりも文部科学省の学力を憂うべきと、嘆かわしく思う。
モデルとは、手本または標準と説明されるが、そこには二つの意味が含まれている。一つは、モデルケースといった、よく見られる、典型的な、の意味であり、もう一つは、モデル地区といった、先進的な、の意味である。
これを学校に当てはめると、①前者の意味では、普通の、ありふれた学校、②後者の意味では、進取の、革新的な学校、である。文部科学省の先の文章は、どちらを指しているのだろうか。
①ならば、検査という名前の入試など廃して、入学希望者をくじ引きなどで選べばいいし、もっと普通の学校にするためには、保護者の社会階層などがばらけるように勘案してもいいだろう。そもそも、入学を希望してはいない人に声をかける必要すらある。また②ならば、学校教育法や学習指導要領に縛られない人的配置と教育課程、そして教育ー学習方法が認められ、奨励されることが必要だ。これは、現行の研究開発校が当てはまるだろうか。
いずれにしても、何となくではあれ「エリート校」のイメージとそれを裏付ける歴史をそれなりに持っている附属学校を目の前にして、いかにモデル校たるべき、と述べているのだろうか、わからない。
辞書的にはっきりしない言葉を、いわばイメージ操作で読み手に任せる手法をとる作文を真に受けることはない。無責任な文章である。ならば、各附属学校が「モデル」と思う道を進めばいいのだ。そのためには、悩み、アイディアを出さなければならないけれど。