先日、回転寿司屋さんで見たメニューに、野菜のavocado をアボガドと記していた。どこかで化けてしまうんだね。古くは、simulation をシュミレーションと書いた本もあった。「シミュ」よりも「シュミ」の方が日本語として馴染みやすいことから起こったんだろうなあ。
関西人はこの点で(も)タフかもしれない。フランス語のpratique絡みで、プラチックという言葉を引いたら、「関西では合成樹脂、プラスチックplasticsのことをそう呼ぶ」というページも出てきた。「そういえば、この言葉をそう聞いたことがあったなあ」とさらに引くと、プラチックという会社名も大阪にある。それ系の企業である。
日本発のカタカナが世界語になる場合もある。コスプレcostume play という日本語は、いまやcosplay という英語になった。不名誉なことながら、過労死はkaroshi でも通じるらしい。
かくして言葉は流転する。だから、「正しい言葉」「正しい日本語」はそもそも成り立たないということを踏まえて、言語教育に臨む必要がある。けれど、教えるという場面では「正しい」がどうしても必要になるようだ。「教師は正しくなければならない」「人として当たり前のこと」といった言葉が、無前提に飛び交うことを嘆かわしく思う。