youtubeを見ていると、道路上のトラブルを特集したものに出くわす。
怖いモノ見たさで覗くと、交通法規無視で暴走するクルマ、接触しかけたのか怒りでクルマのドアを激しく蹴るライダー、合流地点で入れる入れないのバトルを繰り広げた後、あろうことか自分のクルマを相手にぶつける輩と、驚くシーンが満載である。
こうした映像を見ていて思う。実寸よりは大きいけれど、クルマは自己主張のツールでもあり、その前提として自己認知が伺われる点で、「クルマとドライバーのありよう」を考えるのは一興だろうと。
たとえば、クルマに自身を投影させたい向きにとって、その大きさ、デザイン、色、性能、これらに伴う価格は、自己願望の投影である。この点で、借金をしてまでクルマを買うのは、「実物大以上の自分を求めているから」と解するのは、意地悪だろうか。所謂いかついクルマで「これに乗ってる俺って…」と思うのは、クルマという非言語を通して自分の強さ、大きさ、金持ちさをアピールすることでもある。お金を出せば選べるナンバープレートの番号に拘る人もいる。過日、ルール無視いっぱいの二台のワゴン車と遭遇したが、同じ数字のプレートナンバーだった。「お友達」なことを確かめたいのだろう。また、「・893」のナンバープレートを付けて無茶な横入りをした上、自分の前には決して入れなかったクルマを見たとは、家人の談だ。
ちなみに、サングラスは相手に自分の目を見られずに、相手を見ることができるツールである。「目は口ほどにものを言う」がゆえに、目力がないと自覚していれば目を閉ざすしかない。もちろん、目を開けない訳にはいかないから、サングラスを遣う(光に弱い方などは別にして)。相手の目を見ることができない相手は、非言語上のメッセージのやりとりができないから、不利になる。シールドいっぱいのクルマは、このサングラスと同じ理屈で見えないことによる不安を回りにかき立てる。まことに迷惑な話である。