引き続き、教育実習の学生に関わる話。
学生は文字通り学ぶ立場にあるのだから、仕事っぽくできなくても当たり前だ。だから、教育の内容や方法に通じていなくても、さして問題とは思われない。その上で、同じ学生でも違いの見えるポイントの一つが、生徒の名前を覚え、名前を呼ぼうとするかどうかのように思う。
短い期間に、たくさんの生徒の名前を覚えることは、決して容易ではない。けれど、覚えようとしている学生の姿勢は、多くの生徒にとって好感を持てるものだろう。そうした関心を自分に向ける学生の授業は、そうでない場合と比べて、より肯定的なはずだ。
①ある学生はがんばって生徒の名前を諳んじようとする。②別の学生はそこまではいかないので、実習校から渡された席順と名前を記した用紙をこっそり見る。③さらに別の学生は、その用紙をどこかになくしたのか持たず、もちろん覚えてもおらず、生徒が付けている名札を見ては、授業をしようとする。これらの違いが、生徒とのラポールに及ぼす影響のあるとは、仮説していいだろう。
ことほどさように、「いい教員」とは教科の内容に通じているだけでは決してなく、曖昧きわまりない児童・生徒と彼ら/彼女らの力学に臨むべく、柔軟に対応できる態度と能力を有することと導ける。学校風に言い換えれば、生徒指導に関わる力だろう。
これは、勉学に励んだから身につくというものではなく、日々の経験とその反芻や反省の繰り返しの結果とも言えるだろう。それは、教えることが難しく、それぞれに学び取るしかない。「大学における教員養成」つまり、大学に入ることが教員養成教育の前提とされているとは、教えられるだけでなく、学ぶ潜在力を予期してのものである。生徒ではなく学生と呼ばれるのは、学ぶことができるだろうとの期待を込めてだと、心してほしいな。