重複することを「かぶる」と、学校教員までが言うのを、さして違和感なく聞けるようになってきた。言葉は世に連れ、世は言葉に連れとは思うけれど、「ダブる」の変形のような気がして嫌だったのだけれど。
と同時に、これは「ダブる」の言い換えと言うよりも、「重なる」を一文字分短くしたものではないか、とも思うようになった。発声上の省エネ、エコの一つなんだと。
①自動販売機→自販機、就職活動→就活、と用語をつづめるもの、あるいは、②見られる→見れる、着られる→着れると「ら」抜きのもの、はたまた、③ATM(現金自動預け払い機)、AI(人工知能)と、アルファベットに置き換えるものと、いずれも少ないエネルギーで多くの内容を表現しようとしていると見なせる。
いわゆる若者言葉には、おはよう→おは、ありがとうございます→あざーす、と省略するとも聞く。ひょっとしたら新しい世代ほど、より省力化が図られているのかもしれない。
扱う情報が増大しているためか、伝達意欲が強まっているからなのか、伝達する相手が増えているからか。いずれにせよ、少ないエネルギーでより多くの内容を表現しようという指向性が強まっていることは認められるだろう。
この点で、教育論議においても聞こえる「昔と比べると、コミュニケーション能力が低下している」なんていう言い草が、いかに的外れかわかる。私たちは、いっそうコミュニケーションをしようとしており、実際にしており、だからこそ、必ずしもできていないことを「コミュ力不足」だと病むに至っているのである。