学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

欠けたお皿

家人からの受け売りだが、1952年にジョン・ケージが作曲した無音音楽「4分33秒」は、聞き逃しているかもしれない周りの音に耳をすませてみよう、というメッセージとも解釈されるらしい。けれど、香港に数日だけ滞在した限りで言えば、彼のメッセージに耳を傾ける必要はあまりないだろう。

というのは、ここでは人々の喋り声もさることながら、ものを扱う時の音が十分に大きく、否が応でも聞かざるを得ないからだ。

広東料理の専門店に入った。値段からして高級店と目されると思う。ならば勢い「高級感」を期待してしまうが、味は確かに期待通りだったものの、音に関する限り、私の常識とまったく合わないものだった。食事を終えた客が席を後にする。食べ終えられた、遣われた食器が店員によって乱暴に重ねられ、洗い場行きのワゴンに大きな音とともに乗せられる。新しい皿が並べられるときも、カチャ、ガチャという音が離れることはない。何しろ、小皿、湯飲み、箸をいっぺんに持ってきて、テーブルに撒くかのように置くのだから、にぎやかな音がしないはずがない。

ひゃあと思いながら、自分の目の前に置かれた料理の皿を見ると、しっかり欠けているではないか。しかも一枚だけではない。これもそれも欠けているのである。この音から考えられる理由は、食器がぶつかったからに違いない。

あくまでも私の感覚だが、欠けたお皿は基本的に使えず、ましてや食べ物が載せられるお皿は論外である。そうしたお皿がこんな店で当たり前のように出されている。他のテーブルもおそらく同じだろうに、苦情が出る雰囲気は微塵もない。広東語も飛び交っているし、普段着のヨーロッパ系の人もお客にいるから、きっと地元の店で、これが普通なのだろう。店員が誤って食器を落とした際に「失礼しました」と声が聞こえる何処かとは、大きな違いである。

人間の感覚がどれほど社会的に構成されるかは、人間を理解する上での基本問題だが、小さな経験の限り、これはけっこう社会的なのかもと思わされる。万人が同じように心地よい音、そうでない音を聞いている訳ではなく、生活の中の音に関しても同様である。この閾値には思いのほか大きな幅があるようだ。

by walk41 | 2018-01-02 20:08 | Comments(0)
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