読売新聞のHP中「発言小町」の一つに、これからドイツに留学するのだが「ゆるふわ系」の服を着ていると彼の地で目立つだろうか、との問いかけがある。
https://komachi.yomiuri.co.jp/t/2019/0123/883880.htm?g=01
色々なアドバイスがあるが、「日本でこれは目立つでしょうか」という問いがあまり意味を持たないように、都市部か田舎か、夏か冬か、昼か夜か、社会的地位や階層はどうかと、その基準は変わりうるから、一概には言えない。ただし、「目立つ」ことが自分と人々の眼差しの投影だと見るならば、おそらくドイツという地域では、どんな格好をしていても「あまり目立たない」と言えるだろう。
つまり、目立つことを、①「周りを見渡して、自分が違和感を持たれているのではないかと感じる」という自分の自身への眼差しと、②「ある人に対して違和感を感じる」という他者の眼差しを指すとすれば、①については「どう思われるか」を気にする度合いは低いだろう(「他者にどう思われるかを気にしない能力」が高い)。また、②については、当たり前に色々な人がいるので、自分と違うことに対する閾値が高いと思われる(「自分と違っていることを気にしない能力」が高い)。つまり、自他ともに「気にしない」能力が高いので、その結果「目立つ」ことは少ないと帰結できる。
学生にもよく話すことだが、事実は山のようにあるのに、そこに眼差しが向けられなければ認識されることはない(「人のいない森では、木が倒れても音は聞こえない」)。そして、眼差しは優れて社会的に成立しており、客観的なレンズのように現実を切り取る訳でもない。
たとえば、日本に長く住んだ人は、ドイツ在住の人をそれなりの数、見なければ、個人を見分けることは極めて難しい。生活の中で馴染むことでようやく個体識別できるようになってくることは、いつでも「顔を見ればわかる」訳ではないことを示している。これらの整理の上に、どのような問題が成立するかが整理されるべきだろう。
「目立つ」も同じである。違いに敏感であれば目立つだろうが、そうでなければ目立ちようもない。より客観的に問題が存在するのか、それとも、より主観的な問題として扱われるべきなのか、中身に入る前に問われるゆえんである。