学校教育は価値の選択を必然とし、それゆえに、特定の価値を選んでいることの怖さに自覚的でありすぎることはない。にもかかわらず、このことに対する教員の無邪気さは相当だと、研修で感じる。その一つが、児童に無言清掃をさせることへのあまりに素朴な肯定的評価である。堂々とこれを主張するさまに、私は絶句する。
佐藤秀雄『学校ことはじめ事典』(小学館、1987年)にあるように、学校掃除の起こりは、掃除スタッフを手配できなかった明治の学校財政事情によるものであり、これを児童・生徒にやらせることで「教育的」というこじつけを後でしたものに過ぎない。
だから、学校での掃除は、児童・生徒に無償労働を強制するものであり、受けとめによれば、ハラスメントになりかねないほどである。学校や教育委員会は、文字通りタダで働いてくれる児童・生徒に感謝こそすれ、これに臨まないから指導の対象とするなど、もってのほかと心得るべきなのだ。
なのに、精神を集中させて掃除をさせることが望ましいという、父権主義(おせっかい)と精神主義(根拠のない根性論)が今なお横行している。最近出会ったある小学校教員に至っては、「(無言清掃に対して子どもの)抵抗があるかもしれませんが、粘り強くさせましょう。必要があれば、私も指導の応援に行きます」という書きぶりである。
「子どものために」自分はいいことをしていると思い込みが、かくも暴力的な行為を美しい実践と描かせてしまう、人間の信念の強固さに、愕然とさせられる。まさに学校残酷物語である。