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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

安定して壊れています immer kaputt

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初秋の南西ドイツのある街の駅、エレベータが壊れていました。まあ、だいたいこんな感じです。

振るっているのは、故障を示す立派なシールが貼られていること。こんなことに労力を割くのなら、さっさと直してよと思います。

同じく、エレベーターに乗ろうとしていた、大きなスーツケースを抱えた初老の女性がくそったれとつぶやいたので、まさにドイツですね、と口を挟んだら、全くその通り、と返ってきました。やれやれ。



# by walk41 | 2019-09-16 04:50 | ドイツのこと | Comments(0)

「学校は命かけてまで行く所ではない」 Die Schule ist nicht so, dass Schueler mit ihrem Leben risikant gehen soll.

7月に市内中学生がいじめを苦に自殺したことを受けて、市議会にて教育長が発言。「学校は命かけてまで行く所ではない」。このほかにも、「今あなたが悩んでいる班とか学級とか部活は、狭い世界です」「苦しいのに我慢して学校に行くことはありません」とも発言があったという(毎日新聞、2019.9.13)。

調べると同氏は、2014年時点で中央教育審議会委員を務めており、現在は岐阜市教育長であるとともに、岐阜大学客員教授でもある。関係する団体や組織の思惑を踏まえてなお、ここまで発言したことの意味は大きいと、私は思う。

翻って、学校教員はどうだろうか。「学校でうまくできなければ社会に出てもうまくやれないぞ」「学校は社会の縮図だ」「学校でのマナーを身につけることは大人になるための基本」といった、現実認識のおぼつかない、自分勝手な正義を、物言えない児童・生徒に振りかざしてはいないだろうか。

それとも、学校教員はこう返すだろうか。「いえいえ、文部科学省、教育委員会が学校に求めてきたことを、代理人として我々がやってきたに過ぎません。悪いのは教育行政です」。

誰が言い出しっぺなのかは知らないが、必死(必ず死ぬ?)にやれ、と生徒たちを叱咤激励してきたことの反省が、学校教育業界で進むことを願いたい。

# by walk41 | 2019-09-13 12:21 | Comments(0)

ないものが見える man sieht, was dort nicht gibt.

ある中学校のHPにこんな記述があった。「開発的生徒指導」という欄である。

…以前,熊本市内のある中学校に視察に行ったときのことです。その中学校は生徒数800名を越す大規模校です。ちょうど昼食時間の後の掃除時間でした。すべての生徒と言ってよいでしょう。床に膝をつけて雑巾で吹き上げていました。教室や廊下を掃除する生徒に中には埃のたまりやすい隅の方を中心に掃除している生徒もいました。掃除担当箇所は時に決まっている様子もなく気づいた者がその場所を掃除しているという雰囲気です。大規模校となると一人くらいはさぼろうとしている生徒がいてもおかしくないと思うところですが,掃除をしている生徒にもその活動に差がありません。あの子は一生懸命取り組んでいるが,この子は手を抜いているという生徒がいないのです。理想的な学校,夢のような学校と思いませんか。「なぜそんなに清掃活動が盛んなの。」と生徒に聞いてみました。すると答えは次の通りです。「みんながやっているから自分もやっている」「部活動の先生に厳しく言われているから」という答えが返ってきました。この返答からは先生方の指導が行き届いているから生徒が立派にやっているんだと思われますが,生徒の表情や輝いている瞳の奥を覗くと,c多くの生徒が,清掃活動はみんながやらなければならないこと,みんなの学校だからきれいにしておかねければならない,私たちの自慢の学校,という意識があったように感じました。どんな方法でそこまで清掃活動が盛んになったかは分かりませんが,少なくとも生徒は掃除をさせられているという意識ではなく,自主的に,意欲的に取り組んでいました。… (http://cms.saga-ed.jp/hp/nabeshima-j

教育的な文脈に即して物事を見る、教育的眼差しを注ぐとこんな恐ろしいことが起こるのだと、私には思わされる。

ひとつは、800人もの生徒の誰もが懸命に掃除をしているシーンが「理想的な学校,夢のような学校」だと映ること(民主主義と対立する全体主義そのものなのに)。歴史的には学校への予算不足から始まった生徒(と教員)による掃除のありようを疑いもせず、ちゃんと掃除をさせること(およそ家庭での掃除と別物の行動を強いること)が指導だと思い込むこと(掃除は生徒による無償ボランティアである。しかも、素手でしているだろう高い危険性を伴っている)。ひとは眼でものを見ている訳ではないことがよくわかる。

もうひとつは、「みんながやっているから自分もやっている」「部活動の先生に厳しく言われているから」と生徒が答えているのに、「単純にそうではないような気がします。」と何のエビデンスもないのに述べ、「自主的に、意欲的に取り組んでいました」と締めくくっている。そんな無茶な。

いずれも、強い思い込み、自身の信条を疑うことのなさが特徴かと思う。一般解(普遍的な答え)はもちろん、特殊解(ケースに応じた答え)すらあるのかどうかわからない対人サービス労働の世界にいる教員が、こんな教育的まなざしを児童・生徒と自分たちに注ぎ続け、リフレクション(反省的思考)やメタ認知などと無縁なこと、まさにホラーではないだろうか。

# by walk41 | 2019-09-12 08:18 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「何でも言い合えるクラスづくり」 eine Klasse, wo Schueler miteinander alles aeusseren koennen

小学校の校内研修を見学した。

主題は省くが、既存の教育的信条を問わない、つまり教員の「実践」が何ら変わらないだろうと思われる時間だったことが、とても残念だった。

たとえば、こんな発言があった。曰く、「何でも言い合えるクラスづくりが大切。」これを聞いた周りの教員の反応も「そう、そう」であった。さて、この方向での学級づくりはどれほど適切だろうか。

教授行動がいかに科学的か(再現性のある効果的な行動を導くことがいかに可能か)を追うことがどれほど意義あるかはさておき、「より良い教育」のための「実践」が日々行われているのだから、「何でも言えるクラスづくり」に向けた実践がいかに可能で、また教育-学習上、さらには教育目標上、効果的かを確かめなければならない。

まず、「何でも言い合える」のは児童たちであって、教員ではない。いわゆる子どもという限定つきながら他者をどれほど操作することが、ひとりの教員に可能だろうか。私などは、そもそも、言いたいことが特段会い」という状況があるだろうなとか、また、「言いたいことはあるけれど、ここでは控えるのがマナーだ」といった大人に近い子どもを想定してしまうのだけれど。

さらに、こうしたクラスづくりが可能だったとして、その効用は何なのだろう。教員じしん、学校管理職や同僚に言いたいことはあるけれど、互いの授業や学級の経営になかなか口を出さないのは、そうした発言を控えることが「心地よい」職場づくりにつながることを知っているからだろう。相互批判を厭わない風土は、組織の緊張を高め切磋琢磨になるかもしれないけれど、そんなことよりも「私の実践に口を出さないで」という相互不干渉な快適さの方が優位するのだ(このことは、大学教員にもいっそう当てはまることである)。

対して、当の教員は、こうした小学校業界ではきっと「どこからも批判の来ない」お喋りをすることで、自身の行動とその背景にある発想を問い返すことなく、変わらない日常を続けていくのだろう。この点で、意義のある研修とは私には思われない。

教員研修の主眼は、児童や生徒をどう操作するか(「働きかける」という業界用語)ということではない。操作できるのは、教員自身と教室の環境の一部である。ここを変えることでしか、別の「実践」を生み出すことはできない。こんな「子ども頼み」の話をして、その可能性も効果も不確かなことを、小学校で続けているとすれば、何という悲劇かと思う。この研修に投じられた人件費が無駄なこと、そして頼まれてもいないのに当てにされてしまっている児童が気の毒な点においてである。

教員のみなさんからの批判を待ちたい。

# by walk41 | 2019-09-12 06:55 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「ヘリコプターペアレンツ」 "Helikoptereltern"

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2019.9.7付、Stuttgarter Zeitungの記事から。

「学校は保護者タクシーへの対応に苦慮」という見出しである。保護者タクシーとは、保護者が自身の子どもをタクシーよろしく学校まで送り迎えする様を指している。ドイツでは、ヘリコプターペアレンツとも呼ばれる、「我が子かわいい」の保護者が増えており、学校への送り迎えを自家用車で行うのみならず、さらには路上にクルマを止めたまま、子どもを教室まで連れて行く保護者が現れていることが問題となっているのだ。

全ドイツ自動車クラブ(ADAC)は、こんにち20%の保護者が自分の子どもの学校への送り迎えをしているという調査結果を示している。数十年前であれば、クルマでの送り迎えはまったくレアケースであり、子どもはどんな天気でも歩いて学校に行ったものだと述懐する人もいる。また、ADACが保護者にその理由を尋ねたところ、学校に間に合わないからという回答は少なく、もっとも多い理由は、登下校時の危険が懸念されるからとのことである。皮肉なことに、徒歩での登下校よりも、クルマ絡みの事故の確率の方が高いのだが、と記事。

いくつかの街では、写真のような、保護者のクルマを止める場所と時間を示した標識を設置しており、公共バスがバス停に近づけないといった惨状を改善するのに効果を発揮しているという。保護者のクルマが酷いときには二重に縦列駐車し、バスの運行に支障が出ているのだ。「これはもはや社会問題であり、保護者にはクルマで子どもを送り迎えさせないようにすべき」と主張する論者もいるが、保護者にこの声が届いているとは思われない状況である。

日本の「モンスターペアレンツ」とは少し趣きが違うかもしれないが、ドイツにおいても類する保護者の存在は、学校にとってさぞ頭の痛いことだろう。


# by walk41 | 2019-09-09 19:16 | ドイツのこと | Comments(2)

ドイツから見たキモノ Kimono aus der Sicht Deutschland

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ドイツの南西部に位置するBaden-Württemberg州の州都Stuttgartに、民俗学博物館がある。そのHPを見ていたら、この月末、「日本におけるプロパガンダとしてのキモノ」という企画と講演の行われることを知った。

紹介文によると次のようだ。1894/95の日清戦争から1932/44にかけての中国戦争、太平洋戦争の時期、日本では戦争を主題にした着物が作られた。これは、国家による戦意高揚のための政治的宣伝(プロパガンダ)として機能したのか、あるいは日本の伝統、はたまた大した意味を持たないファッションモードだったのか。

今回、46点の着物を借り受けることができた、また、ミュンヘン大学で民俗学修士号を得て、同大学で授業も担当しており、地域的には日本を専門とするKlaus J. Frieseが「戦争における美学」の観点から講演を行う予定である。

日本の戦時の生活には、戦争を色濃く投影した湯飲みや扇子までもあったことが知られているが、1万㎞ほども離れたところで、こうした関心を持たれていることを興味深く思う。文化的文脈が異なる立場からの、事実の切り口の共通点と相違点は、どのようなものだろうか。



# by walk41 | 2019-09-09 04:36 | ドイツのこと | Comments(0)

複数の読み方 die plurale Aussprache

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駅名変更の案内を見た。

これまでの「やわたし」から「いわしみず はちまんぐう」に変わるという。

面白いと思うのは、「八幡」と同じ漢字でありながら、「やわた」と「はちまん」と異なる読み方が、しかも同じ場所についてできることだ。

この点で、形とその組み合わせとして漢字を覚える、つまり表意文字の漢字の良さを引き出すことが大切、ということだろうか。

# by walk41 | 2019-09-05 07:59 | ことばのこと | Comments(0)

たとえば、外国体験 z.B. Erfahren der Auslandsreise

ある小学校にうかがった。教室の後ろには、夏休みの絵日記が、子どもひとりあたり一枚づつ張られている。

海水浴に行ったことやサーカスを観たことなど、ありそうだなと思われる絵日記もあるが、驚かされたのは、外国旅行のことを記していた児童が31人中、4人いたことだ。それらは、イギリス、チェコ、オーストラリア、さらにはネパールだったが、大人になってもなかなか行かない所を含めて、僅か12歳で経験している子どもがいるのかと、いかにグローバル化とはいえ、びっくりさせられた。

中学校の修学旅行で、二つの学校が飛行機の貸し切り乗り合いとなったが、片方の中学生からは離陸、着陸のいずれも拍手が起きたのに対して、もう片方の中学生からは何も起こらなかったというシーンに遭遇したことがある。前者の中学生の多くは、飛行機の経験が初めてであり、後者は初めての生徒こそが珍しい状況だったのだろう。

こうして、学校とは別のところで、経験のある無しが分かれ、学校文化との親和性の如何を含めて、子どもが分化していく。こうした時系列の上に学校生活が成り立っていることの不思議さを、改めて思わされる。

# by walk41 | 2019-09-04 15:12 | 身体 | Comments(0)

多様性を増すドイツ社会 mehr abweichende Gesellschaft in Deutschland

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ドイツでは、2019.9.1に二つの州、ブランデンブルク州とザクセン州で州議会選挙が行われ、暫定結果が報道されている。これをザクセン州(州都ドレスデン、人口およそ400万人)について、5年前の2014年選挙との比較をすると、上のようである。

連邦議会で連立を組む、CDU(キリスト教民主同盟)とSPD(社会民主党)は、得票率をそれぞれ約2割と約4割減らした。いずれも大敗と見なせるだろう。また、Linke(左翼党)は45%減らし、ほぼ半減と言っていいほどの惨敗である。

これに対して、AfD(ドイツのための選択)は3倍近く増やし、大躍進を遂げた。また、環境政党のGruene(緑の党)は5割の得票率増を果たした。さらに、FDP(自由民主党)は5%に届かず、今回も議席を得ることができなかった。

歴史的にドイツ政治を主導してきたCDUとSPDが退潮、とくに歴代首相も数多く輩出したSPDの得票率が2桁を割ったことは衝撃的である。また、旧東ドイツの共産党の流れも汲むLinkeは、第3党の地位は維持したものの、大きく議席を減らすことになった。なお、Grueneは第4党へと伸びている。

今回の選挙でCDUに並ぶほどの得票を得たAfDは、「ドイツ的価値」を重んじ、難民問題では排外的な態度を示している。旧西ドイツでは、1950年代終わりから「お客さん労働者」(Gastarbeiter)をイタリア、トルコ、ギリシャを始め多くの地域から「外国人」を迎え、1990年代からは旧ユーゴスラビア諸国や旧ソ連からも多くの移民を受け入れた経験を持っている。これに対して、「鎖国的政策」を採っていた旧東ドイツでは、「外国人」の経験が乏しい故に、難民問題に敏感に反応しているのだろうか。今回の投票率は66%、AfDがこれまで投票に行かなかった人を動かしたとの分析(Spiegel Onkine)もあるが、投票行動の大きな変化が起こっている。

かくも有権者の意向が多様な社会では、連立政権を余儀なくされるばかりか、どのような組み合わせになるかが大きなテーマである。これまでの常識ではあり得ないAfDが政権入りするのか、第4党とはいえ政権のキャスティングボートを握るGrueneはどう動くのか。右派-左派という軸だけで政権を語れない状況が、ドイツではいっそう進展している。

# by walk41 | 2019-09-03 11:46 | ドイツのこと | Comments(0)

教員こそルールを守るべき Vor allem soll Lehrer die Regeln befolgen.

学校教員の中には、「社会にルールがあるように、学校でもルールがあり、これを守れないようでは立派な大人になれないぞ」と、したり顔で言う人がいるだろう。そもそもルールとは何か、またそれはいかに守られるべきか、変えられるべきか、を思考していないかもしれない、その薄っぺらさは脇に置いて、「ルール重視」をまま唱える教員が、実はルール違反をしているという話をしたい。

たとえば、席決め。「自分が好きなところに座っていい」と始めたところ、「ここに座りたい」と生徒の間で衝突が多発。すると、「決められへんのやったら、先生が決めます」と勝手にルールを変更する。最初のルールは守られずである。

あるいは、教室の係や行事での役割を決めるとき、最初は「係の人数枠を越えた場合は、じゃんけんで」と生徒に伝えていたのに、いざ決める作業が始まると、「この係は大事やから、クラスのみんなの投票にしよう」とか、酷い場合は、「やっぱり、先生が決めるわ」と、驚くべきアクロバティックな展開を導いたりする。始めの決めごとは、かくも容易に反故にされる。かくも、教室は無法地帯であり、専制者である教員による人治主義が横行する。

はたまた、授業中にトランプを始めた生徒を見て「トランプをしていい曜日を決めたいと思います」と的外れな提案を行い、関係ない生徒を巻き込んだりもする。ルールの必然性は教師の胸三寸である。

こうした「学級王国」の状況が出現するのは、教員がルールの意義と限界をよく理解していないからと、私は思う。ルールを適用するには、人による支配を回避し、誰もが従わなければいけないルール(法治)を設定することで、普遍性を担保する意義(平等や公平の点で)と合わせて、臨機応変さに欠けたり手続きに多くのコストを要する限界(「杓子定規」や「ムダ」といった)もあることを理解する必要がある。このことを、どれほど教員は踏まえているだろうか。

いわゆる問題状況の背景には、教員によって宣誓されながら恣意的にも運用される「ルールらしきもの」がある。その不確かさが生徒を疑心暗鬼にさせ、ルール無視こそ生き残る技だと学ぶ機会を提供する。「正義によるいじめ」が頻発する背景も、同様である。

さて、ルールと言うならば、教員にとっても上位に君臨するものとしてそれを設定する勇気を、はたして教員は持ち得ているだろうか。





# by walk41 | 2019-08-30 09:43 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「先生、がんばって」 "Lehrer, mach's gut!"

夏の教員研修には、教諭だけでなく、養護教諭や事務職員が参加してくれる場合もある。

ある研修にて、学校版の「悲しいとき~」(いつもここから)を作ってもらったら、事務職員の方から次の一句が出た。

「悲しいとき~
 -先生が初めて自分で出張届けを書いてくれたと思ったら、間違えていて、結局、全部書き直しになったとき~。
 -先生に任せたいけれど、まかせたら仕事が増えるだけだと実感したとき~」

教諭のみなさん、いかがだろうか。

「へ-、そんな学校もあるんだ」と思われただろうか、それともひょっとして耳の痛い話だろうか。


# by walk41 | 2019-08-29 08:00 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

恥 Scham

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引き続き、滋賀県平和祈念館の資料から。

写真は1944年3月の「壮丁の栞」(大津連隊区司令部)、徴兵検査を受ける男子に向けたものである。

これは「徴兵検査に當りて」「寄留地検査の励行」「現役検査に就て」「検査を受ける心得」「徴兵検査の結果に就て」「幹部候補生志願に就て」「入営延期者に就て」からなるが、うち最初の項目を見てみよう。読みやすいように適宜、字間を空ける。

「諸君は萬邦無比の皇国に 天皇陛下の赤子として生を享け 皇恩の下 限りなき父母の慈愛、恩師の訓育、社会の恵みに依って斯く迄立派に成長し 目出度 徴兵適齢の年を迎えて元服し、母の胸に抱かれていた時から錬りに錬り 鍛えに鍛えた修養した身体の一切を捧げて今こそ 天皇陛下の御為に皇国の隆替を 此の一戦に賭する大東亜戦局の第一戦に 馳せ参じるの秋を迎えたという幸福感と、銃後一億が諸君に期待する絶対の期待に応えて、必ず其の使命を完遂せずんば止まないという覚悟が充満して居ることを確信して 衷心よりお慶びに堪えぬ次第である。

徴兵検査は諸君も既に能く承知して居る筈であるが、日本男子として只今も述べた所の 醜の御盾と成り得るか否やを決定される生涯一度の洵に意義深い 且神聖な検査であることを感銘し、旺盛なる志気と、健全なる心身を以て、厳正に受検することが必要であって、苟も自分の不注意や不心得から自分は勿論のこと 親の名を恥かしめ、一門の面目を潰し延いては郷土の名誉を汚す様のようなことがあってはならないのである。

今日迄に夫々市町村の方から詳しい御注意を頂いている筈だが 特に諸君が心得て置かねばならぬことを申述べておく。」

いかがだろうか。これは父権主義(パターナリズム)とファシズム(全体主義)の塊だと私は捉える。ひとりの男性の生のありようは、その個人によってではなく、天皇、父母、親戚縁者、郷土によって定められているという観念と、それを国家として一元的に回収して然るべきという立論が見られる。

また、これに応じないことが恥ずかしいことという言及は、いっそう個人を萎縮させる。なぜなら、恥は他者からの眼差しを自身の眼差しとして内面化し、他者に見られていない時でさえ自身を強く縛るものだからである。

こうして若者に対して徴兵検査が行われ、実際に徴兵され、多くが人を殺しまた殺されていった。あたかも「自然な仕組み」かのように見えるまでに浸透して、人々の意識と行動を方向づけていく「制度」を研究する意義はここにある。既存の「制度」を疑い異議申し立てする勇気を持ちたいと思う。


# by walk41 | 2019-08-28 07:49 | ことばのこと | Comments(0)

天皇主権 Herrschaft des Kaisers

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滋賀県平和祈念館を訪れる。1931年から1945年の太平洋戦争では、滋賀県からも多くの兵士が出征、3万人を数える死者が出たとある。悲惨である。

その中に、1945年8月15日の京都新聞、第一面が展示されていた。天皇による終戦宣言の行われたことを示しているが、私にとっては驚くべき箇所があった。

以下、同紙面にある、御前会議での天皇の発言である。

「朕は世界の大局と我が国の情勢を慎重に考慮したる結果、祖宗又一般国民に対し忍び難きを忍びてかねての方針どおり進みたいと思う卿等はいろいろの意見もあろうが回答文は、天皇主権を承認しているものと考えるからみなもそのように解釈せよ  朕は国を焦土と化すことを思えば仮令朕の一身はいかにあろうともこれ以上国民が戦火に斃れるのを見るのは忍びない」

これに対して京都新聞は、「…との有難くも辱い御言葉を賜った。何という御叡慮の深遠さであろうか」と続けている。新聞社による、まさに「生き神様」に対する崇め奉りぶり。反骨精神の欠片も見られない「御用新聞」そのものである。

さて、私が驚かされたのは、降伏にあたって連合軍が日本政府に求めた条件に、天皇に対する責任が明示されていなかったのか、「天皇主権を承認しているものだから降伏してもよいだろう」旨を天皇が述べているくだりである。

天皇主権とは、この9ヶ月後に発布された現在の日本国憲法の根本、国民主権と対峙するだけでなく、この戦争の責任を天皇が回避する可能性を示唆する。というのは、天皇主権が維持される一方で、天皇の責任が問われるという状況を考えにくいからだ(当時の天皇の責任を問うた上で、次の天皇に主権を与えるという筋書きもありうるけれど)。

さまざまな主義主張や思惑が交差する中での発言ではあっただろうが、まさに国が焦土と化し、広島と長崎に原子爆弾を投下されてなお、「天皇主権の承認」(「国体護持」)が最も重要だったという思考あるいは状況に愕然とさせられる。戦後、国民主権へと歴史のページが大きく開かれたことを喜ぶとともに、これを守り発展させなければならないと強く思う。



# by walk41 | 2019-08-25 19:53 | Comments(0)

パン Brot

パン屋さんに行った。レシートを見ると、店名に "pain de ...”とある。painとは? と辞書を引くと、フランス語でパンのことだとわかる。

そこでと調べると、次のようだった。pain(フランス語)、pan(スペイン語)、pane(イタリア語)、pão(ポルトガル語)と、もとは、panis(ラテン語)に由来するとのこと。なるほど。

だから、無い物ねだりかもしれないけれど、戦国時代にポルトガルから「パン」が伝わったと社会科あたりで子どもに教えるときに、「ちなみに、近くの地域では似たような言葉があってね」といった説明が教員からあればいいのになあと思う。そうすれば、たとえば、ヨーロッパの地理に興味を持つ場合もあるだろうし、もちろん言語を知りたいという場合も出てくるだろう。

ちょっとしたお喋りが、「関心・意欲」を促すきっかけになるとすれば、教員の「雑学」はすぐれて重要ではないだろうか。




# by walk41 | 2019-08-24 19:46 | ことばのこと | Comments(0)

プロフェッション Professionalität

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http://e-kangeki.net/ より拝借。

ひょんなことから、大衆演劇を観る機会があった。温泉施設内の舞台で、そのときの観客は30人くらい。大音響と毒々しいくらいの光が飛び交う中、舞踊と呼ばれる踊り、寸劇、歌謡、太鼓とオムニバスが約60分間続いた。

驚かされた。というのは、あくまでも私が見た舞台の限り、上手な学芸会の域を越える出来映えとは思われなかった、にもかかわらず、大方は年配の女性だった観客は、熱心にまた懸命に応援しながら舞台に視線を注ぎ、全体として親和的な雰囲気が感じられたことに対してである。

たとえば、陳腐で常套句な台詞、よく知られているのに歌われると何の曲だかわからないような歌謡(わざと外しているのか思ったほどである)、突然に途絶える音源、こじんまりでシンプルな舞台装置である一方、浴衣姿の観客は応援のバチを持ち、舞台に合わせるかのような派手な原色のイルミネーションライトで応え、幕間には用意していたレイを渡しに行くという具合だ。また、公演の最後部には一同が舞台に現れ、座長が観客に向かって語りかけ、終了後は観客をお見送りするというサービスぶりだった。

帰宅後、大衆演劇の動画を見たが、上記HPの説明にあるように、家内労働的で座長以下、子どもを含む家族と親族が中心の10人程度のメンバーによって公演が行われ、温泉施設内で寝泊まりしながら各地を巡業し、一年間ほぼ休みなし、というのが通常の環境の業界があること、こうした劇団が全国に120ほどあり、平均一日あたり24000人が観劇しているという事実に、さらに驚かされた。

公演案内を眺めると、入場料が1万円といったものもあり、同じ大衆演劇の劇団でも千差万別なのだろうが、上記のような大方の劇団の環境から察するに、産業革命以降の近代化で見られる、分業を基本とするプロ(専門家)の台頭と進展という流れとは別の職業集団が存在することに、これまた自分の無知を知らされる。

あるテレビ番組では、劇団のお母さん、実子の母親、役者、舞台の裏方、金庫番等と、何役もこなす女性を取り上げていたが、それだけできる(やらなければならない)ということは、分業されていないゆえの労働上の専門性に限界がある(プロではない)とも言える。なのに、この女性は取材班に「プロですから」と語っていた場面が印象的だった。

「夏休みだから舞台に立った」子役に例示されるように、資格も認証基準も曖昧で、制度的な養成、採用、研修も伴わず、おそらくは厚遇と言えない労働環境の中で、素人とそう変わらないように見える公演が開かれている。そして、これに対してそれなりのしかも熱心な人たちが気軽に見に来ているという事実、に不思議な魅力を感じる。

また、歌、踊り、演奏、いずれも専門的でなければ舞台に立てるはずがない、また観客にはドレスコードが求められ、観劇中のマナーを守ってこそといった理解が、いかに「大衆」から離れているかとも思わされる。文化政策、文化振興と口にする人もいるけれど、そこでの「文化」理解の薄っぺらさに、改めて気づかされる。



# by walk41 | 2019-08-23 08:00 | ことばのこと | Comments(0)

通夜のような授業 Unterricht als ob er vor dem Beerdigung

大学のオープンキャンパスにて高校生たちと出会う。

模擬授業として、規律と秩序が重んじられる学校で身についてしまう習慣、大人しく話を聞く、ルールを守ることに馴染んでいる身体になっているのではと、学校論を話す。その流れから、「高校の授業は今でもお通夜みたいに静かですか」と彼ら彼女らに尋ねると、控えめな反応ながら、複数の参加者からそうだと返ってきた。教員が一方的に話し、生徒たちが静かにノートを取る姿が目に浮かぶ。

教科や単元にも拠るだろうが、これだけアクティブラーニングが叫ばれ、個に応じた学習の重要性が喧伝されているのに、もっぱら伝達として授業が進められているとすれば、ある意味で一種のホラーである。高校教員からは「大学入試があるから」と常套句が挙がるだろうが、はたしてそうだろうか。むしろ、人文社会系に限って言えば、大学での学修の準備として、「お通夜」とは違う授業を高校で経験しておいてくれればと強く願う。

とまれ、きょう大学に来てくれた高校生と来春あるいは再来春に、学生として会えれば嬉しいな。

# by walk41 | 2019-08-20 18:58 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

戦争と子ども(2) Krieg und Kinder

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1939年9月以降、ドイツ支配下のワルシャワで、幼い子どもが郵便配達人として、市民による抵抗運動を支えたことがわかる写真です。

ワルシャワ蜂起博物館の資料から。

# by walk41 | 2019-08-17 20:44 | Comments(0)

パーセント Prozent

自分が何となく知っているつもりだけで、よくわかっていないことは山ほどあるが、パーセントという言葉もその一つだ。

英語でpercent、cent は100分の1だからと合点していたが、するとperの意味が弱まってしまう。なぜ、per-hundredではないのだろうか。

さて、percentを改めて引くと、古くは、per centum、100あたり、というラテン語にもとづく。なるほど、だからcentury は100年、1世紀なんだね。けれども、centimeterは、centumから来ている言葉なのに、100分の1の意味である。どこで変わったのかしら。

スペイン語では、por ciento またはpor cien と100あたり、の意味で綴られる。またドイツ語では、Prozent、これも、per centum 流れに位置する。

言葉の成り立ちは、一貫しているような、いないような、まあ大らかなものと解した方がいいのだろうと思わされる。




# by walk41 | 2019-08-17 12:11 | ことばのこと | Comments(0)

戦争と子ども Krieg und Kinder

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「戦争と子ども」と聞くと、どのようなことを思い浮かべますか。

太平洋戦争を基本に考えがちな日本的発想というものがあるのならば、それは疎開船が撃沈、空襲などによって命を失った子どものほか、早くも10歳代後半で戦場に送られた少年兵というイメージが強いのではないでしょうか。

もちろん、それ自体すでに悲惨なことですが、1940年代前半の第二次世界大戦においては、もっと幼い子どもが兵士としてではなく、支配者に対する市民の抵抗勢力、パルチザンとして戦争に参加した事実もあることに、愕然とさせられます。

写真は、1944年8月に起こったポーランド、ワルシャワ市民によるドイツ、ナチスに対する蜂起を記念するものですが、ここに写る子ども、とくに右上の銅像に示される10歳に届かない子どもは、ワルシャワ市内に張り巡らされた地下道を通って、市民間の手紙を届ける、郵便配達人の役割を担っていました。占領下で生活する人々をつなげ、励ます上で郵便は、人体にとっての血流の役割を果たしたことかと思います。

その際に使われた地下道はとても狭く、陽の光も届かない暗い中を歩くのは、大人よりも子どもにより適していたのでしょう。多くの子どもがこれに参加し、そして痛ましいことに、やがて地下道の存在に気づいたドイツによる攻撃によって命を落としました。こうした子どもを含めて、亡くなったワルシャワ市民は20万人にも上るとされています。

8月は日本にとって、広島と長崎への原爆投下、終戦という月ですが、ところ変われば、占領軍に対する蜂起を記念する月でもあります。暑い夏、過去を振り返り、二度とこうした悲惨なことが起こらないように、天下国家を論じるだけでなく、日々の自分の生活を問い続けることが、大切だと感じることしきりです。

# by walk41 | 2019-08-16 21:47 | Comments(0)

eスクーターの未来 Zukunft des E-Scooters

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Zeit Online 2019.8.11記事。電動スクーターを取り上げている。街の公共交通の穴を埋める手段として提供されているものだが、その効用はあまり期待できないようだ。

この記事によると、ドイツでは今年の6月から登場したeスクーターは、これ自体のエネルギー効率(ここでは、輸送量に対する二酸化炭素の排出量の割合)は決して悪くないものの、この道具を夜間に回収して充電し、また配置するための輸送コストを含めると、軽ワゴン車に劣る。また、想定されている本体の耐用期間が1年ととても短く、アメリカやドイツで観られるバンダリズム(破壊行為)を考慮すれば、それはより短くなる。また、回収コストの最適化、平均5キロメートルという一日あたりの走行距離を延ばす必要といった課題もあり、現在のところは、旅行客が1回あたり2キロメートルを利用するくらいしか効用が認められない。自転車の方が便利だろうと締めくくっている。

一度、ワルシャワでeスクーターを試したことがあるが、1キロメートル少しの走行で400円ほどと廉価ではなく、まあ物珍しさで使った域を出なかった。また、操作には両手が基本的に必要で、荷物を持っての利用は難しい。上の記事には、改善の余地はあるとも書かれているが、今後どうなるだろうか。



# by walk41 | 2019-08-16 07:48 | ドイツのこと | Comments(0)

「お疲れさま」考 Üner „du musst sicher viel gemacht haben. Nimm gute Ruhe“ in Japanisch

教員が生徒に「お疲れさま」はおかしいと述べる、中学校教員の投書を読んだ(朝日新聞、20190728)。その趣旨は、丁寧語が過ぎて正しい敬語を遣えていないのではないか、というものである。

これに対して二つ言うならば、その一つは、非対称のコミュニケーションが前提にされる学校だからこそ、教員が生徒に丁寧であって困ることはないということである。

たとえば、小学校の頃はまだしも、中学校、高校になると、少なくない生徒は、どう呼んでほしいかと尋ねられもせずに、初対面の教員に呼び捨てされる。大人同士なら決して通用しない、失礼極まりない振る舞いである。「子ども相手」の仕事ゆえとも言えるだろう。

この他、授業中など、挙手をさせて指名するといった形式も権威的である。発言の交通整理上もルールならまだしも、挙手を競わせたり、自発性や意欲の指標として用いるのは乱暴だろう。おかげで、挙手できない、しない生徒は傍に追いやられる。「どの子も授業に参加するクラス」など教員の夢想に終わる。

かくも教員が生徒に暴力的な場面が多いのだから、できるだけ丁寧に対応することは教員自身の戒めとしても重要だろう。

もう一つは、「お疲れさま」と「お疲れさまです」は似て非なるものである。投書主には同じものと扱われているが、私の辞書では、前者は「上から目線」であり、後者はそれを含まない丁寧語だ。たとえば、上司に「お疲れさま」と労う部下は、失礼だと問題視される。「お疲れさま」さらには「お疲れ」は、同僚や友人など気軽な関係ゆえの言葉と解するべきだろう。

だから、教員が生徒に「お疲れさま」と言うのは丁寧語ではない。逆を考えてみればよい。生徒が教員に「お疲れさま」と言えば、怪訝な顔をしたり、不満を見せる教員のいること必至である。そもそも、生徒を呼び捨てしている教員が、生徒から自分が呼び捨てされたら怒ること間違いない。

よって、教員が生徒に「お疲れさま」と伝えることは、ともすれば上司気取りの教員が自己抑制する一つの機会として良いことである。ただし、それさえもラポール(心理的親和性)を築けていない生徒にとっては鬱陶しいことだろう。「私の何をわかって、そんなこと言うてんの」って。



# by walk41 | 2019-08-13 07:49 | ことばのこと | Comments(0)

一面的な見方を助長しないで propagiere bitte nicht das einseitige Gedankengut

近所の学校を通りかかったら、生徒が作った標語の看板が目に入った。曰く、「LINEよりも、目を見て話そう、友達と」である。

確かにSNSによるコミニケーションは、等身大での表現の場合よりも増幅されやすく、また電子データとして残るために、消えることなくさらに拡散されるといった問題がある。

しかしながら、等身大でのコミニケーションであっても、私たちは状況に応じて、目を伏せがちに話をしたり、あえて顔を横に向けて目を合わせないようにやり取りすることもある。直接会っているからといって、目を合わせているわけではない。それらは、合理的なコミニュケーションと考えられているからだ。

また、SNSに限らないが、間接的なコミニケーションが持つ効用もある。今やもう古典的になったのだろうか、ラブレターを送ることは、直接的な「告白」よりも相手により響く手段とも言えるだろう。あるいは、距離をとったコミニケーションだからこそ、内容のいかんにかかわらず、送る側も受け取る側も冷静に理解し、さらに判断できる面もある。直接的なコミニュケーションが何でも優れているわけではない。

ことほど左様に、ある行為には効用と限界のいずれもがだいたい備わっているにもかかわらず、学校教育の世界に入ると、どうもそうしたアンビバレントな発想は排除されがちなようだ。これが正解とかこれが正しいという、認識の際の癖をつけてしまうと、高等教育の段階で学ぶ際に、とても苦労することになる。

「高校と大学との接続が重要」などと言うのであれば、多くの物事には複数の側面があり、着目点の違いによってその評価も変わってくると考える癖を、遅くとも中等教育の初めの段階からは身に付けていくべきではないだろうか。

振り返れば、一面的な見方のみで物事を捉える癖を身につけ、またそれが正しいことだと見なし、さらにそれを知っている自分が優等であるとまで勘違いしていた自身を省みるに、上記のことをいっそう強く思う。

# by walk41 | 2019-08-12 11:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ベート-フェン Ludwig van Beethoven

ドイツの音楽家、いわゆるベートーベン(1777-1827)は、日本で誰もが知っているだろう人物の一人である。

これに関して、家人からこんなエピソードを聞いた。高校生のとき、試験で彼の名を「ベートーベン」と記したところ、×を付けられたというのだ。不思議に思い、尋ねに行くと「ベートーベンのベンは、ven だから、ヴェンでなければならない」と。

けれども、この教員の説明は誤りと言わざるを得ない。ドイツ語でBeethoven をカタカナ表記すれば、べートーフェン に近い。--ven を ヴェン と解したのは、英語読みを受け売りしたからだろう。同様の誤りとして、北ドイツの街で、高地ドイツ語(標準ドイツ語)の基準点ともされる、Hannover をハノーバーと記す例が挙げられる。

外来語の表記の仕方は二種類あるだろう。その一つは、なるべく原語に近いものにすること。モハメッドをムハンマド、毛沢東(もうたくとう)をマオ・ツォートン、と言うように。そしてもう一つは、いろいろな経緯ですでに定着している表記を踏襲すること。テレヴィジョン(television)をテレビ、ディパートメントストア(department store)をデパート、と言うようにだ。

だから、かの音楽家の表記も、前者にするのならば、べートーフェン、後者にするのならば、ベートーベン、である。間違っても、ベートーヴェンではない。なのに、上のような事実があるということに、音楽教師の怠慢そして傲慢ぶりがうかがえる。「教える立場」という自分を疑わなくなることで生じる悲劇である。

Komischerweise passiert ein Fall in der Schule in Japan. D.h. wenn ein Schueler Ludwig van Beethoven als "ベートーベン” auf Japanisch in der Musik Pruefung schreiben wird, koennte er minus Punkt bekommen. Der Lehrer sagt ihm, "Beethoven ist kein Beethoben, deswegen musst du ”ベートーヴェン” schreiben." Jedoch ist seine Erklaerung leider falsch. Weil sein Name selbstverstaendlich ein deutscher Name ist, soll er nach deutscher Weise ausgeschrieben werden. Oder es soll nach der Importierungsgeschichte der Woeter aus Ausland benutzt werden. Konkret gesagt, Beethoven soll ”べートーフェン” oder ”ベートーベン” sein. Das kann keinerlei "ベートーヴェン" sein. Wenn ein Lehrer zu Schueler wie oben auesseren werden soll, bedeutet das ist solcher Lehrer faul, sogar arrogant um Lehre. Dieser tragischer Fall allerdings ergibt, wenn Lehrer zweifelt sich seine Stelle als Lehrer nicht.

# by walk41 | 2019-08-11 09:15 | ドイツのこと | Comments(0)

煙突掃除人 Schornsteinfeger

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ドイツ中西部の街で見かけた、煙突掃除人のクルマです。

彼の地での冬支度の一つとして家々の煙突を掃除する人ですが、彼らを見たり服に付いた灰に触れると、幸運がもたらされると言われているようです。験担ぎも、社会により色々なことがわかりますね。



# by walk41 | 2019-08-10 09:02 | ドイツのこと | Comments(0)

警察職員の懲戒処分 Amtliche Strafe für Polizist

警察職員に対する懲戒処分が、2019年の上半期(1月から6月)で113人と報じられた(読売新聞、20190718)。

そこで、警察庁のHPで関連データを見ると、2018年の警察職員の懲戒処分者数は257人と報告されている(https://www.npa.go.jp/news/release/2019/h30_todoufukenbetu.xlsx)。また、少し古いデータだが、2013年度の警察白書に、警察職員はおよそ29万3600人とある。これらを用いれば、懲戒処分を受けた者の割合は、0.088%、1100人に一人くらいの割合だ。

これに対して、文部科学省が集約する、公立学校教職員の人事行政状況調査によれば、2017年度の場合、調査対象はおよそ92万800人。そして、懲戒処分を受けた教職員は777人、その割合は、0.084%である。この割合は、警察職員の場合とほぼ同様だ。正確な数値に改められる必要はあるものの、おおよそこの割合で、いわゆる非違行為の発生率を理解できるのではないだろうか。

ちなみに、警察職員による、強制わいせつは8人、盗撮が7人、セクシャルハラスメントが6人とも上記記事で報じられているが、この値は教職員の場合と比べて高い/低いだろうか。公務対人サービス労働者の労働環境はどのような状況か、を知る手がかりになるように思う。

# by walk41 | 2019-08-10 08:26 | Comments(0)

民族という神話 Volk als Mythos

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さらに、ドイツの学校博物館の資料から。

ナチズムは、ドイツ民族の気高さを強調するために、ゲルマン民族という祖先を創作し、世界に冠たる民族ゆえに、世界支配が当然との物語を喧伝した。

ドイツのはるか東の地でも、同様のことが起こっていた。万世一系の天皇という創作のもと、日本民族なる神話をまことしやかに語り、八紘一宇と周辺地域に対する支配を正当化したのである。



# by walk41 | 2019-08-08 06:10 | ドイツのこと | Comments(0)

遺伝的病気への対処 Maßnahme gegen Erbkranke

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引き続き、ドイツ中西部の学校博物館に展示されている資料から。

次の問題を考えてみよう。遺伝的に健康な夫婦から3人の子どもが生まれ、遺伝的に病気の夫婦から4人の子どもが生まれる。a)遺伝的に健康な子ども一人当たりいくらかかるか。対して遺伝的に病気の子どもについては。b)30年後、遺伝的に健康な子どもが成人となり、それぞれ3人の子どもをもうけ、対して遺伝的に病気の子どもがそれぞれ4人の子どもをもうけたならば、費用はどのようになるか。c)両者の割合は、60年後どのようになるか。また90年後、120年後、150年後はどのようになるか。d)さあ、我が国民80,000,000人のことを考えてみよう!国家はどのような方策をもって、これに対応するのが効果的か。(1941年の数学の教科書から)


民族浄化を掲げたナチズムは、遺伝性の疾病への注目も怠らなかった。いやそれ以上に、疾病そのものを遺伝的と決めつけ、それが拡大再生産されるという想定のもとに、該当する人々を抹殺していったのだろう。


加えて、そうしたプロパガンダが、代数の問題として扱われていたことに、驚きを隠しえない。しかも、これに対する国家の政策をも問う教科書になっていたとは。


# by walk41 | 2019-08-07 02:09 | ドイツのこと | Comments(0)

私たちの総統 unser Führer

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中西部ドイツの学校博物館にて。

1939年4月22日の日付が入った、ドイツ初等学校の生徒の作文があった。

昨日は総統の50歳のお祝いでした。この日はドイツ国民全体が幸せな気分に満ちていました。人々は家々を飾り付けました。この街の軍隊もお祝いのパレードを行いました。こうすることにより、私たちが総統の後ろにいること、そして、戦争となった場合には私たちが自身を守れることを世界に示すことができるのです。いくつかの外国の新聞、例えばイギリスは、アドルフ・ヒトラーほどドイツ国民を受けとめている総統はいないと書いています。私たちはこの2000年の歴史を振り返り掴まねばなりません、そしてローマ皇帝のことを。こうした出来事から、昨日の出来事は全世界に対して一つの教えを導くのです。

かくもヒトラーを指導者として崇拝し、ドイツ国民(民族)の一体性を強調するものとなっている。生徒が書いたこの文章を、教員が添削していたのである。

この作文から半年足らずで、ドイツは西側からポーランドに侵攻、その3週間後にソビエトが東側からポーランドに侵攻する。第二次世界大戦の始まり、そしてユダヤ人とポーランド人の大量虐殺の始まりであった。

# by walk41 | 2019-08-06 06:22 | ドイツのこと | Comments(0)

街角の図書コーナー Bibliotheken in der Stadt

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中西部ドイツの街角の風景です。

地元の大学生の発案のようで、集められた本を持ち帰ってもよいようになっています。反対に、読み終えた本をここに持ってきてもいいのでしょう。地域の銀行ほかの協賛も得ています。

とくにお祭りの後など、街中にはごみがあちこちに見られますが、この棚については鍵などついていないにもかかわらず、本とパンフレットのみできれいな状態です。そうした分別は、酔っ払っている人にもつけられているのですね。

# by walk41 | 2019-08-04 12:46 | ドイツのこと | Comments(0)

大陸ゆえの歴史 Geschichte wegen des Kontinents

ポーランド、ワルシャワでの蜂起は、1944年だけではない。その一世紀前、1830年にも帝政ロシアに対する蜂起が起こっており、音楽家ショパンもこれに参加しようとしていたという。

しかしながら、ワルシャワはロシアのモスクワを占領した歴史もあり(ロシア=ポーランド戦争にて、1610年)、必ずしも一方的な力関係ではなかった。

他にもたとえば、第二次世界大戦後、ドイツは東部の地域を手放しており、それは現在のポーランド領の西側およそ4分の1に相当する。つまり、かつてのドイツ領の一部が今はポーランド領である。あるいは、アルザス=ロレーヌ地方の歴史にも見られるように、フランスとドイツの国境も何度も変わった。

国家を形作る領土の線引きそのものが不確かならば、そこに住む誰を指して国民と言ってよいのか、また、対外関係をいかに踏まえて、国民としての連帯さらには愛国心などどう考えればいいのか。陸続きであるがゆえの関係を理解することの難しさを感じる。



# by walk41 | 2019-08-03 18:04 | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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