学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

授業改善と教育の質(ドイツ語記事)

構造的なさらなる展開によって、州政府は州の授業の質を改善する意向である。ふたつの新たな機関が、これに対して重要な支援を進めることになる。その一つは「学校の質および教員養成センター」であり、もう一つは「教育分析インスティテュート」である。

州政府はバーデン=ヴュルテンベルク州における教育システムの新たな質コンセプトを決定した。そのために、2019年に新たな2つの機関(インスティテュート)が創設される。「学校の質および教員養成センター」はすべての教員の研修と結びつき、教育分析インスティテュートは、システム的モニタリング(追跡)を担う。

質の高い授業が生徒の成績を決定する

州首相Winfried Kretschmannは「学校の成果にとって決定的なのは、質の高い授業である」と述べる。「そのための基本的前提は、学校のための質を追求する効率的な支援構造であることが明白だ。新たな機関はそこで重要なサポートを行うことになる。」文部大臣Susanne Eisenmannも、同様に強調する。「効率的な構造は学校と授業のより高い質のための基本的前提である。そのことは他の諸州の経験が示している。未来志向の文部行政にとって、新たなコンセプトは中心的なスイッチとなる。」

従来の二重構造は解消される。相談、教員研修、教員養成の領域で多くに分かれている部局、機関、団体は、新たな機関(インスティテュート)に束ねられる。学術審議会はインスティテュートの学術にもとづく実践のための相談・ガイドライン組織に特化される。

システム的な教育モニタリング

「生徒の成績と授業の質に関する確かな結果なしに、どのような教育政策やいかなる教育的コンセプトが意味を持つのかを我々は知ることができない。」と州首相。「新たな教育分析インスティテュートは、この陥穽を埋めるとともに、将来的にシステム的モニタリングを行うものである。」これにより、文部省から学校に至るまでの教育システムの次元におけるデータにもとづく質的開発の基礎を作り出す。その目的は、学習状況に関する調査といったことに関して、学校と学校監督が強固なデータにもとづき職務を遂行できることにある。」

文部大臣は述べる。「すべての学校種をまたぐ中央学習状況調査は有意義であり実施されることになる。我々は子どもがどのようであり、個々を支援できるかを知らなければならない。」教員研修と授業コンセプトは、その実施から効果までを検証されることになる、と文部大臣。

中心的な教員研修

新たな「学校の質と教員養成センター」は、授業と学校の質向上のための教員養成、研修(継続教育)および支援コンセプトを将来的に発展させる。教員の相談、支援、研修のための文部行政内の状況は、これまで著しくバラバラであった。

「このセンターの中心課題は、州全体にわたって将来的に高い公平な質を担保できるようにすることである」と州首相。そのために、必要な学術的なデータの基礎を教育分析インスティテュートは提供する。この二つのインスティテュートは密接に連携する。地域の単位は、中央で開発された諸概念を各地域での担うことになる。」

並立的な構造を解消することが効率的な行政につながる

「合わせて、文部行政における並立的な構造をなくし、効率性を高めるためのリストラを行う」と文部大臣。そこでは現在の人的資源が活用される。」

現在の教員研修の課題と学校監督の相談業務については、「学校の質および教員養成センター」とその地域支所へと引き継がれる。州立教授・教員養成および教育専門セミナーも同様に、地域支所へと統合される。教授・教員養成セミナーは今後、学校種に対応した教員養成のほか、教員研修課題も担うことになる。すべての地域支所は「教育支援中央オフィス」として学校と各人からの問い合わせに対応する。学校心理学的な業務については、変更しない。

「学校の質および教員養成センター」には学校スポーツ、学校芸術および学校音楽インスティテュート、同様に州立学校芸術・学校-アマチュア劇アカデミーも含まれる。従来の州立の教員研修および人的開発アカデミーと学校開発アカデミーは、新たなインスティテュートに移譲される。「学校の質および教員養成センター」は、州メディアセンターあるいは州青年音楽アカデミーなどの文化領域施設と引き続き協力を行う。(バーデン=ヴュルテンベルク州、州政府ニュース、20180424、https://www.baden-wuerttemberg.de/de/service/alle-meldungen/meldung/pid/mehr-qualitaet-im-bildungsbereich/)


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# by walk41 | 2018-04-25 21:18 | ドイツのこと | Comments(0)

文責

学生からのメールにちょっとしたミスがあり、やんわりとたしなめたあと、大昔の自分のことを思い出した。

大学職員の下っ端として働き始めてまもなく、ある研究室から研究成果が上梓された。そこで、関係諸氏に献本をするにあたり、研究代表者の挨拶文を同封するのだが、なぜか本人ではなく私が書くことになったのだ(そのことを疑問に思わなかった自分のあんぽんたんさにも呆れる)。

そこで、今よりももっと世間を知らなかった私は、この文章の責任は研究代表者にではなく、私にあるのだと伝えるつもりで、挨拶文の末尾にカッコ書きで自分の名前を、つまり(文責 榊原禎宏)と記したのである。

後日、近しい方から「あれはおかしい」と指摘を受けて、それでもなお「そうなのかなあ」と思っていたくらいだから、厚顔無恥というべき20代だったのだろう。いわば定型の挨拶文に文責という表現が馴染まないということを知らなかったのだ。

そして今、したり顔で若人に接しているつもりはさらさらないけれど、今の20代の方がしっかりしていることも多くあるだろうなと、あくまでも至らぬ自分の例を引けば思う。30年近く前のことだが、まあいい加減なものであった。今でも他者に話して笑ってもらうくらいである。



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# by walk41 | 2018-04-24 22:05 | Comments(0)

大学の連携先

教員養成の単科大学に勤めているせいか、同じく教員養成に関わっているとはいえ、総合大学の教育系学部の様子については、知らないことがきっと多いのだろう。こんな記事を目にして驚いた。

…秋田大学教育文化学部及び大学院教育学研究科と秋田刑務所は、それぞれの持つ人材、知識、情報などの資源を活用して相互に協力することにより、再犯防止推進法等の推進、人材の養成に寄与することを目的として連携協定を締結しました。

主な連携内容は、学生の人材養成(公認心理師養成に伴う講義や実習に関すること)や教員の共同研究(受刑者の特性に応じた改善指導方法の検討)など。(中略)

武田学部長は「秋田刑務所とはこれまで教員の研究面での交流は行われていた。平成30年度から心理学の初の国家資格である公認心理師養成のカリキュラムが開始されることを受け、学生が矯正領域での心理学を学ぶ場としてさらなる協力を仰いでいきたい」と述べました。五十嵐所長からは「大学の研究のノウハウを反映させていただくことによって、受刑者の改善指導のプログラムに対する効果検証等、より良いものとなっていく。再犯の防止に向けてさらに取り組んで行きたい」と挨拶がありました。(後略)…(「秋田大学広報誌<アプリーレ>No.59、2018)





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# by walk41 | 2018-04-23 23:00 | 大学のこと | Comments(0)

女性頼みの観光誘致?

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秋田県観光連盟のポスター。私が見た限り4種類あり、うち①「秋田、総おもてなし宣言」が2種類、②「みんな、秋田の案内人」が2種類である。これらを見ていて気になったのは、登場する人たちに占める女性の割合があまりにも高いのではないかということだ。

①は写真のようだが、このポスターには28人が登場し、うち女性は22人。8割以上が女性である。もう一枚は、27人中19人が女性、約7割を占める。

また②には合わせて54人が載っているが、このポスターは「カンバン娘」とも銘打たれており、全員が女性である。

これら4枚に載る人はあわせて109人、うち女性は95人、ほぼ90%に達する。男性が登場する①に限っても、55人中41人が女性、およそ75%である。

つづめれば、過半数、さらに8割、9割に達するほどの女性占有率は、明らかにバランスを欠いていると思う。ひょっとしたら、観光業界の多くが女性によって担われているのだろうか。それとも、女性の表情がより観光へと誘うのではという思惑ゆえだろうか。このポスターの製作者の考えを知りたいものだ。




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# by walk41 | 2018-04-22 07:13 | 身体 | Comments(0)

女子大学のジレンマ

女は大学に行くな、という時代があった。
専業主婦が当然だったり。寿退社が前提だったり。
時代は変わる、というけれど、いちばん変わったのは、
女性を決めつけてきた重力かもしれない。
いま、女性の目の前には、いくつもの選択肢が広がっている。
そのぶん、あたらしい迷いや葛藤に直面する時代でもある。
「正解がない」。その不確かさを、不安ではなく、自由として謳歌するために。私たちは学ぶことができる。
この、決してあたりまえではない幸福を、どうか忘れずに。たいせつに。」

神戸女学院大学の電車内広告だ。なかなかパンチの効いた、私好みでの真っ当な広告だと思う。

けれど難しいのは、この大学が男女共学ではないこと、またこう謳うけれど少なくとも当面は共学にならないだろうことだ。「女人禁制」と対をなしている「男子禁制」の一例としての女子学校は、女らしさ、良妻賢母などを多分に理念に含んでいる。この大学も学費の高い「お嬢さん大学」だとも聞く。全ての人に門戸が開かれている訳ではない。

自由になるとは、既存の理念や制度を問い直し、別のそれらを探すことでもある。けれど、これまでの学校イメージ、ある意味でブランド性を放棄することはできない点に、大学という場に立てられる理念と大学経営とのズレを見る。

以前の拙ブログで、平安女学院大学の電車内広告を例に、貴婦人を育てるかのようなイメージを打ち出す一方で、就職率100%を謳うことの不思議さを述べた。構図は違うけれど、今回の例も女子大学の抱えるジレンマかと、広告を見ながら感じた。



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# by walk41 | 2018-04-21 06:36 | 大学のこと | Comments(0)

実科学校修了試験のドイツ語を延期(ドイツ語記事)

バーデン-ヴュルテンベルク州、州政府ニュース(20180416)

実科学校修了試験のドイツ語が、試験問題の学校への通知の際、安全の保持が担保されないことが明らかとなり、4月18日から4月27日に延期される。文部大臣Susanne Eisenmannは、失態に怒りを隠さない。

文部省は州教育局および学校に対して、実科学校修了試験のドイツ語を4月18日から27日へ延期することを通知した。4月13日にBad Urach市のある学校において、ドイツ語の筆記試験問題の入っていた封印が破られ、完全に開かれた封筒が見つかった。文部大臣Susanne Eisenmannはこの失態に怒り、該当する生徒に対して大変申し訳ないと述べた。

これでは試験問題が漏れなく確実に学校で実施されないことが明らかである。何者かによって封が破られ開けられており、問題の引き渡しプロセスがクローズされていない点から言えば、第三者が試験問題に近づいた可能性を排除できない。

「あらゆることを勘案すれば、試験問題が拡散され、またさらに拡散する可能性を排除できない。インターネット時代、問題が空間的に広がるわけではない。よって、法的な精査にも抵触する 既存の試験制度は確かなものとは言えない」と文部大臣。明らかに大変申し訳ない、たとえ生徒たちにとって多大な不快なことではあっても、このまま進めることはできない。

変更後、4月27日に試験は実施される。4月18日に実施すべく問題の用意と配布をすべての学校に対して行うことは、印刷の問題から不可能なためである。

「試験問題の安全保持はもっとも重要なことである」と文部大臣は強調する。「いっそう憤るのは、彼の地では配慮と注意が欠けていたことである。こうした誤りがおよそ40000人の生徒に影響を及ぼした。」

数学の筆記試験は4月20日に、英語の試験は予定通り4月24日もしくはフランス語試験が25日に行われる。ドイツ語の試験は今年度、筆記試験の最初ではなく最後に実施されることになる。


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# by walk41 | 2018-04-18 14:57 | ドイツのこと | Comments(0)

女人禁制再論

「仏教の教える『女人禁制』」(新潟日報、20180416)という、住職からの投書を読んだ。

それによると、大相撲は神事とされているが、女人禁制は仏教語であること、そもそも仏教は「男女を論ずることなかれ」と男女平等を説き、女性を汚れているとするのは他の思想であること、そして女人禁制は、「男が女に魅かれ修行できなくなることを防ぐため」なのだという。

なるほど、とりわけ明治期以降に強調された女人禁制は、男尊女卑を基盤とする家父長制という家制度と不可分なことが、仏教の側からも説明されることがわかる。ならば、なおさら「女人禁制は神事である相撲の伝統」なる語りが歴史的には最近、発明されたものと言える。

それにしても、女人禁制が修行の妨げになるからだとは、ちょっと格好悪い。食欲、性欲、睡眠欲とも言われる、ある意味で人間らしさの象徴でもあるのだから、それを含めて宗教があってほしいな。カトリック教会の修道院での性的虐待事件など、どこかで無理が出るからね。






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# by walk41 | 2018-04-16 15:26 | ことばのこと | Comments(0)

これは男女平等とは言えない

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日本酒のうつわ展をやっていたので覗きにいった。モダンな作風もあり、楽しませてもらったが、会場内に示された「日本酒マナーとNG」と題するガイドについては、がっかりだった。

写真の右側、お酒の「受け手」の説明にこうある。「女性が受けるときや相手が目上の場合は、片手で杯を軽く持ち、もう片方の手の指先を杯の底に添えます。」

「目上」かどうかでルールが変わるのは、地位や年齢による差異化であるのに対して、男性か女性かでルールが変わるのはセクシャリティにもとづく差異化である。男性が受ける場合は片手でも構わない、両手を添えることが「女性らしい」振る舞いと想定されている点で、セクシャリティをきっかけにジェンダーバイアスを生じさせている例である。

せっかく楽しくお酒を飲む場面なのに「女性の場合は…、相手が目上の場合は…」と窮屈なことだ。こんなルールを真に受けて、間違って相手に指摘したら、いっぺんに楽しくなくなってしまう。

それとも、特定の社会的関係を維持させるために、ここではお酒、他では「新社会人は…」とウンチクを垂れる機会を利用しているだけなのかしら。いずれにしても、「何となく滑り込む常識」に対して、より分析的でありたいと思う。

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# by walk41 | 2018-04-16 06:44 | 身体 | Comments(0)

博物館の頑張り

新潟市歴史博物館を訪れた。

信濃川と阿賀野川による砂丘の出現と田んぼ化の歴史、江戸時代における新潟町と沼垂町の三度の裁判と新潟町の決定的勝利、潟の暮らしと治水の歴史をとても興味深く知ることができた。さらには、広島に原子爆弾が投下されたことを受けて、集団疎開の通知が出され、終戦時の新潟市は人気のない状態だったことも悲しい歴史として学んだ。

このほか、30分に一度、上映される三種類の映画も、面白い博物館企画と見たが、たまたまのことながら、昔の衣装に身を固めたボランティアのよるスタンプラリーの企画と出合い、楽しませてもらった。http://www.nchm.jp/contents07_topic/07index.html#20180330 に当日の様子の記事あり。

ともすれば敷居の高い博物館により親しんでもらいたいゆえとも聞いたが、惜しむらくは、ボランティアによる衣装の説明がなく、尋ねたのだが「広告です」と曖昧な答えしか返って来なかったことだ。せっかくそんな格好をしているのになあ。

それでも、新潟市がなぜ柳都(りゅうと)と呼ばれるのか、また明治期終わりの新潟市賑わぶりを知るきっかけになった。さらに、楽しいプログラムにさらに挑戦してほしいと思う。

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# by walk41 | 2018-04-15 08:27 | Comments(0)

自然のものとは知らなかった

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忍者ゆかりの屋敷を訪ねた。防衛のための家づくり、二階への隠し戸、地下道に続く穴、返し戸、襖に見せかけた厚い板など(ただ、なぜ忍者が住む屋敷をこのように細工したかはわからず終い。それほど外敵に襲われるほどに有名だったのだろうか)のほか、忍者の用いた道具も見られて面白かった。

その中で自分としての一つ発見は、撒菱(まきびし)と呼ばれた、追っ手に向けて投げることで、追跡を抑制するために使われたという道具、一種の武器について。これは、金属製のものもあったが、多くは写真のように菱の実だったということだ。みなさんはご存じだっただろうか。

菱は水草でその実を乾燥させると、少なくとも二箇所の尖りを持つかなり堅いものになる。実際に触ってみるとけっこう痛い。こんなものを踏んだり、投げつけられたら、確かにたまったものではない。

撒菱という言葉は聞いていたけれど、実はこういうものだったということ、同じようなことは数多あるだろうけれど、勉強になりました。



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# by walk41 | 2018-04-13 21:20 | Comments(0)

敬老者

宮城県で老人クラブが花見に出かけるため、電車の座席を確保すべく、A4版くらいの白い紙を置いて、他の乗客が座りにくい事態を招いた、という(ライブドアニュース、20180410)。その紙には「次の駅から、敬老者が16名乗車します」と書いてあったらしい。

自分たちのことを「敬老者」と称する不思議さに気づかないのかと、不思議に思う。

似たような言葉を並べると、たとえば、成功者、開拓者、発見者と、「者」の前はいずれもその人の修飾となっている。となると、敬老者は「老人を敬う者」ということになるが、どうもそうではないらしい(まあ、自分で自分のことを敬っても構わないのだけれど、それを他者に吹聴するのは格好悪い)。ちょっと似た言葉に、博愛者、があるけれど、これも「者」を修飾するものとして通じるだろう。

ひょっとしたら、紛らわしいのは「敬老会」かもしれない。敬老の日、敬老のつどい、は、お年寄りの長寿を喜び、祝う場の意味だとわかるが、「会」となると、元々はそうした「場」の意味なのに、敬老されるべき人が集っている「団体」へと指すところが変わってしまうのでは。つまり、敬老会は、壮行会、激励会、誕生会、といった言葉と同じ並びなのに、「老人会」のような意味でも遣われているためではないだろうか。

それにしても、老人による座席取り、高齢化が著しい昨今、また問題になるだろね。善意は控えめな人にこそ向けられると、私は思うけれど。



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# by walk41 | 2018-04-12 12:49 | ことばのこと | Comments(0)

「少し」は何ポイントか

50歳の声を聞いて「何かしなくては」と始めた乗馬、下手なりに続けている。

レッスン中に受ける、やんわりではあるけれど手厳しい注意やアドバイスは、とってもほんわか、つまり、曖昧なものである。

「もう少し手綱を張って」「姿勢が良すぎるので、ちょっとだらしなく座って」「拍車の当たり方がきついから、さわる感じで優しいめに」といった表現は、何となくわかるが、正確に発信-受信できているかと言われれば、心許なしとしない。はっきりとはわからないからだ。「少し」と言われたことに対して、「何ポイントのことですか」と返しても、実りはない。客観的にこれらを表現できるかと問うても、指導員も困ることだろう。その辺りの雰囲気をつかんでほしい、と返されること、きっとである。

翻って、数値化論やPDCAサイクル論、説明責任やエビデンスといった言葉は、いささか失礼な物言いだけれど、客観性に対するあまりに素朴な信念をもつ人、つまり幼い人たちに喧伝されていると思う。

もっとも、数字に置き換えれば正しく把握できるはず、客観的な記述があれば再現できるはず、とは、ある部分においては当てはまる。ある部分とは、対象が静的、少なくともゆっくりと動くくらいの変化に留まる、また、主体と客体(対象)との関係がおおよそ独立している、という条件を持っていることである。さて、こうした条件を伴う事象はどれほどあるだろうか。

たとえば、学校の年間スケジュールは、修学旅行をいつ行うかと決めれば、それにしたがって準備、実施、点検、評価できる。決められたスケジュールに対して、個々の教員が影響を及ぼすことはなく、もしそうなりかねない時は、当該教員が排除される。PDCAサイクルを回すことが優位するのだ。

けれど、一つの授業において、こんなことをしようとつもりをしても、その日の天気、生徒の様子、教員自身の体調、ハプニングなどによって、予定通りに進むことはあまり期待できない。主体と客体の関係はかなり相補的であり、ピンで壁に紙を留めるようには行かないからだ。「計画に即して」の優先順位が下がるとも言える。そもそも、はじめにあまりにつもりをすると、却ってぎごちない、生硬なものになりかねない。柔軟さを欠いて不格好なのだ。

乗馬もまさにそのようだと思う。乗り手によって馬の様子はまったくといっていいくらい違う。同じ馬なのに、指導員が接するとこんなにも従順なのかと驚かされる。接している頻度や態度が影響するのだろう。そんなことを知らずに不用心に近づくと、人も馬もびっくりする。

また、同じ馬でも、その時の体調によって決して一様ではない。朝の調子と午後の調子が違うのは当たり前だし、走っている際にちょっとした物音に驚いて急に止まることもある。それは誰のせいでもない、仕方のないことである。

乗馬クラブで「生き物相手ですから」とはよく言われることだが、これも教室や授業でそのまま当てはまる。ライブなのだから、予定するのは構わないけれど、まずはそのように進まないし、無理をして予定(つもりや計画)に合わせようとすると、痛いしっぺ返しをくらうことになると、心すべきだろう。あわせて知るべきだろう。先を見通せないことこそ、おもしろさ、醍醐味でもあるということを。

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# by walk41 | 2018-04-12 08:02 | ことばのこと | Comments(0)

学校の実力

新学年が始まり、気持ちは早くも次年度の入試だろうか。週刊誌各紙は、高校ごとの大学入学者数を大見出しで連日掲載、どの高校に行けば有利かと煽るがごとくである。

けれど考えてみてほしい。「実力がひと目で分かる」(サンデー毎日、20180422号)と謳うけれど、学校に行くことで得られた受験結果は、どれほどだろうか。

多くの高校生が塾や予備校に日常的に通い、夏期講習などにも参加している。これらを通じて受験学力を期待できるから、賑わっているのだろう。現に、予備校の紙面やチラシは、合格した生徒の顔写真入りで満載、次の生徒獲得の広告塔である。

また、いわゆる家庭の教育力、つまり、高校生たちが過ごしている家の経済的・文化的状況(勉強に充てられる時間、集中できる静かな部屋があるか、購入できる教材の上限、受験に理解があり加えて支援的な保護者の存在のいかん、受験に際しての選択肢の幅、受験での言語コードとの親和性といった)も影響する。本人ではどうしようもない条件や環境が、受験に肯定的・否定的に働くことは、容易に考えられるだろう。

これらのいわば残りとして、学校の実力が位置する。そこで考えられるのは、教員の授業力や進路指導力もあるだろうが、クラスメートとの情報交換といったインフォーマルなネットワークである。後者は、「学校の」というよりも「学校を通じた」と言うべきではあるが。

これらを考え合わせると、各学校の実力とははなはだ心許ない。メディア各社とも、このことを承知の上だろうなのに「公平な競争の結果」かのように報じるのは、けっこう罪深いものである。

乱暴な単純化をすれば、「出来る子」がそうした子の集まる学校に行き、上級学校へと送り出されているだけーこれで多くの事実が説明できるのではないだろうか。

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# by walk41 | 2018-04-10 11:12 | ことばのこと | Comments(2)

ランドセルの色

きっと今日が入学式なのだろう。保護者と連れ立って歩く小学校1年生らしき子どもを何人か見かけた。そこで、ランドセルの色は女の子なら赤、男の子なら黒、と言うのが常識だという見方が、いかに歴史的限定つきかを感じる。

私が見た女の子のランドセルは、紫と青だった。小学生を持つ知り合いのお母さんにそのことを尋ねると、いまテレビかで紫色の主人公が人気らしいですよ、と返ってきた。なるほど。

グローバル化とは、一面で画一化が進むことだけれど、もう一方、ローカルやナショナルな、多分に不文律な規制の縛りから解き放たれていく過程でもある。性別によって色が区別されるという規則も、いまや去りつつあるのかもしれない。

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# by walk41 | 2018-04-09 10:44 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

研究が活きるということ

倒れた市長を介抱しようと、看護師の女性が土俵に上がった際、「女性は下りてください」と繰り返し場内アナウンスが流れた舞鶴市での件をきっかけに、土俵と女人禁制の関係が論じられている。

その報道の際に紹介された論文、吉崎祥司・稲野一彦「相撲における『女人禁制の伝統』について」(『北海道教育大学紀要 人文科学・社会科学編』59-1、2008)を、読むことができる。http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/933/1/59-1-zinbun-06.pdf

なるほど、相撲が神道と長い関わりのあることは事実だが、女性が土俵に上がることが認められていなかった「伝統」は確かめられず、それどころか、反対に、女性が力士として相撲を取る様子が描かれる記録が残されているというのは、けっこうな驚きである。

くわえて、日本書紀に登場する、相撲に関するはじめての記述が、「采女による女相撲」だという指摘は、日本相撲協会の話がむしろ逆さま、つまり相撲は女性によって始められたのではないかとすら思わされるほどである。
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また、上の絵は、同論文の76ページに掲載されているが、見事なまでに女性による相撲の様子を示している。しかも、これらが例外だったとか、禁止されたという話ではないことが興味深い。

さて、この論文は次のように締めくくっている。「『相撲は神道との関わりがあるから女性を排除する』というような論理は、明治以降に相撲界の企図によって虚構されたものと考えられるのである。」(同、p.86)

この論文が発表されたのは10年前、それが昨今の出来事をきっかけに読まれている。「すぐ役に立つ研究」流行でもあるけれど、「いつ役に立つか必ずしもわからない研究」もまた重要なことを、今回の件は示しているだろう。










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# by walk41 | 2018-04-08 12:49 | 研究のこと | Comments(0)

一緒と一斉

小学校に入学時にすでにパソコンへのローマ字入力ができたという子どもさんを持つ、知り合いの話。

ある意味で残念ながら、小学校の授業はすこぶるつまらないようで、回りとは違うことをしていたら、叱られて、積極的不登校になった。

担任教員との話で、保護者が「他の子どもさんには迷惑をかけないようしますから、この子には別の課題を与えてもらえませんか」と伝えたところ、こう返ってきたとのことだ。

「○○ちゃん、学校はみんなと一緒に勉強するところだからね。そうは行かないのよ」と。

唖然である。この教員には「一緒」と「一斉」の違いがわからないのだ。教員が言っているのは一斉に、つまり子どもがみな同じことをすることであり、一緒にではない。

一緒とは、一人でするのが必ずしも合理的ではない作業の場合にふさわしい形態である。たとえば、たくさんの量を調理するときに、材料を洗う、切る、鍋を火にかける、食器を用意するといった作業を複数が分担して進めること、あるいは、見張りや点検など、一人では見落とすかもしれない作業を複数で行うといったことである。

同じ課題を一斉にやろうとすると、どうしても早くできる人とそうでない人が現れる。だから、一斉にやる授業は、常に「誰かを待たせ、また誰かを置いてきぼりにする」ことで成り立つ仕組みとも言える。だから、一斉の授業が有効なのは、ポイントをしぼり、短時間で行う場合に限られなければならない。なのに、この教員にかかれば、学校では一緒が当たり前らしいから、さぞ不公正な時間が長く流れていることだろう。

「一緒に学ぶ」「言葉がつながる」「授業を練り上げる」…、下品な言い方でごめんなさいね、教員だけの「頭がお花畑状態」は大概にしませんか。授業は子どものための場である、教員が主人公よろしく子どもたちに「はい、こっちを向いて」と教壇の上でスターを演じるような前提はもう博物館入りにしてほしいな。

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# by walk41 | 2018-04-08 11:42 | ことばのこと | Comments(0)

新刊書のお知らせ

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教育課程はおよそ専門分野ではないのですが、いわばお手伝いとして関わった本ができあがりました。大学で多く遣われて、この度、9年ぶりの改訂を行ったものです(山﨑準二編『教育課程 第二版』学文社、2018)。

この中に「諸外国における教育課程の現状」という章があり、ドイツについて記しました。2000年初頭の「教育スタンダード」の登場とその後の運用、公教育の質的保証と追跡、そして事例の州における教育課程の概要(2016/2017年版)を紹介しています。

昨年秋に、この本が改訂されるという話をうかがい、どこまで手を入れればいいかと思案しましたが、彼の地でも教育課程(学習指導要領)が改訂されていることもあり、部分的な手直しではすまないと、約10000字すべてを書き改めました。

できあがって献本があり、他の章を含めて斜め読みしましたが、書き直して良かったと思います。中途半端なことをしなくてよかったと。

ご興味のある方は是非、手にとってくだされば幸いです。

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# by walk41 | 2018-04-06 22:51 | 研究のこと | Comments(0)

これはおかしい

NHKあさイチ、2018.4.3の放送にて、洗濯機を取り上げ、縦型とドラム式の良さ、拙さを扱っていた。

家電メーカーを訪問し、スタッフに家庭ではどちらを使っているかを尋ねる。片方が56%、もう片方が44%と表されたが、実は5人と4人、計9人に質問した結果である。パーセント表記では少し差があるように見えるが、実数は1人の違いだけ。誤差の範囲といってもよい。

放送の主眼は人数にはなかったものの、それでもこの報じ方は問題だろう。百分率で表示するのが適しているのは、100分の1の単位が問題になる場合であり、たとえば企業の売り上げが3%伸びたとか、8%の消費税がかかるといくらになるかといった事柄が相当するのではないだろうか。

と、私は思うのだけれど、大げさに訴えるかのようなパーセント表記。はたして、適切な報道の仕方だろうか。

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# by walk41 | 2018-04-05 18:20 | Comments(0)

ハラスメント再考

世ではいろいろなハラスメントが叫ばれ、おしなべて権力や権限が上位の者による、下位の者に対するハラスメント(嫌がらせ)と解されているように思う。いわゆるパワーハラスメントである。

このことを認めない訳では決してない。上司から部下への、教員から児童・生徒・学生といったハラスメントは現にあるし、また今後もありうる点で大いに問題にしてよい。その理由は理不尽(いわれなき行為)だからだ。

ならば、部下から上司への、児童・生徒・学生から教員に対するハラスメントも、同じように理不尽なこととして、あり得ると見るべきではないだろうか。たとえば、職場で部下(といっても、学校では垂直的な階層理解がなされない面があり、それほど部下なわけでもない場合がある)による上司に対する暴言は、ハラスメントではないのか。

上司に当たる立場の者は、往々にして我慢を強いられ(つまり、我慢して)、公的な問題になることは珍しい。「上の立場たるもの、こうしたことでハラスメントと騒ぐのは、大人げないし、またそうした部下を抱えていることが自身の監督責任を問われかねないことになる」と考えるからだろう。このことで上司役が声を大にするのは稀かと思われる。なんといっても、格好悪いからだ。

けれど、上司役の立場がこうして黙っていることを受けて、部下役の立場が暴言を吐くといったことが認められていてよい訳ではない。部下役といえども、それなりの職責を負っており、それを全うすべく全神経を傾注することが求められている。それが能力的か環境的な理由かはさておき、十分にその役割を果たせないときに、叱責されたり、厳しい励ましを受けることはあり得るだろう。これに対する非反省的な態度は認められるのだろうか。あるいは、そうした指摘すらないにもかかわらず、自身のマネジメントができずに、いわゆる暴発したり、八つ当たりするといった行為が、上司役よりは重みが少ない立場ゆえの「気軽さ」で行われるとすれば、それは組織にとって悲劇である。こうした場が生じることの責任はどこにあるというのだろうか。上司役だけに帰属させられる訳では決してないだろう。

ハラスメントは、嫌がらせという意味である、だから、上位から下位に対することがより多くありうるが、だからといって、その逆が皆無な訳ではない。下位から上位に対する理不尽もありうることを踏まえて、この言葉を用いる必要があると強く思う。



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# by walk41 | 2018-04-04 22:14 | 身体 | Comments(0)

抑留されたのは日本兵だけではなかった

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京都府の北部に位置する、舞鶴引揚記念館を訪れた。ワンフロアだけのこじんまりした展示だが、第二次世界大戦後の世界情勢と戦争の愚かさ、悲しさをより知る上で、貴重な場と感じた。

広島と長崎に原爆が投下され、ソビエト連邦が対日宣戦布告戦争をして数日後、天皇の「玉音放送」で戦争が終わる。その後、主に満州国にいた日本軍兵士たち、およそ60万人がソ連各地に送られ、シベリアほかの開発の労働を強制させられることになった。そして多くが飢えと病気により極寒の地で亡くなった。

…といった辺りは知っていたつもりだったが、そこにヨーロッパ戦線に投じられていたドイツ兵もいたことは露ほども知らなかった。日本兵とともに暮らし、亡くなった方もいたと当事者による記録にはある。

日本とドイツ、10000キロメートルほども離れた祖国から、それぞれ、遠く東に、遠く西に連れていかれ、故郷に帰ることができなかったことは、さぞ無念だったと思う。「ソ連の非情」と言う人もいるけれど、そもそもなぜ異国の地にいるのか。それは名前は何であれ、そこを侵略、統治していたからであって、戦後の北朝鮮によるたとえば日本国内からの拉致とは別物と見るべきである。

くわえて、終戦当時、海外にいた600万人の日本人について、日本政府は現地定住の方針を持っていたと、この記念館にて説明されていたから、敗戦国の棄民された人々は、各地で凄まじい暴力にあったことだろう。いずれにせよ悲惨なことである。戦争が引き起こす悲劇ー人々が怒り、他者に対する暴力に驚くほど鈍感になるという事態ーを、抑止することが一番の責務と思わされる。

もっとも、比較的軽度な労働に従事したケースもあったようで、そこではソ連の人々と仲良くなり、子どもを宿した現地の女性を残して、日本に帰った兵士がいたことを窺わせる絵が残されていたりもする。それはそれで大変なことだけれど。



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# by walk41 | 2018-04-04 08:04 | Comments(0)

和風建築

享保年間(1716-1736)に創業し、国の有形文化財に指定されているという宿に泊まりました。

いわゆる和風です。畳、襖、障子はもちろん、床の間の掛軸と生け花、立ち姿を見る鏡、衣紋掛け、欄間や鴨居、天袋もありました。縁側も。基本すべて木製で、黒光りする様子に年季を感じさせられる。いまやすっかり博物館ものでしょう。

鑑賞している限りは構わないのですが、使うとなると不便なことがよくわかります。椅子がないので立ち座りが面倒で、始めから布団を敷かれていたりすると全く手狭なのです。天井が低く圧迫感もたっぷり、時代物ゆえ仕方がないのですが、棚がないので物を置けず、いわゆるコンセントがほとんど見当たらない、とも言えるでしょう。

翻って21世紀の現在、電気プラグは必須ですし、収納スペースもないと困ります。また、身体がそう馴染んでいるからでしょうが、場所が決まった椅子とテーブルの方が動きやすいと思ってしまうのです。

つまるところ、私にとって和風建築は資料的に眺めるくらいが、ちょうど良いようです。異文化体験のひと時に、ちょっぴりくたびれました。





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# by walk41 | 2018-04-03 16:03 | Comments(0)

春を楽しむ

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桜の開花、三分咲き、五分咲き、満開などと言いますが、これは同じ木なのに同じように咲いている訳ではないことを意味しますね。まだ蕾みのもの、もう少しで咲きそうなもの、見事に花開いたもの、そして早くも落ちて、あるいは散ってしまったものがあります。片やまだ蕾の枝があるのに、別の枝ではすでに若葉が出はじめているものもあり、驚かされることしばしばです。

鳥に留まられ、揺らされたのでしょう、きっとまだ咲いたばかりなのに、落ちてしまった花がありました。それらを集めると、こんなにもきれいに手の中で映えます。水面に投じたら、まるで小舟のようにぷかぷかと流れていきました。

もう何十回も春を迎えていますが、今年は格別に輝いて見えます。大切に過ごしたいと思います。



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# by walk41 | 2018-03-31 20:37 | Comments(0)

春の訪れを祝う

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日本国内であっても、桜の開花にはずいぶんと幅があるでしょうが、ここ京都近辺ではまさに桜が咲き乱れ、の様相を呈してきました。

ほとんど人気のないところに、かくも立派な桜が咲いていました。この風景をしばらく二人占めしたことです。

少し寒い空気も感じながら、静かにだけどしっかりと咲いている、またこれから咲こうとする、そして花びらはもう散り若葉を控えている、いずれの桜を見ても感じます。それなりに厳しかった冬を振り返るとともに、ようやく訪れた春を、全身で嬉しく楽しく受け止めたいと。

「祝う」という言葉の意味を長らく理解することができませんでしたが、この春に至って少しわかったような気がします。

春の訪れを心から祝いたいと思います。





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# by walk41 | 2018-03-29 22:04 | Comments(0)

学校部活動「適正化」狂想曲

学校での部活動を減らし、教員の働き方改革を進めるトーンが強まっているが、最前線の各学校とそれを支援する教育委員会では、混乱を極めているように思う。

教員の過重負担、長時間労働を抑制するべく、「土曜日及び日曜日は少なくとも1日以上を休養日とする」、「1日の活動時間は、長くとも平日で2時間、休業日では3時間程度とし、できるだけ短時間に、合理的かつ効率的・効果的な活動を行う」(スポーツ庁ガイドライン)などと出されているが、その現実味が乏しいために、いろいろな解釈がなされていると聞く。グランドの準備、道具出し、練習あるいは試合、片づけ、グランド整備をすべて含めて、この時間内に活動を終わらせることが実際にはできないからだ。

このため、たとえば次のような解釈がありうる。
・活動時間とは、生徒が部のスポーツをしている時間、たとえば走る、ボールを追いかける時間だけを指し、準備や片づけ、待ち時間などは含まない。

・土日曜日の少なくとも1日を休むというのは、土曜日の半日と日曜日の半日、合わせて、1日としてこれらも「1日を休む」ことと見なす。

もう無茶苦茶である。これだけ拡大解釈せざるをえないほどに、体育連盟などに加盟することに伴う活動実態があるということだ。だから、上記の基本線を守ろうとすれば、各学校には、こうした団体に参加しない、つまり試合に出られないという選択しか残らなくなる。でもそれでは、生徒がかわいそうであり、そもそも部活動をやる意味がない。じゃあ、部を廃止することになるが、それでいいのか、という話になる。

原理的また実際的に、これまでのような部活動を続けるのか、止めるのか。この帰路に学校と教育委員会は立たされている。あるいは、ドイツの学校のように、週に一度、2時間程度の活動でできるものにしていくのか。これまた「もっとやりたい」という声にかき消されてしまうだろうなあ。



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# by walk41 | 2018-03-28 11:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

論文が出来上がりました

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森脇正博・榊原禎宏「教員の『わいせつ行為』に関する統計的再分析ー学校種間の発生率の検討」(京都教育大学紀要、第132号、201803)が出来上がりました。

文部科学省と警察庁のデータを用いて、教員による「わいせつ行為」の発生率を16年間分、調べたものです。同様の論文をこれまで二本書いていますが、今回は、学校種の違いを明らかにしたことが「売り」の一つです。電子データ化されたものが、じきに京都教育大学のページ上に載りますので、ぜひご一読を。もちろん、紙媒体ならば、すぐにお渡しすることができますよ。

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# by walk41 | 2018-03-27 17:41 | 研究のこと | Comments(0)

自分を主語に他者のことを言う

みなさんは、自分を主語にして、他者のことを言う、言い方を換えれば、他者が自分のことを、あたかも自分のことかのように言うのを聞いたら、どう思うだろうか。

「私は静かにします」が、自分のことを自分で決めて行動するさまならば、「どうぞお好きに」で済む話だ。けれど、これを他者によって言われると不思議な感じがしないだろうか。「なに勝手に言うてんのん」って。

ところが、学校ではこうした不思議な言葉がまま飛び交うのである。自分のことなのに教員/教師という他者が、あたかも自分のことかのように言うことが。

「今はしゃべりません」「そこで立ちます」「宿題忘れはしません」と、教師自身のことかと思えば、実は児童・生徒のあるべき行動について話しているのだ。

この言い方は、二つの問題をはらんでいる。その一つは、私がそう言いたいのに、その点を隠して、あたかも中立的な、あるいは神の言葉かのように振る舞うことで、普遍的、一般的かのように装うこと。もう一つは、そう言いたい自分(たち)の暴力性を糊塗しているということである。

前者は、たとえば、かつて学校で席巻した教育勅語にも通じる。この文書を指して「言っているのは、ごく当たり前のことじゃないか」と擁護、肯定する人が今なおいるが(「当たり前のことなら、なぜことさら言われなければならないんだろう」という疑問は、この手の御仁には無縁だ)、それは誰が言っているかをぼやかしている点が問題なのである。発言の責任の所在がはっきりしない。

後者は、自分がある価値にもとづき他者を操作したいことを「〜しなさい」「〜してほしい」とは表現せずに、当人がそうして当たり前という態度で臨むことで、強いているのを隠すことだ。良く取れば、これは「自然に」そうさせているとも言えるが、馴染んでしまうと恐いことでもある。

こうしたお作法が何となく通ってしまうこと、つまり説明を伴わないことに、学校のルールの根拠のなさを見出せる。集団生活であるのは学校の都合であって、児童・生徒がそう望むからではない。だから、当たり前のように言うのではなく、より説得的であってほしいと思うのだ。


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# by walk41 | 2018-03-27 06:37 | ことばのこと | Comments(0)

論理的でない言い回し

あまり根拠があるわけではないけれど、そう表現すると、周りからそうだそうだと声の上がる様子の感じられる言い回しがある。

「エリートは打たれ弱い」「一流大学を出てるからって頭がいいわけではない」といった類がこれに当る。恨み節と言うかルサンチマンと言うか、それを聞くと喝采を送りたくなるような言葉づかいである。

この表現は、溜飲を下げたいために急ぐせいか、同義反復(トートロジー)に似ているけれどちょっと違って、自分を否定するという点で特徴的だ。「富士山は山だ」「蛙の子は蛙」などは、AはAと意味はないが論理的に間違いではない。その意味で益もないが害もない。けれど、上のような例は、AはAではないと言っており、明らかに矛盾する。けれど、不思議なことに何となくそうだよなあ、って思う余地が生まれるのだ。

打たれ弱いのはエリートとは言えない、頭がいいわけでないのは一流ではないから、と、そもそもの言葉を疑い、言い直せばいいのだけれど、そこを端折ると、おかしな表現になる。もっとおかしいのは、そう話している自分を疑わない様子である。

ちなみに、教員も立場上、わかっているわけはないのにわかっているかのような振り、無理をしなければならないことがあるだろうが(だから、これからの時代、教員という言葉は消滅するのではないかと予想する)、AはAではない、という無茶な言い方をしていないか自身を点検してほしい。たとえば、「先生も間違うことがある」「先生も人間だ」と自己弁護するならば、あなたは先生ではない。感情に過度に流され、「だって人間だもの」と弱音を吐くのならば、冷静沈着でいるべき像としての「先生」などと自身を規定、また称しないことである。

あるときは教員然、そうではないときは友達然とするような様を「先生」という言葉で括る、私に言わせれば言葉を弄んでいるから、中途半端な立ち位置になる。だから、何度でも言う。間違っても自分で自身のことを「先生は…」と言わないと戒めるべきである。ある場面を指して、他者が先生と呼ぶのはありうる。けれど、自分で自分を先生と語ることの大きな問題は、自分を疑わなくなることだ。自分を疑わない人間の恐ろしさは、否定的な出来事を自分以外に帰属させること、つまり「こうなったのは、○○のせい」と思い込んでしまうことである。自分を反省できず、革新することができない人間が、どうして人様の前に偉そうに立つことができるだろうか。

公教育の課題は、何も政策や行政、制度のあり方によってのみ、もたらされるのではない。それは、児童・生徒に一番身近にいる「先生」という大人のいい加減さによっても生じるものである。自分を疑わない人間が、何の根拠も定義もないのに、身勝手に自分で自分を「先生が…」と語るというおぞましいことが、今日も各地で起こる。「先生の言うことが聞けないのか」「先生はあんたたちと違うんや」「それは先生が決めます」って。「あんた、いったい、何様やねん」という、声にならない児童・生徒のつぶやきや叫びが聞こえるだろうか。



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# by walk41 | 2018-03-22 15:44 | ことばのこと | Comments(0)

人が亡くなったけれど、さわやか

ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演の「最高の人生の見つけ方」(2007年)を観た。一代で1000億円を超える財産を築いた男と、歴史学の教授になりたかったものの、子どもをもうけたために自動車整備工として45年間働いた男が、いずれも末期ガンを宣告されて、入った病室がたまたま同じだったことをきっかけに、人生最後の数ヶ月、世界を旅する物語である。

The Bucket List”(死ぬまでにしたいことをリストにしておくこと)という原題が示すように、これまでやったことのないことに二人で挑戦するという展開だが、旅の途中、後悔や諦め、喜びや自負を含めてそれぞれの人生を語る。家族に対する感謝と怨嗟も出てくる。その中で、自分なりの人生の総括をしていったのだろう。やがて二人は逝くが、リストをすべてやり終えた、その終わりはとても爽やかである。

「悲劇は死で、喜劇は結婚で終わる」というヨーロッパ演劇の言葉があるが、この映画にその区分は当てはまらない。誰もが避けられない死をどのように迎えるか、それまでにどのように生きるのかというテーマは、そもそも悲劇・喜劇の区分に馴染まないのかもしれない。けれど、このテーマはかなり普遍的と思うのだ。

他者の死を通して自分の生について考えさせられる、そんな良い作品だと感じた。

(写真は、https://imachan1965.muragon.com/entry/290.html より拝借)
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# by walk41 | 2018-03-21 14:13 | 映画・ドラマ | Comments(0)

メッセージの発信と受信

年度末、人前で挨拶する機会が少なくない。

メッセージを発する側としては、相手の様子をできるだけうかがい、より伝わるように努めているけれど、それがどのように受けとめられているかは、なかなかわからない。むしろ、目に入った否定的な(そのように見える)振る舞いに心を奪われてしまい、挨拶のあと、ちょっと落ち込むことがある。

このことは、授業評価に関しても当てはまることだ。授業者としては、「良かった」「学ぶことが多かった」「楽しくできた」といった、授業評価での肯定的な回答よりも、「難しくてわかりにくかった」「まとまりがなかった」といった(授業者からすれば「学生にまとまっているかどうか、どうやってわかるんや」と毒づきたくなるものも含めて)否定的な回答に目が行ってしまう。たとえ、100人の学生中、たとえば後者が3人だったとしてもである。自分の中で、肯定的な評価がすっかり消え去ってしまう。

けれど、その後の何かの際に「いい話でした」「あのお話は心に染みました」と伝えられると、嬉しさもさることながら、「えっ、そんな風にも受け止められていたのか」と驚いてしまう。「みんなにしっかりと伝わったと思います」とまで言われると、立場上、多少のヨイショはあるにしても、「そうかあ、よかったなあ」と、先ほどまでのガッカリが飛んでしまうかのようである。

一対多という状況でのメッセージは、一対一、数人といった状況とは違うから、受け止めの様子を正確に捉えるのはいっそう難しいとは言え、発信と受信の間のずれはいずれの場合でも前提にしてよいかと思う。だから、教員がまま児童・生徒に言う、「それはさっき言ったでしょ」とか「何回言ったらわかるの」といった、発信すれば自動的に受信されるかのように勘違いしている場面に出くわすと、いたく残念に思うのだ。

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# by walk41 | 2018-03-20 14:19 | 身体 | Comments(0)

学校の自律性はやっぱり担保されていない

1998年の中央教育審議会答申「今後の地方教育行政の在り方について」をきっかけに、 学校の自主性・自律性が盛んに喧伝され、「校長はボス、人的・財的にいっそう権限を持ち、学校経営に責任を負うのだ」と、けっこう長く叫ばれていたのではないかと記憶している。

けれど、これはあくまでも理念に留まり、まずは制度面で現実のものとするのはまあ難しいなあと思っていたが、最近、非制度的な文脈においてもこのことが当てはまると、強く思わされた。それは、かつてその学校に関わっており、今なお直接・間接に関わっている(と少なくとも本人は思っている)立場の人がおり、学校の管理職と言えども、その人に物言うのが難しい状況がある、ということだ。

こんな話を聞いた。ある学校の卒業式に来賓として出席したその上級学校の管理職が、この春にこの学校の卒業生の多くが自分の学校に入学するので、事前の準備づもりと写真を撮っていた。すると、当日同じく来賓として出席していた、すでにその学校を退職して10年は経つ元管理職から、「保護者でない方は、写真を撮らないで下さい」と、たしなめられたというのだ。

現在の管理職から言われることですら、いささか失礼ではと思うが(当人に言わせれば「進級先の学校の管理職が変なことに写真を使うはずがないやろ!」であった)、それがかつての、しかも往年の、いつの人や、という立場からの指摘である。

こうした様子を見ていた現在の管理職ですら、その人に物をいえなかったとこれまた当人から聞いたものだから、よけいにびっくりした。年長者に意見できないという教育の効果絶大である。

「こうしたオールドメンバーに、式への招待状を送ることなどないのに」と私が口を挟むも、「それができないんです」との返事だった。こうした例以外に、同窓会なども多くの学校にはあるし、学校を支援してくれている面もある。勢い、正規メンバーでないけれど、意見していいと思う余地が残るのだろう。だから、各学校の力など、そんなものなのだろうね、ちょっと残念ではあるけれど。

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# by walk41 | 2018-03-19 16:51 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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