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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

Michael Sowa の世界 Die Welt des Michael Sowas

1945年に生まれて以来ベルリンに住む、画家・デザイナーMichael Sowa の作品、”Lieber Lesen"(読書の方が好き)です。

ドイツの本屋さんにこのポスターが掛かっていたのを見て「いいなあこれ」と私が呟いていたことを家人が憶えており、こんど贈ってくれました。

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彼の作品は、facebookで観ることもできます。

その魅力をうまく形容できませんが、お勧めです。


# by walk41 | 2019-05-24 08:15 | Comments(0)

「ちゃん」という呼称 Rufen mit „chen“ beim Namen

教員が児童や生徒をどのように呼ぶのかという呼称の問題について、私がとても気にしていることをご存知の方もおられるだろう。

小学校の時に「くん」や「さん」とおしなべて丁寧に接してもらっていた児童が、中学校に上がった途端に呼び捨てをされるという「中一ギャップ」の問題や、呼び捨てにするとそれに続く言葉も乱暴になりがちというリスクマネジメントの問題があり、なるべく丁寧に話すこと、また少なくとも子どもにどう呼んでほしいかを事前に尋ねるべきではないか、と研修の場で叫んできた。

そんな研修が終わった後、校長経験者の男性からこう尋ねられた。「先生は、“ちゃん“と言う呼び方についてどのようにお考えですか。」これについてしっかり考えたことがなかったのだけれど、次の瞬間にこう答えていた。「それはマスコット扱いの印象を受けますね。」

あとから振り返っても、それほど的を外した答えではなかったように思う。子どものことを可愛さ余っての表現だとわかる一方、自分の手中に収めていることを相手にも伝えているかのような表現を「気持ち悪い」と受け取る人もなるほどと思わされる。

学校段階が上がるほど、教員が自分のことを先生と呼ばないように、生徒も呼び捨てやちゃん付けで呼ばれなくなるのが適切と考えるならば、小さいながらも子どもの人権を尊重する立場としては望ましいとは言えないのではないだろうか。皆さんのご意見を伺えればありがたい。

# by walk41 | 2019-05-21 16:50 | ことばのこと | Comments(0)

問題は「お金の価値」ではない。 Das ist falsch „Wert des Geldes“ zu äußern

読売新聞、2019年5月20日付に、電子マネーでお金の価値を子どもにどうやって教えたらいいのかと悩む、40歳の主婦の投書がある。

言葉が日々移り変わっていくのと同じように、言葉の関係、すなわち論理も変わっていくことをとても興味深く思う。現代から見れば、「現金か電子マネーか」という話になるけれど、時代を遡れば、現金などというものは物の価値を象徴するにすぎず、大事なことは、物そのものだという批判をきっと受けたことだろう。

それは、物々交換できること、特にそのものを自分が直接に得たことに意味があるのであり、物の姿が見えないお金にどんな意味があると言うのだろう、という批判である。この点では、現金か電子マネーかという比較は、何の意味も持たない。お金そのものに価値はないのだから。

思い出すに、 1980年代後半以降、ワードプロセッサが普及し、手書きが激減したときに、ワープロよりも手書きの方が味わいがある、といった論調が見られた。これも同じことで、時代を遡れば、鉛筆やペンではなく、毛筆でこそ礼儀にかなっているという主張があったことだろう。さらに昔に戻れば、そもそもお礼をするのに相手の家を尋ねず、郵便で済まそうとはなんと失礼かという考え方もあったに違いない。

ところが、 短いタイムスパンで物事を見ると、ワープロより手書きとか、電子マネーよりも現金、といった主張がまことしやかに見えたりもする。こうした区分は、少し視野を広げればほとんど違いのないことであるにもかかわらず。かくも当事者には大問題に映ることが、見方を変えればそうでもないということが、人間の認識の特徴を示している点で、とても不思議でかつ悩ましい。

# by walk41 | 2019-05-20 23:39 | ことばのこと | Comments(0)

問題は「お金の価値」ではない。 Das ist falsch „Wert des Geldes“ zu äußern

読売新聞、2019年5月20日付に、電子マネーでお金の価値を子どもにどうやって教えたらいいのかと悩む、40歳の主婦の投書がある。

言葉が日々移り変わっていくのと同じように、言葉の関係、すなわち論理も変わっていくことをとても興味深く思う。現代から見れば、「現金か電子マネーか」という話になるけれど、時代を遡れば、現金などというものは物の価値を象徴するにすぎず、大事なことは、物そのものだという批判をきっと受けたことだろう。

それは、物々交換できること、特にそのものを自分が直接に得たことに意味があるのであり、物の姿が見えないお金にどんな意味があると言うのだろう、という批判である。この点では、現金か電子マネーかという比較は、何の意味も持たない。お金そのものに価値はないのだから。

思い出すに、 1980年代後半以降、ワードプロセッサが普及し、手書きが激減したときに、ワープロよりも手書きの方が味わいがある、といった論調が見られた。これも同じことで、時代を遡れば、鉛筆やペンではなく、毛筆でこそ礼儀にかなっているという主張があったことだろう。さらに昔に戻れば、そもそもお礼をするのに相手の家を尋ねず、郵便で済まそうとはなんと失礼かという考え方もあったに違いない。

ところが、 短いタイムスパンだけで物事を見ると、ワープロより手書きとか、電子マネーよりも現金、といった主張がまことしやかに見えたりもする。こうした区分は、少し視野を広げればほとんど違いのないことであるにもかかわらず、当事者には大問題に映ることが、人間の認識の特徴を示している点で、とても不思議でかつ悩ましい。

# by walk41 | 2019-05-20 23:36 | ことばのこと | Comments(0)

排斥が進むオーストリア Exklusion in Österreich

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同じドイツ語圏ではあるけれど、多様性や異質性を重視しようというドイツに対して、隣国のオーストリアは少し事情が違うようだ。

Spiegel online, https://www.spiegel.de/politik/ausland/oesterreich-beschliesst-kopftuch-verbot-an-grundschulen-a-1267656.html は次のように報じている(写真も)2019.5.15付け。

オーストリア国民党とオーストリア自由党の賛成により、基礎学校におけるヘッドスカーフを禁じる法案が可決。

オーストリアの基礎学校では、子どもはヘッドスカーフを身につけてはならない。右派の保守政権の賛成によりオーストリア議会が議決。しかし、この通りに法律化されるかどうかは、まだ不透明だ。

保守の国民党と右派の自由党の賛成、可決により、今後「頭を覆うという、世界観あるいは宗教色に彩られる衣装を身につけること」が禁じられることになった。ただし、雨や雪から頭を守るためという医学的理由は除外される。また、ユダヤ教のキッパ(男性が頭につける小さな覆い)については、「頭全体またはその大部分を覆っている」という衣装禁止の点から言って、許容範囲である。もっとも、この法律に対しては、憲法裁判所への異議申し立てが行われる見込みだ。

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いかがだろうか。宗教的アピールだと反対を主張する立場と、思想・信条の自由あるいは宗教の自由を主張する立場の衝突。「社会の秩序」と寛容さとの葛藤を、いかに乗り越えることができるだろうか。


# by walk41 | 2019-05-19 13:42 | ドイツのこと | Comments(0)

わからない Ich verstehe das nicht.

読売新聞、2019年5月17日付、いじめ防止法改正難航ー教員懲戒規定めぐり、を読んだ。

いじめを放置した教員を懲戒処分とする規定案について、これを盛り込むべきだとするいじめ被害者側などの立場と、いじめかどうか曖昧のケースでも教員が処分されかねないからといった理由で削除すべきだという立場との衝突が見られるという報道である。

いじめとは何かという定義そのものの問題もさることながら、いじめの起こったことが教員に帰属される、つまり教員が原因でいじめが起こったと言うのであれば話は別だが、「いじめを放置」したことが何故に懲戒の事由になるのだろうか。さっぱりわからない。

教員の職務は、学校教育法第37条にあるように、児童の教育を司ることである。それは免許状にある教科を中心とした授業を担うこと、その上で必要な生徒指導等に携わることであって、子どもの生活全般をカバーするものではおよそない。

多くの子どもが集められる学校では、様々な葛藤や衝突、その延長としてのいじめが充分に起こりうるから、そうした軋轢ができるだけ生じないように、学校として努力することは首肯できるだろう。けれど、それはあくまでもプラスアルファの尽力ともいうべきであり、これをしないことが職務怠慢や服務違反になるわけではまったくない。

そもそも、いじめ問題が起こることで労働時間が増え、健康障害の危険性を高められるのは教員であって、この点で教員は既に被害者である。なのに、なぜ教員が批判の対象になるのだろうか。わからない。

世の中には様々な問題が起こるけれど、その責任を私たちは社会の構成員として引き受けているだろうか。たとえば、重大な犯罪が起こった場合、どうしてその人の変調に気づかなかったのかと近隣の住民が批判されるようなことがあるだろうか。あるいは、路上で物乞いをする人を、見て見ぬふりして通り過ぎる人はなぜ糾弾されないのだろうか。

学校で起こることは全て教員の責任、といった何となくの前提が、記事のような乱暴な意見に繋がっているのではないだろうか。私はこのように考えるけれど、こう考えること自体がおかしいのだろうか。誰か教示を願えないだろうか。

# by walk41 | 2019-05-17 09:46 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

世界の平和のために Für den Frieden der Welt

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草間彌生の常設展がある松本市美術館。自動販売機とごみ箱も草間ワールドです。


# by walk41 | 2019-05-16 21:11 | Comments(0)

学校の態度の違い Unterschied zwischen den Schulen

https://www.morgenpost.de/vermischtes/article216813241/Amoklauf-angekuendigt-Schueler-in-Flensburg-festgenommen.html に、20190403のニュースが載っている。ドイツのある職業学校で、無差別殺人をするという予告があったが、警察と学校が関連する情報を得て、17歳の生徒を特定、逮捕したというものである。ちなみに、この生徒はナイフをリュックサックに所持しており、ただの脅迫ではなかった。

さて、この記事中に、とても興味深い記述がある。その一つは、在籍する生徒が逮捕されたことについて、校長が「学校と警察とのプロフェッショナルな連携の賜物」(Schulleiter Sven Mohr lobte die Zusammenarbeit mit der Polizei als sehr professionell.)と好意的に評していることである。

またもう一つは、生徒が学校で逮捕されたのは、朝の7時頃。7時40分から始まる同校では、ほとんどの生徒が登校しておらず、事件のことを知る生徒も少なかったということを受けて、授業は普段通り行われたということである。

いかがだろうか。日本ならば差し詰め、学校が記者会見を開いて、「お騒がせをして、まことに申し訳ありません(深々と記者の前でお詫び)。いじめがなかったかを調査します。また、生徒の心のケアにあたるスクールカウンセラーの要請をしたところです。今日は休校とし、近々、全校集会を開きます」という筋書きではないだろうか。

生徒を大人扱いしていること、犯罪を教育問題として引き受けないこと、学校の予定をより重視すること、の点で、ドイツのこの学校が優れていると、私は思うけれど。


# by walk41 | 2019-05-15 20:30 | ドイツのこと | Comments(0)

なぜ「先生」って自分で言うの? Warum nennt angehender Lehrer schon über sich „Lehrer“?

卒業した学生の協力を得て収録した「模擬授業」の様子を観る。

児童・生徒がいないのに、教員になりきって、カメラを前に熱心に演じてくれた元学生には感謝だけれど、それとは別にこうも思う。小学校3年生を想定した授業とのことだけれど、どうして、繰り返し何度も自分のことを「先生」って言うのだろうか。

「先生が今から言うよ。」「先生、みんなの声を聴いて感動しました。」いずれも「私」で済むことかと思う。私はこうした言葉の遣い方が嫌だから、とても気になるのだが、「自分が言う」「良かったと思う」と伝える上では不要な言葉だとするならば、「先生」を遣う意味はどこにあるだろう。私は次のように邪推する。

第三者を主語にして、ものを言うのは狡い。「学習指導要領に示されているように」「教育長の挨拶にあるように」と他者を引いて自分の主張にするのは、「虎の威を借る狐」状態である。大げさには、かつての「上官の命令は天皇陛下の命令」「総統の名において」に連なる、権威主義と無責任さが見て取れる。

発言しているのは自分なのだから「先生」ではなく、「私は」「僕が」と言えと強く思う。

# by walk41 | 2019-05-15 15:00 | ことばのこと | Comments(0)

ことばをたくさん知っていることの良さ Vorzug, der man mehr Wortschatz hat

何十年も授業をしているけれど、この頃、緊張した感じで授業に臨むことが多いなあと連れ合いに話していたら、ニューヨークのブロードウェイ歌劇に出演するある声楽家が、「緊張感と高揚感が違うということを知ってから、舞台に臨む際に緊張しなくなった」と言ったと教えてくれた。なるほど。

そこで英語辞書を引くと、緊張感はtension, stress に対して、高揚感はelation, exhilaration と別の言葉が用意されている。ドイツ語なら、Spannung と Euphorie, Freudeと、後者に喜びの意味合いの強いことがわかる。だから、緊張しているとも言えるけれど、楽しみでわくわくという感じを含むのは、高揚感の方が合っているなあ。

気持ちがあって言葉がこれを追いかける場合もあるけれど、自分が持ち得ている言葉によって気持ちが左右されることもある、と実感したことだ。

# by walk41 | 2019-05-14 15:59 | ことばのこと | Comments(0)

傲慢さ Arroganz

「積ん読」にしていた、中村圭志『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』(中公新書、2014)を読み始めた。その中に次の箇所がある。

「信じる者は救われるーここまではいいが、信じない者を率先していじめてきたのは、いただけない。もちろん二面性があるのは宗教家に限らない。僧侶であれ、学校の先生であれ、スポーツのコーチであれ、説教する者というのは、理屈の上では「善いもの」を説いているはずであっても、つい教えの押し売りに走って、「なぜお前はこの善いものを受け入れないのか、けしからん!」と言い出しがちなものだ(59ページ)。」

教育が宗教的でもあることを説明している一文だろう。

# by walk41 | 2019-05-13 20:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

悪い冗談ではないところが恐ろしい Dass es keine Scherz ist es furchtbar


東洋英和女学院の元院長による捏造と盗作についての書き込みが多く観られる。なお、首都圏NHKニュース(201905010)によると、被告発者は「想像で書いた」とも述べたという。それはあかんやろ、と突っ込んでも、当人にはわかってもらえないかもしれない。

さて、この事件を取り上げたブログに、以下のものがあった。

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「自分で書くのが一番いいのですが」と断りを入れているものの、宣伝をしていることに変わりはない。卒業論文の場合、「20000字で納期まで3日以内の場合(特急対応)・・・250,000円(税別)」とのこと。昔風に言えば、400字詰め原稿用紙50枚だから、この1枚あたり5000円、その辺の雑誌の原稿料よりも高い。

「あなたが書いたように」って…。悪い冗談かと思いきや、しっかり商売のサイトなので驚かされる。商魂たくましいというべきか。初学者に悪魔の誘いをしないでね。

# by walk41 | 2019-05-12 18:47 | 研究のこと | Comments(0)

自問できる力 Macht, die man ueber sich fragen kann

東洋英和女学院院長だった深井智朗による研究不正事件は衝撃的である。なぜなら、①他者の研究を引用しているのにそのことを示さず、あたかも自分の文章かのように書くこと(盗作)にとどまらず、②実在しない人物およびその人物が記したという論文を作り上げ、同論文を引く格好で議論を展開しているという、実に込み入った捏造を行い、③疑義に対して誠実に対応せず、紙幅の制約上、注を削らざるを得なかった、人物名の綴りを誤ったなどと嘘を重ねたのみならず、研究不正と認められて懲戒解雇になってなお、「今回の調査結果については、真摯に受けとめ、速やかに必要な訂正や修正を行いたいと思います。」(2019.5.10)と捏造を認めたとはとても思われないコメントを出している。悪い意味で弩級の事案だろう。

関連するニュースをインターネットで探していたら、楓園(ふうえん)と題する同学院の学院報を見つけた。その85(2018.1.31)の「特集1」は、「深井智朗 院長就任」である(http://www.toyoeiwa.ac.jp/publications/pdf/fuen85.pdf)。

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院長就任に際しての挨拶の中で、私が注目したいのは、次の箇所だ。(「創設者から前院長に至る先人について-榊原補足)先生方の豊かな才能のすべてを捧げてこの学院に仕え、指導してこられました。しかし先生方はみな誰よりも謙虚で、献身的で、この学院とそこで学ぶ者、働く者に仕えてこられました。まさに神を愛し、隣人に仕えてこられたのです。私はこの職に就くにあたり、この精神を先生方から受け継ぎ、学院とここで学ぶ者、働く者のすべてに仕える者となり、「喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむ」者となることを神の前で約束したいと思います。」(p.2)

被告発者は自分のことを、仕える資格を持っているのだろうか、ともに喜び、悲しむことができるのか、と自問しなかったのだろうか。

この人物云々ではなく、人間というものを理解するのは容易ではないということを痛感させられる。そして、私自身が自問できるようにありたい、そうできる自分でいたい、と強く願う。


# by walk41 | 2019-05-11 20:24 | 身体 | Comments(0)

研究者の矜持 Stolz als Wissenschaftler

東洋英和女学院の深井智朗院長が、研究不正である捏造と盗用を行ったと判断され、懲戒解雇された。

http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigaku/news/topics/news_2019051001.html にある、公表概要ほか資料によると、被告発者は、実在しない「カール・レーフラー」なる人物を作り出し、同人物が書いたというこれまた存在しない「今日の神学にとってのニーチェ」という論文を引いて、議論を展開させている。また、存在しない「エルンスト・トレルチの家計簿」をもとに、これを表題にした論考を記している。このほか、1984年に発表されている先行研究を、引用注をつけることなしに計10カ所、盗用した。

最近の私の関心ゆえだが、「これだけの捏造って、本人がこんな人物がいるはず、こんな論文があるはずって思い込んでしまったんだろうか」とすら思う、なかなかのフィクションである。いやいや、そんな訳はない。「神は存在する」と言いふらすこととは次元が違う。「私はそう思う」だけでは研究上の捏造には当たらない。「そう言えるのは、何某がこう書いているからだ」と言っておきながら、その人物も書かれたものも実在しないから捏造なのである。

しかも、被告発者は何とかつじつまあわせができないかと考えたのだろう、調査委員会の問い合わせに、「すみません。作り物です。さらに無断で他者の文章をつかいました」とは答えず、上記人物の綴りが違う、ある人物がこのように名乗っていたなどと偽りをさらに重ね、上記家計簿としてまったく関係のない議事録を調査委員会に提出した。悪質と言わざるを得ない。

さて、被告発者による『ヴァイマールの聖なる政治的精神――ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』(岩波書店、2012)の書評にて、今から約6年前に疑義を呈していた人物がいる。北海学園大学の小柳敦史氏である。同氏は、『日本の神学』(52巻、pp.139-144、3013)において、以下のように記している(J-Stageより転載)
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縮尺が一定せず申し訳ないけれど、私が引くよりもよいかと思い、ページそのものを転載した。

研究者情報を見ると、まだ30歳代と思われる若手研究者である。年長者におもねることなく、精緻に文献と資料を分析、表現している様に感服する。

# by walk41 | 2019-05-11 08:27 | 研究のこと | Comments(0)

「僕の患者だ」 "mein Patient"

引き続き、アメリカのテレビドラマ、ER 救命救急室 を観ている。シーズン6のエピソード2「最後の儀式」では、医者同士が患者の担当をめぐって激しく衝突する。

延命拒否に一度はサインしたものの、明確に「生きたい」と医師に伝えた患者を担当したマークと、「娘の延命拒否は明らかだ。サインもある」とすごむ父親を前に、訴訟などを懸念したチーフのケリーとの衝突。最前線で患者と接する立場を主張する「医師としての専門性」か、病院を守らなければならないという「管理職としての専門性」か、の葛藤である。

ケリーは医師でもあるから、最前線での事実や想いはもちろんわかっていることだろう。けれど、より「総合的見地」からは延命拒否のサインが、「医師が聴いた患者の声」よりも優位するという判断になるのではないかと思う。くわえて、これは合理化かもしれないけれど、たとえ延命措置をとっても、回復する見込みがほぼないという状況(だと判断して)であれば、やむを得ないということになるだろう。また、同僚からの冷たい視線に耐えなければいけない、管理職としての苦悩もよく伝わる。

公教育について考えている身としては、教育労働の個業性が、労働一般の中で特異なものに映りがちだが、はるかに客観的と思われる医療の世界でも、似たようなことが起こっているのだと学ぶことしきりである。



# by walk41 | 2019-05-10 09:24 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

知らないうちに作られる記憶 Gedächtnis, das ohne Absicht gemacht wird

人間の知覚と認知の不確かさに、いま関心を持っている。

アメリカのテレビドラマ、「ER 緊急救命室」のシーズン5、エピソード20(1999年)を観ていたら、次のセリフに出合った。

街が夜に停電、病院も電力を失う中、患者が何者かに襲われる。不審な男を見たという女性医師エリザベスが話すシーンだ。

「見かけた男をよく覚えてない。中肉中背でー、浅黒いのでラテン系か中東系か、なまりはなくて」そして次のセリフである。

「でも役に立ちたい一心で記憶を作っているのかも」(I’m just afraid that what I do remember I’m making up)

いかがだろうか。彼女は、思い出そうと頑張ることで、事実としてはなかったかもしれない事柄をそうだったのだと作り上げてしまう可能性に対して自覚的である。思い出せるはずだからと自分の頭の中から引き出される記憶が、本当のことではないかもしれないという危険性を踏まえている。

不審な男を彼女が見たのは、數十分前のこと。ほんの少し前のことなのに、間違いのない記憶を持っているわけではない、そして懸命になることでそう思ってしまいがちということに着目している、この作品の脚本の思慮深さを見る。

「見たんやから、間違いないって」と言った話が、ひょっとして本人の知らないうちに願望や思い込みを通じて作られたものであるかもしれないということ、「教育労働における記憶と記録」というテーマが立てられるのではないだろうか。



# by walk41 | 2019-05-09 06:58 | 身体 | Comments(0)

誰に訴えるの Wem aessert der Schulleiter das?

茨城県高萩市教育委員会が6日に記者会見し、市立中学3年の女子生徒(15)が4月30日に自殺したことを公表した。所属していた卓球部では、顧問の男性教諭が「殺すぞ」などと暴言を吐いたり、激高して用具を床にたたきつけたりするなどの不適切な指導があったという。市教委は第三者委員会を設置し、自殺との関連を調べる。

 市教委によると、生徒が残した直筆のメモには、教諭が部活中に、「殴るぞ」「殺すぞ」などと暴言を吐く▽肩を小突く▽用具を床に投げつけ備品をたたく--といった内容が書かれていた。教諭は学校側の調査に、部員の練習態度が悪いと感じた時に部員全員に向け、こうした言動をしたと認めている。「昨年9月ごろから、部員との関係がぎくしゃくしているように感じた」と話しているという。

 生徒は昨年9月に学校が実施したアンケートに「学校生活は楽しい。部活動の時間が長くてつまらない」などと書いていた。亡くなる4月末までは学校に問題なく通っていたが、3月中旬以降は部活動には参加していなかった。

 生徒が通う中学校は7日、全校集会を開き、校長が命の大切さを訴えた。涙を流す生徒もいたという。市教委は学校にスクールカウンセラーを常駐させる。【佐藤則夫、川崎健】毎日新聞、2019.5.8

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この報道の通りならば、痛ましい事件である。当該教諭の人権感覚のなさにまず唖然とさせられるが、これも学校の教育課程に含まれていない部活動だからこそなりやすいとは言えるだろう。つまり、指導する資格があるか公証されていない(部活動の免許状はない)、活動に際しての基準や標準がない(時数、教科書、評価方法などが決まっていない)ために、法治主義にもとづかない、人治主義が跋扈する。「王様」と自認する部活顧問が暴政を働く、止める者はいない、という構図で説明できるのではないだろうか。

部活の顧問は複数制だったのか。活動の様子を管理職は見ていたのか。この顧問は部活動以外では暴言を吐かなかったのか。あるいは吐いていたことに同僚が気づいていたのに、「見て見ぬふり」をしたのか、などの検証がされることになるだろう。

そして、校長が生徒に何を話したのかを知りたい。「命の大切さを訴えた」という文面だけでは推測の域が大きく、外れているかもしれないけれど、仮に「命を大切にしましょう。自分の命を絶とうなどと考えてはいけません」調だったとするならば、何とぼけた話だろうか。事実がまだ明らかでない時点では、教員を指弾もできないから、私ならこんなことを言うかと思う。

「学校とは、教員がみなさん生徒を教育することを社会的に認められている場所なので、みなさんが嫌とか辛いとか思うことが少なくありません。これは、先の世代が後の世代に期待していることの現れでもあるのですが、後の世代にはあまり嬉しいことではありませんね。それでも、いわゆる学力を身につけることで社会に参加し、また個人の能力を花開かせる上で、学校が果たす役割があると今は思われているので、こうした場所が各地にあるのです。

そこで教育する立場の者が心しなければならないのは、決して対等ではない生徒との関係において、できるだけ暴力的なことを避けること、そのために自分を過信せず、常に振り返り、またそのためにも同僚を始め多くの人の声に耳を傾け、いわゆる普通の人間であることを確かめる姿勢と能力を持つことでしょう。これらがなければ、ただの乱暴な人に陥ってしまいます。しかもやっかいなのは、私を含め、先生と呼ばれる立場は、生徒から公然と批判されることはまずなく、自分のおかしさに気づきにくいため、大変残念なことですが、恐ろしく暴力的になってはじめて、はっとさせられることがあるということです。

今回の痛ましい出来事がなぜ起こったのか、どうすれば良かったのかは、これから調べ考えるべきことですが、生徒のみなさんには、学校がしんどい、嫌いということを知らせる、どんなサインでも出してもらい、鈍くなりがちな人たちに知らせてください。いじめ問題に関する調査と同じように、まずは伝えてください。できれば複数のスタッフに、もちろん私にでも構いません。そうしてどうすればいいのかを一緒に考えましょう。教育しようとする立場は、厳しくすることでみなさんを鍛えていると思いがちですが、それは必ずしも正しい訳ではありません。私たち教員も今回のことを深く調査、検討、議論します。みなさんも、クラスや学年あるいは生徒会などで話をしてください。

学校という場では避けられない衝突がたくさんありますが、それをより減らすこと、そして何よりも大きな衝突を起こさないように条件を整えることに、私たちはこれから取り組みます。この学校をどうすれば変えることができるのか、私たち教員の力とそしてみなさんの協力が求められています。どうぞよろしくお願いします。」



# by walk41 | 2019-05-08 07:53 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

繰り返しが記憶を強化する Wiederholen macht Gedächtnis stärker

授業の本題からはいささか外れるものだったが、前回の授業で重要なことを感想に書いてくれた学生がいたので、関連する資料を引いて、今回説明を試みた。

それは、記憶に関するもので、人は思うほど正確に記憶している訳ではないという調査研究を紹介しながら、教員の職務を鑑みるに、瞬間的な状況認識と意思決定、行為を連続して行っている教員の働き方にも示唆的ではないかと話したのだ。

すなわち、状況認識は過去の経験に照らして行われがちである。なぜなら、似たような経験がなければ、いったいこれはどういうことなのかの判断ができず、困惑してしまうからであり、これを避けるために、認識の短絡化(近道、shortcut)の手段として、過去の類似した経験を引き出す可能性が考えられるからだ。

たとえば、身体言語などはその一例だろう。ドイツの友人が日本のホームセンターの駐車場で手招きする警備員の様子を見て、「こっちに来るな。あっちに行け」の手振りかと思ったら、実はその反対だったというのは、指の動かし方とその意味が日本の通常と逆だからである(日本では、あっちへ行けの場合、手の甲から向こうに強く指を突き出すか、両手を使って×をつくる)。ゆっくり考える時間があるならば、判断する際の選択肢も広がるが、クルマを進めるか戻すかは、すぐに決めなければならないことが多いから、いきおい過去の経験を参照する。

同様のことは、教員の様子についても説明できるだろう。学生の感想にこうあった。「よく学校の先生が「前、言ったやろ」と言っていた。そう言われるたびに、怒り方が強くなっている様子に、小学校ときに感じていた。「そうだったっけ」と言い出せない空気を生み出す言葉だと感じた。」「言うことが日替わりでコロコロ変わっていた教員がいて、その先生に対する信頼を失った経験がある。」これは、教員が自分の記憶に自信を持っており、それを疑うことなく、児童の至らなさを叱責する様である。経験がもたらす負の側面-勘違い、思い込み、決めつけが、いたずらに学校を荒らしてしまう。経験を参照する機会が増えるほど、それは記憶として強化される、というモデルで考えるならば、「何回言ったらわかるんだ」も危ない物言いである。

繰り返すことで記憶が強化され、本当はどうだったのかがわからなくなる危険性を考えるとき、次の学生の指摘は鋭いと関心させられた。「教員は自分に自信を持ちすぎているから、あたかも自分の記憶は完璧であると思いがち。中学・高校では、教科担任制だから、他のクラスで言っていたことも、すべてのクラスに行っていたと思ってしまうのであろう。」この指摘、みなさんはいかが思われるだろうか。

# by walk41 | 2019-05-07 15:39 | 身体 | Comments(0)

生徒による学校掃除はリスク Schulputzen von Schueler als Risiko

朝日新聞、20190505記事、20142月、大分県の高校にて、掃除をしていた3年生が4階の庇から転落、亡くなった事故を取り上げている。「事故当日は年7、8回の大掃除で、ワックスがけや窓拭きなどを行っていた。朝礼で担任は、最後の清掃なので心を込めるようにと、生徒に伝えていた。」という。

「心を込める」という曖昧な、また分別臭い言い方を苦々しく思うが、くわえて、4階のガラス窓を、ヘルメットや命綱などの安全管理もせずに、外から拭かせるという無茶なことが、日常的に行われていたことに、改めて驚かされる。

教室内のごみ拾いやちりとりでの埃集め、せいぜい黒板の水拭き程度ならば、生徒にやってもらってもいいだろう。けれど、高さのあるところ、切れたり刺さったりする危険性のあるところに行くこと、あるいは化学反応で汚れを取るようなところは、素人のましてや子ども(高校生が子どもかどうかはさておき)が関わるような話ではない。

振り返れば、明治期に始まった学校掃除は、予算不足を補うために教育的意味合いを与えることで、生徒(と教員)に無償労働をさせることに成功した例である(佐藤秀夫『学校ことはじめ辞典』小学館、1987)。だから、生徒に「やらせる」などほとんど懲罰的意味合いを帯びるのに、「掃除をサボっていた」と叱られるのが現実なのだから、人間はなんと思い込みの激しい生き物かと思う。「タダで働いてくれてありがとう」と教育委員会や学校が児童生徒に感謝すべき事項である。

たとえば、ドイツの学校で生徒がしっかり掃除をするなど、まず考えられない。そんなことをすれば、ニュースになる(別記事で紹介します)。学級での係活動として、2,3人の子どもがごみを集める真似事のようなことはあるが、「そうじの時間」は設けられていない。二日に一回程度行われる床掃除のために、椅子を机の上に置いて去るようにと教員から言われるだけである。


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https://bnn.de/lokales/rastatt/reinigung より。ちなみに、このように椅子を上げておいてもらえると、掃除スタッフは仕事がやりやすいと、建物掃除のマイスター(!)が模範的だと語るシーンである。

そもそも、掃除は汚れているところをきれいにすることなのだから、まず手袋をはめることをしない、手を保護しないでどうするというのか。水拭きできれいになる程度の認識で行われているのが、日本の学校掃除なのだろうと、改めて思わされている。


# by walk41 | 2019-05-05 09:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

この曲もそうだったのか Diese Musik wurde auch von ihr produziert.

世代が違う方には、何のことと訝しがられるだろうけれど、松任谷由実(荒井由実)の曲を中学生くらいから聴いていた身としては、驚きだった。

アメリカの大学での学生紛争をテーマにした映画「いちご白書」を取り上げた曲、「いちご白書をもう一度」(1975)は、バンバンによるものとばかり思っていたけれど、何とユーミンが作ったものだったとは。

論文という、他者を感動させるにはおよそ不似合いなものを書き散らして過ごしている身としては、40年以上経った今もなお聴き続けられているこんな曲に接するに、言葉にならない思いで敬服する。

1980年代後半、私が大学院生の時に、「音楽は、押し黙ってしまった老人を元気にする力があるんだね。ぼくらの論文を読んで元気になる人なんていないだろうに。すごいね。」と言われた教育社会学の教授を思い出す。直接の先生では全くなかったけれど、授業に出させてもらっていた。格好良くていい人だったなあ。


# by walk41 | 2019-05-03 20:39 | 音楽 | Comments(0)

いい人でなくっちゃいけない Er muss ein guter Man sein

新天皇が即位したと報じられている。

天皇という制度を維持することのコストパフォーマンスはどうなのか(事業仕分けの対象になるのかどうか)とか、天皇を務める人の人権は尊重されているのか(されている訳がない。野に下ってもらいファンのクラウドファンディングで生活すれば、これもまた人間らしくていいのに)と考える私からすれば、「いい人でなくっちゃいけないから大変だなあ」と、そこに生まれたばかりに被らなくてはならない役割に、ご苦労様とお見舞いを申し上げる。気の毒である。

きっと、人柄もいい人なんだろうけれど、なぜ人間なのにいつもにこにこ朗らかでいなければならないのだろう。馬鹿野郎と言いたい時もあるだろうし、あほらしいと呆れることもあるだろう。なのに、まるで素敵なお人形さんのように大切に扱われて、「不良」じゃだめなの。酔っ払ってその辺に転がって、ちょっと痛い思いもするなんて許されないの(まあ、酒は飲まなくてもいいんだが)。

感情を抑えて、言いたいことも言えず、したいこともできず、これから(も)いい人をやらなくてはいけない人を指して、何がめでたいんだろう。祝っている人は他者への共感性の感度が低いんとちゃうか。「気さくな人柄」と褒めそやす人、あんたこの役をやりたいか。そうやないのに、無責任な持ち上げをするでない。ほんまに不思議。彼が天皇をやりたいんやったらいいけど、そこに生まれたことだけが理由で有無を言わさずやることになってるなんて、あんまりやないの。他にやりたい人はいっぱいいるやろうから、「総選挙」してみんなで選んだらいいやん。国民投票。国と国民の象徴なんやから。なんで今度の人が天皇をやらなあかんの。その人の気持ち、聴いた?



# by walk41 | 2019-05-02 13:32 | Comments(0)

大変なラマダン muhlsam Ramadan

今年2019年は、5月5日から6月4日まで、イスラム教徒の断食、ラマダンが行われる。太陽が昇って沈むまでの間、食べ物と飲み物を口にしないというものだ。唾ですら飲み込んではいけないのだとか。厳しいなあ。もっとも例外は認められており、高齢者、妊婦、病人、旅行者、子どもなどが該当するが、学校に通う子どももラマダンをしていることが珍しくない。

さて、ドイツの教員向けニュースページ https://www.news4teachers.de/2019/04/ramadan-kinderaerzte-und-kinderschutzbund-warnen-vor-gesundheitsrisiken-fuer-schueler/ では、子ども保護の団体が教員向けの手引き書を発行。ラマダンへの対応について指南している。

教員に対しても手引き書

教員、その他教育職員、医師そして保護者に対して、ラマダンの健康上の危険性を示し、それぞれの責任を果たす上で知っておかなければならないこととして、子ども保護団体はこのテーマの手引き書を作成した。「とても重要なことは、関係者すべてがよいコミュニケーション関係をつくり、互いに理解することです」と団体の代表メンバー。「私たちの目的は、ラマダンに参加したい子どもたちが年齢にふさわしく、健康を害することなく行えることです。子どもの幸福と健康な成長が最終的にはもっとも重要なのですから。」子ども保護団体は手引き書で具体的にこう述べる。保護者は子どもや青年のラマダンの期間中、教員やその他教育者に、自分の子どもがラマダンであることを知らせるようにとアドバイスする。また反対に、子どもに健康上の問題が見つかった際には保護者が学校や学童保育所、スポーツ団体から知らされるべきとも述べている。このような場合、保護者と子どもは一緒に子どもの権利に即した解決方法を探すことが大事と、子ども保護団体は勧めている。たとえば、週末だけ、あるいは週の1日だけ断食をする、たとえば土曜日、あるいは数時間だけといったことが考えられると。


こんなニュースだけれど、とても興味深い。なぜって「リスクマネジメントとして、危険因子を取り除こう」とはなっていないからだ。宗教や家庭の考えを尊重した上で、なるべく危険なことを避けましょうという「大人の発想」を見る。諦めること、割り切ることの大切さが伝わる。みなさんはどう思われるだろうか。


以下、原文。

Handreichung (auch) für Lehrerinnen undLehrer

Um Lehrkräfte und andere pädagogischeFachkräfte, Ärztinnen und Ärzte, aber auch Eltern auf die gesundheitlichenRisiken des Fastens hinzuweisen und sie bei der Wahrnehmung ihrer Verantwortungzu unterstützen, hat der Kinderschutzbund eine Handreichung zum Themaentwickelt. „Ganz wichtig ist eine gute Kommunikation zwischen allenBeteiligten und gegenseitiges Verständnis“, so Ekin Deligöz, Vorstandsmitgliedim DKSB. „Unser Ziel ist es, dass Kinder, die fasten möchten, diesaltersgerecht und ohne ihre Gesundheit zu schädigen tun. Denn am Ende ist dasWohl des Kindes und sein gesundes Aufwachsen das Wichtigste.“

Im Umgang mit dem Ramadan-Fasten vonKindern und Jugendlichen empfiehlt der Kinderschutzbund konkreteHandlungsschritte. So rät er Eltern, die verantwortlichen Lehrer oder Erzieherdarüber zu informieren, dass ihre Kinder fasten. Andersherum sollten Elterninformiert werden, dass Bildungs- und Betreuungseinrichtungen wie Schulen undHorte oder auch Sportvereine verpflichtet sind, einzugreifen, wenn siegesundheitliche Einschränkungen erkennen. In solchen Fällen sei es sinnvoll,dass Eltern und Kinder gemeinsam nach einer kindgerechten Lösung suchen,empfiehlt der DKSB. Denkbar wäre etwa, dass das Kind nur am Wochenende fastet,oder nur an einem Tag in der Woche, zum Beispiel am Sonnabend, oder auch nur stundenweise.


# by walk41 | 2019-05-01 12:42 | 身体 | Comments(3)

「まだ習ってない」と学習意欲を削ぐ教師

「漢字の読みと書きについては,書きの方が習得に時間がかかるという実態を考慮し,書きの指導は2学年間という時間をかけて,確実に書き,使えるようにすることとしている。また,漢字の読みについては,当該学年に配当されている漢字の音読みや訓読みができるようにすることとしている。なお,第6学年に配当された漢字の書きについては,当該学年において漸次書き,文や文章の中で使うとともに,中学校の第2学年までの間で確実に身に付け,使えるようにすることになる。」(学習指導要領2017年告示、小学校国語編解説)


行政文書にはこれだけのように見えるのだけれど、なぜ今でも横行しているのだろうか。「まだ習っていない漢字はつかってはいけない」という教師(たち)のマイルールが。

http://mfujin.blog.jp/archives/namae_hiragana_majiri.html
には、このことが上手く描かれている。

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「読めない子がいると不公平」といった悪平等の信者? あるいは、「自分より知っている子どもがいるかもしれないことへの恐怖心」から来る教師の優位性の確保? 理由はわからないけれど、学習指導要領にもそぐわない不合理な信念は、迷惑なことこの上ない。

①「働き方」改革や「学力向上」と叫ばれているのに、無駄なエネルギーを注ぐとともに、児童の学力向上にも貢献しない行為である。

②教員が、学年にそぐわず漢字を書いてしまうと、「先生、それまだ習ってないで」と学校過剰適応の児童の跋扈を許すことになる。

③この漫画にあるように、まったく不要なことで児童の困りや児童間の軋轢を生じさせることになる。

④自分の名前を漢字で書いてはいけないと教員に言われたため、長らくひらがなで自筆を貫いた、いまは成人した人がいる。

こんな不文律が横行しており、校長や教育委員会、文部科学省もやめさせることができない、「教育上の自由」が存在するのならば、いかにこれを上手く行使するかが各教員に問われる。お願いだから「何となく」することを、できるだけ減らしてもらえないだろうか。



# by walk41 | 2019-04-30 11:11 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

~派というのなら wenn man ueber den Kalendar nach seinem Geschmack spricht

71歳男性の投書、自分はこれからも元号派と記している(20190427、中日新聞)。

「派」と言われると、個人の好みになってしまうのでお好きにどうぞ。いろいろあり得るのに、元号か西暦かの二択しかこの御仁にはないことを残念に思う。

先日の拙ブログに書いたが、別に西暦でなくても、ヒロシマ74年とかフクシマ8年でもいい。新幹線55年なんかもいいなあ。年中行事にするのなら、毎年、新しい数え方にしたらどうだろうか。いつも「元年」で気持ちあらたになること間違いない。

こんな風にいろいろあっていいのだけれど、他者と了解しあうための道具として、ある数え方をしているのだから、できるだけ多くの人にわかってもらえる方法がいい。そしてグローバル化している社会なのだから、西暦が妥当ではないのかしら。もちろん、キリスト教万歳なんて話ではさらさらないよ。

どんなものを引っ張り出そうが、伝わらなければ仕方がない。あるいは、わかってもらえるかもしれないけれど、換算をしなければいけない手間を相手に強いる点で、すこぶる優しくない。「自分はこうだから」は我が儘である。忙しい世の中、何が悲しくて貴重な時間をそんなことに費やさなければならないのだろう。

元号について一言するならば、そもそも、当のこんどの天皇に直前に知らされるような、天皇軽視の作り物を指して、何がめでたいのだろうか。さっぱりわからない。おまけに不便。ちなみに、元号が社会的機能を持つ上で不便極まりないのは、明治以前からである。たとえば、明治天皇の父、孝明天皇の時などは、彼の父、仁孝天皇が亡くなったけれど改元をせず、くわえて自身の在位中は7つも元号を遣った。まあ、アバウトなものである。こんな大らかな記号をありがたがって遣いたい人は、まさにお好きにどうぞ。でも、私には関わらないでね。

みなさん、お店に並んでいるけれど、何の役に立つのかわからないものを、これはめでたいと、わざわざ買いますか。



# by walk41 | 2019-04-29 12:20 | ことばのこと | Comments(0)

丁寧すぎる zu hoefflich

宅配便の再配達を頼んでいたのに、うっかり出かけてしまい、受け取ることができなかった。急いで運転手さんに電話をする。

「すみません。もし近くにおられたら、持ってきてもらえませんか」と伝えたら、「すみません、もう行かなければいけないので」と返されたので、きょうはもう無理かなと思いかけたら、「2時から4時のお届けとなりますが、いいですか」と言葉を継がれた。びっくりしていると、「お時間を頂戴して申し訳ないです」とまで言われた。

とんでもない、時間をもらっているのはこちら、せっかく再配達に来てもらったのに、申し訳ないことです。

こんな応対、業務マニュアルにあるのかどうか知らないが、過剰というべきか、丁寧にすぎるサービスに改めて驚かされる。


# by walk41 | 2019-04-27 13:48 | Comments(0)

血液型 O型 Blutgruppe 0

ドイツの友人と血液型の話になった。そして、「O型は…」という件になったとき、知ったのだ。ドイツ語では、「O」(おー)ではなく「0」(null)と呼ぶことを。

考えてみれば、なぜ日本語ではこの血液型をアルファベットで呼ぶのだろうか。A型、B型の並びで自然なものと思っていたのだろう。けれど、ところ変われば、似ているようにも思うが「ゼロ」という名称が与えられているとは驚いた。

ひょっとしたら、O型がそう呼ばれているのは、誰にでも血液をあげることができる、自身は無垢という意味から来ているのかも、なんて思いついたことだ。きっと違うだろうけれど。それにしても、馴染んでいるはずの用語がこうも違うことを、面白いと思いませんか。

# by walk41 | 2019-04-26 08:46 | ことばのこと | Comments(0)

公共性は「マナー」だけの話ではない Oeffentlichkeit bedeutet nicht nur Sitte, sondern auch Gewohnheit,Gerechtigkeit

公共性について授業で話す。その後の学生の感想の多くは、様々な公共性を想定することができることに気づいたというものだが、教育系大学ゆえかどうかはわからないが、「公共のマナーを守っていくべき」といった不十分な理解も見られる。

公共性とは、その世界で了解され公認された、発想、仕組み、行為を包括している。そこには、「公共のマナー」ももちろん含まれるが、それは「お行儀良くしましょう」といった話に留まるものではない。

たとえば、入れ墨(タトゥー)という作法は、公共性とどんな関係にあるだろうか。身体に意図的に傷をつけることを良しとしない公共にあっては、これは忌むべきことであり、入れ墨をしている人は「危ない人」と排除される。あるいは、何も問題にならない公共もありうるし、反対に、身体表現として奨励される公共であれば、入れ墨をしていないことが「危ない人」となり、冷たい視線を浴びることになる。

あるいは、ホモセクシュアリティを認めない公共もある。スマトラ島のブルネイでは、同性愛者を死刑とする憲法が発効、国際的な人権団体などによる批判に対して、同国政府は「尊敬と理解を求める」と反論している。そこで「行儀良くしている」ことは、自身の性辞任や性志向に反すること、自分らしく生きることを諦めなければならないことでもある。ヘテロセクシャリティが「正常」という公共にあっては、LGBTQを認める価値観、仕組み、行為は厳しく攻撃される。

はたまた、議会制度(代表制/間接民主主義)を認める公共にあっては、選挙は必要な機会と費用であるが、先の一斉地方選挙に見られるように、投票率が半分を割るような状況が加速していくとすれば、「安上がりな政府」に傾くことになる。これは、富の再分配の点でいかに適切だろうか。

ことほどさように、公共性がどのような発想にもとづき、どんな仕掛けや制度が作られ、個人や集合・集団に影響を及ぼしていくのか、が問われるべきテーマとなる。もちろん、この問いは、学校教育にとっても「いろはのい」のであり、私が公教育経営という言葉を恩師から学んで我流につかっているのは、それは優れて公共性に関わっているからだ。学生にも是非、振り返り考えてほしいテーマである。

# by walk41 | 2019-04-24 18:05 | ことばのこと | Comments(0)

しっかりしよう Ich muss mich noch fleissig sein

京都市内の観光地のお店で、一人の女性からをかけられた。「榊原先生ですよね。」驚いて尋ねてみると、最近大学を卒業した元学生だとわかった。なるほど。

私の授業をふたつ取ったとのことだが、「非言語コミュニケーションのことが本に書いてありましたね。」これまた驚くと、「しっかり読みましたから」と返ってきた。

こういう学生は必ずしも多くはないかもしれないけれど、記憶に残してくれる場合もある、心して授業に臨みたいと思わされたことだった。

# by walk41 | 2019-04-23 08:30 | 授業のこと | Comments(0)

ひとり一票である必要はない。 Jeder kann mehr Stimmen bei der Wahl haben

一斉地方選挙も後半、こんな時期にドイツの友人から面白い話が聞けた。

彼女の住む州の限りだそうだが、市議会選挙と郡議会選挙は、複数の票を有権者それぞれが持つという。たとえば、40議席で構成される市議会の場合、驚くべきことに有権者はひとりあたり40票を持つのだと。

その40票は、支持する候補者に候補者一人に最大3票まで投票できる。もちろん、候補者ひとりに1票ずつ、40人に投じてもいいし、政党をまたいで投票することもできる。あるいは自分は20票分しか投票しない、ということも可能だ。もっとも、勢いあまってある候補者に4票以上投票してしまうと、すべてが無効になるとのこと。あるいは、この仕組みをしっかりと理解できない有権者がいることを十分踏まえなければならない、とも話していた。

ちなみに、ドイツの投票は候補者名を書くのではなく、候補者名のリストに×印をつけることが投票になるから、上の方法が可能とも言える。40票分の名前を書くことは現実的ではないもの。くわえて、投票用紙を予め受け取って、家でゆっくりと記入(投票)することもできるとのこと。誰が記したかわからない可能性がある点で、難ありかもしれないが、一つの方法ではある。

1人の有権者の投じることができる票が1票しかないことに以前から疑問を持っていたが、それを支持してくれる事例がドイツですでに長く存在していることを知って、嬉しかった。日本でもこんな仕組みがあれば、政治地図も大きく変わるのではないだろうか。



# by walk41 | 2019-04-21 23:34 | ドイツのこと | Comments(0)

「人が本を焼くところ、最後には人間を焼くことになる」"Dort, wo man Bücher verbrannt, verbrannt man am Ende auch Menschen"

この言葉をの残したのが、詩人としても有名なハインリッヒ‧ハイネ(1797-1856)だとは、全く知らなかった。

デュッセルドルフ生まれのユダヤ人で、十字軍に批判的でもあり、自由主義的な政治姿勢を持っていたハイネは、反ユダヤ主義者(アンチセミティズム)や国家主義者から死んでもなお敵対視された。若きカール‧マルクス(1818-1881)とも交友があったという。

その彼が、1823年に発表した悲劇"Almansor"では、のちの1500年にスペインの町グラナダになるところで、キリスト教の司祭がイスラム教の経典コーランを燃やしたことを描いており、この有名な引用はこの作品から来ている。

そして、まさにまったく悲劇的なことに、このハイネの言葉は、作品発表の110年後、1933年にヒトラーによる独裁の時代が始まり、ハイネの作品は退廃芸術として燃やされる一方、ユダヤ人ほか夥しい人々が殺され燃やされるに至って予言となった。悲しいまでの慧眼である。

# by walk41 | 2019-04-19 14:24 | ドイツのこと | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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