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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

カテゴリ:身体( 324 )

対人サービス労働におけるコスト論

家人に勧められて、青山昌史ほか『社会の中の芸術』(放送大学教材、2010)に収められている坂井素思「芸術価値と経済価値」を読んでいる。ちゃんと理解できたとはまだ言えないが、アメリカの経済学者の立てた次の論理を鋭い指摘と思った。

曰く、サービス産業特有の「コスト病」、すなわち赤字体質が生じるのは、自動車産業などに見られる技術革新が、生産性の増大をもたらし、労働者の賃金を上昇させる。このことは、製造部門比べて生産性が増大するわけではないサービス部門生産性との格差を拡大させ一方、製造部門の労働者の賃金上昇が波及することから、サービス部門の賃金上昇させ、芸術団体などのコスト高を招く。さらに、おしなべて賃金の上昇した労働者のサービス需要が高まる中で、芸術団体の活動への需要も増大し、雇用も増大、結果としてさらなるコスト高に至るというモデルである。

この中で、次のような記述があるのだという。「人間の発明の才によって自動車の生産に必要な労働を減少させる方法が考案されてきたが、シューベルトの四重奏曲を45分間演奏するのに必要な人間の労働を、合計3時間の延べ労働時間以下にまで減少させることに成功したものは誰もいない。」

その通りである。PDCAサイクル論を振りかざし、右上がり目標達成へと鼓舞しようとも、これまで一年間かけてやってきた授業を例えば8ヶ月へと短縮する教育課程は作れないし、授業者の話すスピードを例えば3割増しにして児童・生徒の理解をより早く促そうというわけにもいかない。ましてや学び論が席巻する昨今、そのスピードは落ちることこそあれ、早まるとは考えられないだろう。

これを敷衍すれば、子どもの成長をもっと早めようという議論に繋がるが、これがいかに馬鹿げているかは論を待たない。いつまで子どもで、いつから大人になるかは、時代や地域によって一様ではなく、社会的な眼差しに基本的に規定されることを思い返してみよう。あるいは客観的にも、他の生き物と同様、成長のスピードや習得の適時性が、せいぜい数百年の「教育の発明」によって左右されるシロモノでないことも明らかである。

かくして、対人サービス労働の生産性の上昇があまり見込めないにもかかわらず、製造部門と同じかのようなモデル設定そのものが不適切なことがわかる。なのに、上昇するはず(しなければならない)という神話に支えられた教育論議をしていること自体が、当事者の「低学力」を示すことに気づいていないということ、まさに大いなる不幸と言うべきだろう。

by walk41 | 2017-09-28 23:41 | 身体 | Comments(0)

挙手の際の指

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南西ドイツの中等学校、9年生の授業風景です。中等学校でも、いわば普通に手が上がることを、自分が知っている中学生と違って面白いなあとは思っていましたが、何回となくこうした場面に居合わせているのに、次のことには、はっきりと気づいていませんでした。

その一つ、基礎学校の児童を含め、授業中に挙手して教員に当てられたとき、立ち上がる生徒はドイツで見せてもらう学校にはいません。日本でも中学校あたりになれば同様のこともあるでしょうが、小学校では指名されて立ち上がり、加えて椅子を納めることまで求められ、ようやく発言できるという、神経質なまでの行儀が強いられます。これは違いと言っていいでしょう。

もう一つは、手を挙げる際の指の格好です。人差し指を突き出すように挙げる様を、日本とは違うとは思っていましたが、その背景に、ナチズムが支配した時代の挙手仕方、「ヒトラー総統万歳!(Heil Fühler Hitler!)を忌避するべく、子ども頃から躾けられるゆえとは知りませんでした。複数の友人から聞いたことです。五本指を突き出すと、確かにそのようにも見えますものね、なるほど全体主義を再来させてはいけないという一つの知恵なのでしょう。

見慣れているからこそ、気づきにくいことがまだまだあるのだと、今回も学ぶことができました。

by walk41 | 2017-09-25 09:35 | 身体 | Comments(0)

名前を呼ぶこと

引き続き、教育実習の学生に関わる話。

学生は文字通り学ぶ立場にあるのだから、仕事っぽくできなくても当たり前だ。だから、教育の内容や方法に通じていなくても、さして問題とは思われない。その上で、同じ学生でも違いの見えるポイントの一つが、生徒の名前を覚え、名前を呼ぼうとするかどうかのように思う。

短い期間に、たくさんの生徒の名前を覚えることは、決して容易ではない。けれど、覚えようとしている学生の姿勢は、多くの生徒にとって好感を持てるものだろう。そうした関心を自分に向ける学生の授業は、そうでない場合と比べて、より肯定的なはずだ。

①ある学生はがんばって生徒の名前を諳んじようとする。②別の学生はそこまではいかないので、実習校から渡された席順と名前を記した用紙をこっそり見る。③さらに別の学生は、その用紙をどこかになくしたのか持たず、もちろん覚えてもおらず、生徒が付けている名札を見ては、授業をしようとする。これらの違いが、生徒とのラポールに及ぼす影響のあるとは、仮説していいだろう。

ことほどさように、「いい教員」とは教科の内容に通じているだけでは決してなく、曖昧きわまりない児童・生徒と彼ら/彼女らの力学に臨むべく、柔軟に対応できる態度と能力を有することと導ける。学校風に言い換えれば、生徒指導に関わる力だろう。

これは、勉学に励んだから身につくというものではなく、日々の経験とその反芻や反省の繰り返しの結果とも言えるだろう。それは、教えることが難しく、それぞれに学び取るしかない。「大学における教員養成」つまり、大学に入ることが教員養成教育の前提とされているとは、教えられるだけでなく、学ぶ潜在力を予期してのものである。生徒ではなく学生と呼ばれるのは、学ぶことができるだろうとの期待を込めてだと、心してほしいな。

by walk41 | 2017-09-06 15:41 | 身体 | Comments(0)

非言語に見られる自己認知と自己主張

youtubeを見ていると、道路上のトラブルを特集したものに出くわす。

怖いモノ見たさで覗くと、交通法規無視で暴走するクルマ、接触しかけたのか怒りでクルマのドアを激しく蹴るライダー、合流地点で入れる入れないのバトルを繰り広げた後、あろうことか自分のクルマを相手にぶつける輩と、驚くシーンが満載である。

こうした映像を見ていて思う。実寸よりは大きいけれど、クルマは自己主張のツールでもあり、その前提として自己認知が伺われる点で、「クルマとドライバーのありよう」を考えるのは一興だろうと。

たとえば、クルマに自身を投影させたい向きにとって、その大きさ、デザイン、色、性能、これらに伴う価格は、自己願望の投影である。この点で、借金をしてまでクルマを買うのは、「実物大以上の自分を求めているから」と解するのは、意地悪だろうか。所謂いかついクルマで「これに乗ってる俺って…」と思うのは、クルマという非言語を通して自分の強さ、大きさ、金持ちさをアピールすることでもある。お金を出せば選べるナンバープレートの番号に拘る人もいる。過日、ルール無視いっぱいの二台のワゴン車と遭遇したが、同じ数字のプレートナンバーだった。「お友達」なことを確かめたいのだろう。また、「・893」のナンバープレートを付けて無茶な横入りをした上、自分の前には決して入れなかったクルマを見たとは、家人の談だ。

ちなみに、サングラスは相手に自分の目を見られずに、相手を見ることができるツールである。「目は口ほどにものを言う」がゆえに、目力がないと自覚していれば目を閉ざすしかない。もちろん、目を開けない訳にはいかないから、サングラスを遣う(光に弱い方などは別にして)。相手の目を見ることができない相手は、非言語上のメッセージのやりとりができないから、不利になる。シールドいっぱいのクルマは、このサングラスと同じ理屈で見えないことによる不安を回りにかき立てる。まことに迷惑な話である。





by walk41 | 2017-08-23 11:41 | 身体 | Comments(0)

地毛は大切?

朝日新聞でいま特集している「学校の変なルール」。その一つである「地毛証明書」に関して、学校にとって悩ましい、けれど傍目には阿呆らしいテーマなので、ここではふざけた思いつきをお許し願いたい。

この記事にこうある。「ある都立高の副校長は『地毛を大切にするように呼びかけているので、証明書が必要だ』と言います。」

なるほど。じゃあ、加齢に伴って髪の毛が減ってきたからとカツラを被ったり、おしゃれにと付け毛をするのもダメだね。地毛は大切だから。もちろん、付け加えるだけじゃないよ。脱毛なんてもってのほか。地毛を大切にしなきゃ。さらに、地毛だけではないからね。地肌も大切にしなければいけないから、化粧もダメだよ。さて、どれだけの教員がこれに耐えられるだろうか。

かくも、教育は「黒を白と言いくるめる」ほどの暴力性を伴う。この点で同記事中、身体に関してあれこれ言うのは人権侵害だと憤る、尾木教育評論家の弁はナンセンスである。評論家とはそんな程度なのだろうが、こんな人の言がなぜ活字になるのか不思議でならない。読者の頭を悪くすることをマスメディアは狙っているのだろうか。

じゃあ、服装はどんなものでもOKなの? 生徒が教員を「〜くん」と呼んでもいいの? そもそも、学校に行きたくなければ理由が何であれ行かなくてもいいの? 残念ながらそうはいかないから悩ましく、どこで線引きをすればいいのか、と当事者は葛藤するのだ。保護者の意に関わらず、子どもを学校に行かせなさいと規定する法律が、すでに人権侵害なのだから。

だから、学校は強面で行くか、それともやんわりと臨むか、はたまたこの中間でやるのかの選択を迫られる。それは、生徒、保護者、「伝統」、教員たちの信念などによって左右されるが、それは「学校らしく」あるための保険のようなものだから、内容や度合いは一様ではない。こうして時々「変なルール」が生まれることになる。関係者が違和感を感じなければそのままだが、変だなと思うと「問題」として現れる。たとえば、宗教関係の作法など、当事者でなければ相当に変でも、「そんなものだ」と了解されているからこそ、続いているのである。

そんな線引きをしなくてもいいじゃないか、は一理ある主張だ。けれど、それは「もし、〜が起こったらどうしよう」と心配する人には届かない。旅行保険をかける人に「まあ、滅多なことで事故や事件には合いませんよ」と言っても仕方ないのと同じである。

なぜ保険をかけようとするのか。それは学校が常に多くの生徒を預かることが初期値に設定されているからに他ならない。小規模校ではルールが少なく、生徒の行動をより制御できる小学校、中学校、高校の順にルールが厳しくなりがちなのは、このためである。学校の基本形ともいうべきものが残る以上、「変なルール」は行き続け、なくなることはない。




by walk41 | 2017-08-21 10:30 | 身体 | Comments(0)

「子どもらしさ」と感情の表出

現職教員の皆さんとの勉強会、とても楽しく過ごす。

その中で、子どもの頃は「箸が転げても可笑しい」と笑うのに、大人になると「何が可笑しいのか」と不機嫌な輩が増えるね、という話から、次のようなモデルを作れるのではないかと盛り上がったのだ。

すなわち、子どもー大人、私的世界ー公的世界というX軸と、笑いの表出(発現)というY軸を設定すれば、負の相関を示すことができるのではないか、この点で「子どもらしい」とは、「わかったつもり」にならない上でも、とても大切ではないか、と。

また、これを敷衍して、いろいろな感情の表出にまで話を広げると、怒りについては子どもらしさや私的世界のいかんに影響されず、いやむしろ、X軸を辿るほど、大人になる、公的になるほどに、怒りが高まる(「キレる40,50代」)のかもしれないとも思わされる。

主体だけに因っているのではなく、文脈によって人の感情の表出が異なるとすれば、自分と周りの世界をどう認知しているかが、このことと大きく関わっていることは明らかだ。恐れを知らない、疑うことを知らない、立場や肩書きを気にしない(そもそも持っていない)人は、どのような感情表出とその前段階の感情発露をしやすいのか。

あるいは、これと反対に、恐れ不安がり、猜疑心に満ち、自分の立場を強調したがる向きは、どんな感情を生みがちで、また表出しがちなのか。

こんな点からも、教員あるいは人間を観察、理解できることを、とても興味深く思う。

by walk41 | 2017-08-19 16:13 | 身体 | Comments(0)

耐えられる能力

耐えると聞くと、暑さや寒さ、痛みに耐えるとイメージする人もいるだろうけれど、別の耐えるもある。それは、わからなさに耐える、あるいは、わからないという落ち着かなささ、気持ち悪さに耐えるということである。


例えば、他者の話に耳を傾けるという場合、たどたどしい、要領を得ない話ぶり、自分に何が求められているかがわからない状況は、なかなかくたびれる。「つまりは?」「結局のところ?」と声を上げてしまいかねない。そこを耐えられるか、傾聴できるか、は能力だろう。


あるいは、何か我慢できなくなり、感情的な爆発をしかねない時に、一歩引いて、自身をクールダウンさせることができるかどうかも、能力いかんである。「許せない」「我慢ならない」と即断する前に、一呼吸を持てるかどうか、「怒りたくなったら10を数える」という教えも、このことを踏まえてのものだろう。


この文脈で言えば、我慢強くあるとは、できるだけ耳を傾けること、状況を見据えること、敢えて判断を保留して、沈黙や静止状態を維持すること、と具体化できる。すぐに反応、行動しない、けれど多面的に観察、考察している、そんな逞しさ、したたかさを自分も持ちたいと思う。



by walk41 | 2017-08-13 16:29 | 身体 | Comments(0)

生きる力を奪う人

ある院生から大学院の様子を聞く(京都教育大学の学生ではない。念のため。)

その君の指導教員の対応が恐ろしくまた貧しく、大学院生活を続けるかどうかを悩むほどだという。授業に15分から30分ほど遅れてくるのは茶飯で、この間は、授業前日の深夜、Lineで「休講にします」と連絡があったらしい。それを読むことなく大学に来た学生は当然のことながら脱力する。その後、その教員と会った際も「ごめんねぇ」と説明なく済まされたとのこと。なぜ休講だったのかの説明がないままに。前日の夜に「疲れたから、明日の授業は休講にしよう」と決め込んだということか。

ゼミの様子も同様で、無断で遅れて来ては、学生が用意したレジュメとはおそらく関係しないだろうお喋りに時間を費やすそうだ。論文指導の時間は文字通り、論理に関わる話をしなければならないのに、「私は感性の人だから」「ネガティヴなことは考えず、楽しくやりましょう」と嘯くとも聞いた。授業回数の半分を学生の自己紹介に使ったり、シラバスとは全く違う卒論の紹介やこれからの論文構想について話して、と進めるような教員も別にいるとのこと。どこかの教科書にある目次を写したかのようなシラバスと実際の授業とが違っていることは「臨機応変な対応」とは異次元であり、二重帳簿そのものだ。

さて、先の教員に戻ると、授業回数を確保するために土曜日にも当てられている授業について学生が尋ねると、「やらない、やらない。土曜日なんて」と返したという。おぞましき「教授」である。

学生を論理的に鍛えずに、何が論文指導なのか。「名目上の時間だから」と話すとも聞く。自らが所属する組織に対する、入学する学生に対する不誠実さ、さらに公的資金を使っている点で納税者に対して給料泥棒といってよい。

こんな人と時間を過ごすことで、関係する学生はいたく生きる力を奪われることだろう。論文への展望が開けず、その「問題教員」と会わなければいけないと思うだけで滅入るような精神的ダメージを受けつつ、学生を続けなければならないという理不尽を与えられるのだから。いったい何の罰ゲームなのだ。

先の拙ブログで「なるほど」と記したが、生きる力は学校教育業界では教育を通じて獲得するべき/できるものと措定されがちだ。けれど、実は自らの生きる力は他者によって促され、また潰される。自分だけで生きる力を得ることは難しい。だから、自分の生きる力がより高まるように、自身の周りの環境を整えるべきだが、それでも叶わないことは少なくない。

この君のように、不本意に不幸な環境に置かれた場合、ほとんど為す技は残されていない。大学の自治や教育の自由は、厳しい自律性に支えられる。それに耐えることのできない「教員」をどうすればいいのか。おまけにそういう教員はまま、自分を客観視できない。「いい教員」だと思っていたりするのだから。

これに対しては、情けないことであるが、学長や学部長、あるいは校長でも答えられない。難問である。どうすれば、「学校教育の質保証」は成り立つのだろうか。

by walk41 | 2017-07-21 22:25 | 身体 | Comments(0)

閾値を上げる

立ち読みで申し訳なかったのだけれど、南和友『人は感動するたびに健康になる』(マキノ出版、2012)に目を通した。間違っているかもしれないが、次のような説明だと理解した。

①自律神経は、交感神経と副交感神経から成るが、両者は随伴しており、片方の閾値を高めることで、もう片方の閾値も高まる。
②自律神経は文字通り自律しているので、意志の力で操作できるものではないが、経験を通して交感神経の閾値を高めることができる。
③心身が活動するときに作用する交感神経の閾値を上げるには、感動する、運動することが有効。
④閾値が高まることで、少量の刺激では反応しなくなる。つまり、より深く感動し、より長く強く運動できる。痛みにもより耐えられるようになる。

この説が医学的に妥当なのかどうかは素人目にはわからないけれど、多くの人が経験則とするだろう、視野の広さ、思慮深さ、大らかさ、慎重さと決断力、我慢強さ、などが相関する(無関係なものとは思えない)のならば、けっこう理に叶っていると私は思う。

仮にこの説明が事実に即しているのならば、私たちは次のような処世術を見出すことができるだろう。たとえば、
a 自分の言動を支えるのは、主体性や意志の問題でもあるだろうが、それらでも操作しえない自律神経であることを知るべき。つまり、より生理学的に自身を捉えるべきであって、栄養、運動と休息、睡眠、人間関係など、生き物として基本的な条件が自分の場合どうなっているか、に心を砕くべき。
b 交感神経の閾値を高めるには、自分の認知と感情の経験を意図的に拡げ、深めることが有効である。つまり、人間と社会そして自然とそこに生かされている自分について学ぶこと、感じることで、ひと・こと・ものに対して広く、深い理解のできる(「幅の広い人間」)自分になれる。
c これらを裏返せば、少ない刺激で反応する(閾値が低い)、つまり、すぐに身体に変化が現れ、露骨に感情を露わにする人は交換神経が劣っている、衰えているためであり、感動や運動の少ないことが考えられる。これらを得る機会をより設ける必要がある。そうでなければ「あんぽんたん」であるし、自分に疲れやすく不幸せなことだろう。もったいない。

著者の主張に対する読者のコメントには「トンデモ本」との評価も見られるので、上の説明の吟味はなお必要だ。けれど、ひと・こと・ものに対する眼差し、自分との関わりという点で、閾値の高い人がより魅力的であり、自分もそうありたいと私は思えるので、けっこうこの説に支持的だ。

「小さな出来事に大げさに騒ぎ、右往左往する」「すぐに感情を表出し、しかもその変化が激しい」「他者に批判的で自分に盲目的[こうなったのはあなた(世の中)のせいで、自分が悪いわけではない](外的帰属の場合)、あるいは、自分に批判的で他者に盲目的[こうなったのは自分のせいで、あなた(世の中)が悪いわけではない](内的帰属の場合)と、いずれも理解が単調である」といった人間像を想定するに(もちろん、自分もこれらと無関係ではない)、学び続ける姿勢を保つことの大切さを改めて教えられる。

世の中は複雑であり、想定外が多いこと(良かれと思ったことが拙くなる場合も少なくないこと)、人間は「生理的早産」をしているため後天的に獲得することが多く、時間経過の中で自身を変態させること(思っているほど、自分という存在は確かなものではないこと)などが、わかり行動できる人間か、そうではないのか。私たちは「人間としての器の大きさ」とか「人間の価値」といった言葉で、これらの意義を指そうとしているのではないだろうか。

謙虚であること、感謝すること、大らかであること、こうあるためにも人生修行として閾値を高める機会をより持つこと、を何度も反芻したいと思う。



by walk41 | 2017-07-10 06:50 | 身体 | Comments(0)

時に合わせて

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花屋さんでひまわりを求めました。

本当はガーベラがほしかったのだけれど、あいにくあらず。けれど、花屋さんに言われました。「ひまわりは、年中ある花ではありませんからね。」なるほど、季節感が乏しくなったとはいえ、時期ごとに合う花があるということですね。

周りを見渡すと、季節は確実に日々変わっており、今や初夏から盛夏へと移りつつあります。あんなに美しかった紫陽花はもう枯れモードに入ったといってよいでしょう。

昨日と同じ一日だけれど、また違う一日だということを改めて確かめるためにも、小さな変化にアンテナを張ることのできる自分であれればと願います。そのためにも、自身で決められる時間がより多いことは大切な条件でしょう。

多くの職場と同じように、学校で働く職員も小さな変化を慈しみ、楽しめるようなタイムマネジメントが重要なのだけれど。現実はどうもこの方向に沿ってはいないようです。

by walk41 | 2017-07-06 23:37 | 身体 | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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