学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und Schulmitglieder

カテゴリ:身体( 313 )

振る舞い

百貨店の「お客様コーナー」に行き、順番を待っていた。

先客の女性は待たされたのかもしれない、係員がお待たせしましたと平身低頭を示す様子を一顧だにせず、なぜかスマートフォンを机に投げ出した。と思いきや、差し出された小銭を含む現金と関係書類を、膝に抱えたハンドバッグに投げ込み、最後にスマートフォンをしまい込むと、係員に一言も発せず席を立ち、行ってしまった。目すら合わすことなく。その後ろ姿に、百貨店側は、深々とお辞儀をするありさまである。

短い時間ではあったけれど、こんな様子を見るに、自分の振る舞いを見ている第三者がいるかもと、少しは心しなければと思わされた。格好いいことならばまだしも、こんなに不細工なシーンをまったくの非当事者に見られるなんて。

学校でも稀に遭遇することがある。残念なことに、公衆の面前で暴言を吐くような人を見てしまうことが。そんな振る舞いをするだけに足るような背景や事情は確かにあったのだろう。けれど、だからと言ってそう振る舞って構わないという話になるわけではない。まず、何といっても格好が悪い。百貨店での場合は大人として、学校での場合は加えて教員として、哀れなくらい惨めな姿を晒すのはやめてほしい。誰にとっても良きお手本にならない。リンカーンだったか、「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とはこの点の限り、当てはまるだろう。自身を省みて恥ずかしい思いもする。

また、そんな様子は間接的ではあっても他者を傷つける。まったく望まないのに、そのシーンを思い出しては、嫌な気持ちにさせられる。人間ってこんなに阿呆やったっけと、暗澹たる思いにもなる。そのときの映像が音と雰囲気とともに、しっかり再現される。これは結構なダメージである。そんな迷惑なことはできるだけ避けてほしい。自分の問題はまず自分で解決するように努めよう。

こんな不格好になるべくならないための余裕をいかに持つことができるか。言うは易しく行うは難しだろう。必死になりすぎないこと、笑いを忘れないこと、こんな辺りが私の言える関の山だ。





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by walk41 | 2017-07-01 23:47 | 身体 | Comments(0)

人間相手の仕事

ご縁あって、ある看護師さんとあれこれ話す機会があった。

医療の高度化に伴い、看護の世界でもスタッフの力量向上が求められているのではと尋ねたところ、「そんなに変わりません。人間相手の仕事ですから」と言われたので、「教育の世界も同じだと思うんです」と返した次第だ。

言わずもがな、30万年の歴史を持つともされる人間の基本型が、せいぜい数百年の、いや「文明」の始まりからだと最大限に見積もっても、5000年くらいの「教育」によって影響を受けるという想定がかなり難しい、と私が思う。科学的な物言いではないだろうけれど、「教育」という人間の知恵が人間の経験と遺伝に優位するとはとても思えないのだ。

だから、自分の寿命の限り、あるいは前後二世代ほど、100年足らずの経験をもって、「教育」を評することの愚かさを重々に踏まえた上で、議論をすべきかと思う。なのに、長い間やっているからには、高度化、専門化していかなければならないという頭でっかちが優位するのだろう、実態に合わない話を始めて、「そうではないのでは」と指摘を受けても受け流して、素朴な発展論を疑わない。PDCA論も同様だ。そんな右肩上がりになっていったら、先々、発展する余地がなくて困るだろうに。

対人サービス労働をしている方、そうでない方を含めて、より他業種の人と話を機会を設けられるようにと思う。何となく、当たり前に見えることが、違う業界から見ればそうではないと知ることが、職能開発に対しても重要なことを学べるだろう。

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by walk41 | 2017-06-29 13:14 | 身体 | Comments(0)

考え方の癖(歪み、偏り)

授業の最後に学生に求める感想文を整理して、次の授業レジュメの冒頭にA4一枚程度紹介し、補足あるいはコメントを示している。今回、感想文の中に次のようなものがあった。

…スポーツをする人は寿命が短いという指摘があったが、自分の意見の押し付けはいけない。そういう意見多いに結構だが、ならばスポーツを止めろと言うのか…

うーむ。この手の思考上の癖はよろしくない。この君がではなく、ともすれば「もっともらしさ」をもって通ってしまいかねない、こういう話し振り、書き振りを危惧する。こうした癖を持って教育職に就くならば、なお危険なことである。

なぜそう言えるか。二点あげられるだろう。
その一、事実と意見の区別をつけていないこと。私が授業で話したのは、選手などスポーツを過度にする人の寿命が短いと指摘するデータ、事実であって、「〜と思う」という意見ではない。「朝、お日さまが東から上る(ように見える)」のは事実であり、意見ではない。事実を前にしては、誰もがまずそれを受け止めなければならない。

「ご飯を食べないとお腹が減る」も「木からリンゴの実が落ちる」のも、「それは君の意見だろう。そう思うのは結構だが、それを他者に押し付けてはいけない」と返せば、議論を試みたりわかり合うことは不可能である。

その二、授業で述べたのは(ある限られた)事実だが、仮に意見だったとしても、それを過度に推量して「〜と言うのか」とあたかも相手がそのように述べたかのように扱うこと。このやり方は、アンフェア、不誠実である。相手が言っていないことを指して、「じゃあ、こういうことを(引き続き)言いたいんだ」と持っていくのはズルい。

たとえば、学級の場面でイメージしてみよう。学園祭で学級劇をやることに対して、「僕は劇をやりたくない。そんなの意味がないと思うから」と意見を述べた生徒に対して、「じゃあ君は、そんな意味がない学級劇を止めろというのか」と迫る構図である。そんなことは言っていない。自分はやりたくないと言っているだけだ。

あるいは、学級でいじめ問題が起こったとき、ある生徒が「いじめた側にももっともな理由があるんじゃないかな」と学級会で意見を出したら、「じゃあ君は、いじめを認めるってことだな」と脅す如くである。いずれも針小棒大と言うべきか、意見をすり替えてしまう。

こうしたやりとりが「なんとなく」行われているとすれば、まったく恐ろしいことである。自分を含めて発想、思考上の癖により気づき、修正、革新できるように努めること、「コミュニケーション力」の向上は、こんな点からも問われる。



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by walk41 | 2017-06-26 11:55 | 身体 | Comments(0)

挙手

学生たちに話す。教室にあって、あるいは教室以外でも「生徒には生徒なりの都合がある」って思わない? って。

そこでグループで話し合ってもらうと、こんな話が出てきた。ある女子学生「手を挙げすぎたら、クラスメイトに目をつけられるかなあ。目立ちすぎると、いじめられるかなあ。」ある男子学生、「みんなが手を挙げないので、自分が頑張って挙げないといけない、と思ってよく挙手をしていました。」

なるほど、友人関係を慮って挙手を控えたり、反対に、教員を応援するつもりで挙手に励んだりとあるんだなあ。

けれど、授業論に回収されると、「生徒の意欲がよく現れた授業でした」とか「もっと挙手があるとよかったですね」と、「事後研究会」などと大仰な名前のもと、教育側の的外れな話が繰り広げられることになる。子どもを観る、みとり、と言っているのに、この体たらくである。生徒にはもっと考えなければいけない色々な事情があるだろうことが等閑視されがちだ。

現職教員のみなさん、目の前の児童・生徒にたずねてみてください。どうして手を挙げるの、また挙げないの? って。
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by walk41 | 2017-06-20 10:51 | 身体 | Comments(0)

早弁

高校教員との研修会、教室における非言語に関わる経験をいくつか聞くことができた。

早弁…まだお昼休みではないのに、待ちきれないのか早弁をする。二個目の弁当があるのかもしれないが、待てないのかなあと思う。

机周りが雑然…授業に関わるもの以外も机の上に出ていて、片づけられないのかなと思う。

まっすぐ座らない…机に対して横や斜めに座る。

片足を椅子に上げている…筋力が低下しているのか、片足を椅子に上げ(スカートであっても)、授業受けている。

下敷きを団扇代わり…暑いのだろう、団扇代わりに下敷きをパタパタさせる。

もっと聞きたかったのだけれど時間が足りず。残念。たくさん集めたら、高校生生態図鑑ができるよね。

さて、これらの様子の共通点はなんでしょう。私が見るにそれは、いずれも誰かに向けられたメッセージではないということだ。誰かに見せようと、そしてもって何かを伝えようとして早弁をしている訳ではない、ということだ。

ところが不思議なことに、たとえば教員がその様子を見て、反応をすることがある(閾値に達したということ)。我慢が足りないなあ、とか、ちゃんとしなさいよ、とか。生徒は何かを教員に言いたい訳でもないのに、大抵は嬉しくないことを言われる運命に位置付けられる。これが、生徒にとっての不幸、そして教員と生徒の間の不幸である。

非言語のユニークさは、メッセージではないのに、状況によってはメッセージ性を帯び、しかもそれが、権力持つ立場によって一方的に解釈、評価されるという点に見られる。コミュニケーションをするつもりがないのに、一方的にメッセージとして捉えられ、コミュニケーションに持ち込まれるという構図で理解することができる。

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by walk41 | 2017-06-10 15:43 | 身体 | Comments(0)

足下も大切だね

東京の地下鉄にて、靴を脱ぎ、ストッキング穿いた両足を、脱いだ靴の上に乗せて、座席に腰掛ける壮年の女性を見た。

お顔は懸命にスマートフォンとにらめっこ。そこから視線を落とすと、ちょっと格好悪いなと思った。「足元を見られる」とも言う。きっと歩き草臥れたんだろうね。

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by walk41 | 2017-06-03 17:28 | 身体 | Comments(0)

年長者の振る舞い

いくつくらいから年長者というのかはわからないけれど、たとえば40、50代以上としておこう。

こうした年齢の人間が、たとえば20歳代のまだ若い世代に接するとき、親近感を得ようとしてか、いわゆる自虐ネタを出されるのは、イタイという話になった。過去の話ならばともかくも、現在こんなことができないとか、こんな失敗をしてといったことを、長々しく話されるのは、聞いていて困るという話だ。

確かに同年代の人間どうしであれば、「あるよね、そんなことも」と笑って済ませることができるけれど、それなりに年齢が離れていて、しかも相手が「立派な大人」(のはず)であるべき状況ではそうもいかない。「へえ、どんくさいですね」と同調する訳にはいかないし、さりとて、「いえいえ、そんなことないですよ」とフォローするのも不格好、さらにその後、変なフォローをした自分を嫌悪というのも厄介だ。

たとえ多少演出が入っても、カッコイイ大人であることが期待されていると思って、自身の振る舞いも見直してみよう。知らないところでイタイと思われているかもしれないから。
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by walk41 | 2017-06-02 09:11 | 身体 | Comments(0)

おこらず、おごらず

信州は駒ヶ根にある、薬草成分を抽出した飲料を製造している会社の工場を偶然に訪れた。予約が必要だったため、残念ながら工場見学はできなかったが、いくつかの資料を見せてもらうことができたのは良かった。

特段、この会社の製品に関係する訳ではないのだけれど、健康法に類する資料の説明に次の一文があったことが印象的だった。「おこらず、おごらず」。

怒ることが健康によろしくないことはもちろん、驕ることもまた同じという説明に、語呂合わせの良さ以上に納得するところがあった。学生にはよく話す。論文を書くには怒りが必要だけど、これは不健康なことでもある、と。

と、わかったようなことを他人様には伝えているのに、自分のことになるとさっぱり駄目だ。研究のこと以外でも怒りを抱くとき、これが不健康の元だとわかってはいないなあ、と。

嬉しいことは幸いと思うべきだろうが、感情の起伏の激しいこと、とりわけ怒りを経ることは著しく自身を消耗する。その時だけでなく、後々も結構ひきずる。しんどさが続く。だから、いたずらな怒りは実にもったいないことである。

この点で、感情のマネジメントとは、感情をいかに操作するかというだけでなく、感情という資源に対するコスト感覚をもって臨むべき、と考えられる。いつもできる自信はないけれど、効果的な資源の投下(と回収)が認知についてだけでなく、感情の面でもできるように努めたく思う。
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by walk41 | 2017-05-28 22:18 | 身体 | Comments(0)

びっくり

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きっと何か鍛えてはるんやろうけれど、片方の足をあそこまで曲げられるなんて。ちょっと試してみたけど、まあ無理やわ。駅のプラットホームにて。

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by walk41 | 2017-05-08 12:07 | 身体 | Comments(0)

萎縮することの怖さ

いくつになっても煩悩を断ち切れないというか、少し若い時のことを、ひょんなタイミングで思い出したりする。

当時、私は研究者としてスタートを切ったばかりで、その世界ではいわば一番弱い立場にあった。そんな状況で、普段から目を掛けてくださっていた別の大学の先生から、その時におられた海外の地に、夏休みだから遊びに来ないかと連絡を頂戴したのだ。それは嬉しいことだったが、その時の自分の立ち位置を考えて、つまり必要のない過度な萎縮をして、その話をお断りしていたところ、どこから聞きつけたか、「そちらに行くんだって」と職場の「上司」に咎められたのだ。

実際に行くつもりはなかったし、その旨を伝えたにもかかわらず、「そうは言っても行くんだろう」などと、ほとんど査問あるいはいじめのような言葉を浴びせられた。重ねて否定していたものの話が終わらず、最後に「誰がそんなことを話しているのですか」と返したところ、「君に言う必要はない」とキレられた。これが当時、60歳間近だった旧帝国大学教授の振る舞いである。なんと情けないことだったか。

ずっと後になって思えば、休暇の時にどこに行こうが、何をしようが、関知してはならない、ましてやそれに意見してもいけないことは、近代的な任用・雇用関係の原則だ。だから、こうした某教授の振る舞いがそもそも許されるはずもない(残念ながら、当時は、パワハラという言葉がなかったのだ。くわえて、自分の頭の悪さも災いした)。ましてや、この御仁は当時、「子どもの教育を受ける権利」などとミニ「人権派」を気取っていたのだ。言っていることと実際にやっていることが、これだけ鮮やかに相反するとは、唱道していることの金メッキが剥げたと言うべきだろう。

こうした環境にあって、むしろ自分がいけないかのように思ってしまいかねない萎縮、自己規制という身体状況が生まれるのは、まったく怖ろしいことである。日頃、自分の身体は制御しているつもりだけれど、必ずしもそうではないと気づくべき点である。

だから重ねて思う。今や一番弱い立場からは離れてしまった自分が、後進や関係する人たちに不自由な思いをさせていないか、反論や批判のチャンネルをしっかり確保しているか、できるだけ自由闊達なやりとりができるように、つまり肉体的・精神的・社会的に健康な場を設けているだろうか。これらを常に自省したいと。
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by walk41 | 2017-05-03 11:42 | 身体 | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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