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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

カテゴリ:映画・ドラマ( 14 )

教員という社会的な立ち位置 gesellschaftliche Stellung als Lehrer

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引き続き、映画「学校」(1993年)中の台詞から。

教師、黒井がクラスにいる6人の生徒たちに言う。

「今年の謝恩会なんだけれども。カーッと明るいもんにしねーか。いつもみんなめそめそめそめそして、最後には抱き合って泣いたりするの、本当は俺嫌い。ね、泣いたって何一つ解決しやしないんだからね。だってこれからみんなはね、学歴社会。もう、大学を出たっちゅうだけで、馬鹿な奴が幅を利かしているこの不合理な世の中に飛び込んでってよ。それでもたくさんのね、偏見や差別をはねのけて生きていかなくちゃならないんだからな。え。そういう時にその、別れを惜しんで涙なんか流してる場合なんかじゃないよ。もう、そういう弱い人間であっていいのか。」

夜間中学校に在籍する彼ら彼女らを励ましたい、と思うがゆえの言葉、とはわかる。けれども、生徒の多くは学校に通いながらすでに働いており、「これから…世の中に飛び込んでいって」ではない。児童保護の観点から労働社会から隔絶されている義務教育段階の生徒とは、異なる。

また、「大学を出ただけで」幅をきかせられるほど、物事はシンプルではないのに、そう言い切ってしまう乱暴さにも閉口する。むしろ、タフに生きていくには、こうしたストレオタイプな物の見方は阻害要因になりうる点で、拙いことでもある。この点で黒井は「よい教師」とは言えない。

このシーンに、教員自身は大学を卒業して、倒産のまずない地方公務員な一方、このアドバンテージを得ることのない人間に対して、教員-生徒という非対称のコミュニケーション関係で説教や鼓舞を垂れている、という皮肉な構図を私は見る。そうならざるを得ないのかもしれないけれど、その際に自分のありようにどれだけ分析的であるのかが、教育的立場に問われる人間の誠意ではないかと、私は思う。





by walk41 | 2019-07-20 05:53 | 映画・ドラマ | Comments(0)

学校今昔 Schule, früher und jetzt

学校のいま昔といっても、大昔のことではない。映画「学校」(1993年)を久しぶりに観た。四半世紀前の、東京の下町にある夜間中学校が舞台である。

いろいろと議論したい点はあるが、一つだけ言うならば、校長に対する次のような台詞があったなんて、なんと乱暴な話かと驚かされる。公教育としてのバランスを考えず、教員自身の「居心地の良さ」(夕方からの勤務ゆえの手当も出るだろうし)を隠して「生徒のため」と言い換えている狡猾さすら見る思いがする。

教諭である黒井役の西田敏行が、呼ばれた校長室でこう話す。夜間中学校での勤務を続けたいと言う黒井に対して校長が、学校間転任の例外をこれ以上認めるわけにはいかないと伝えた件だ。

これ以上例外を認めるわけには。どうしてできないんですか。だって、夜間中学そのものが、例外として認められた学校でしょ。これはとっても人間的な行政だと思いますよ。だとしたらですよ、夜間中学で働いてる私のような変わり者くらい、これ例外として認めていただいてもいいんじゃないでしょうか。決まり通りの人事だったら、これコンピュータに任せておけばいいんですよ、校長。いろんな例外を認められてこそ、学校が教育的で人間的な場になるんじゃないでしょうか。

確かに、こうした例外を認めることは人間的である。だから、長く同一校にいることで、人間的であることのマイナス面、たとえば、「学校の主」かのような傲慢な、あるいは多少のことは許されるだろうと、ルーズな勤務状態になる危険性もある。この点では、高校などの部活動での生徒に対する暴行が、当該教員の同一校での長期勤務が背景にあると、大阪市立桜宮高校での事件の後、人事異動が行われた事例を挙げられる。

この映画が上映されたあと、「こんな学校を作りたい」という声も上がったと私は記憶しているが、公教育経営上は「実に困った話」である。例外であることは避けられないし、むしろ積極的に受け入れるべきことでもあるけれど、それは「公教育水準の維持・向上」という視野も持った上でのことと踏まえてもらわなければ。

ちなみに、映画の中で、過酷な環境で働く生徒の猪田(田中邦衛)が、酔った勢いで黒井に迫る。雨が降ったって先生たちは給料が出るんだろ。俺たちゃ、その日からオケラだ、と。真っ当な指摘だと思う。

教員が占める社会的地位を踏まえてなお、困難を抱える生徒の近くにいたい/いるべきだという葛藤状況に耐えられる教員であることの、何と難しいことかと思わされる。









by walk41 | 2019-07-18 22:02 | 映画・ドラマ | Comments(0)

聲の形 die stille Stimme

大今 良時の原作『聲の形』を漫画ではなく、映画で観た。

聴覚に障碍のある「硝子」と、彼女をかつていじめたものの、高校生になり自身を苛む「将也」を中心に話が進む。両者の家族、友人と登場人物が、それぞれに伝わらない聲を持ちながら日々を送っているとも観れる作品かと思う。

冒頭、転校生だった小学校6年生の硝子に対して、聞こえないことでコミュニケーションが取れず、ぎくしゃくする子どもたちによる理不尽ないじめのシーンが続く。筆談用ノートに罵詈雑言を連ねる、数ヶ月のうちに補聴器を8個も壊したのみならず、最後には彼女が装着していた補聴器を引きちぎり耳から出血させる、水をぶっかける。教科書を池に投げ捨てる、と凄まじい。

私の小学校、確か4年生の時のことを思い出す。クラスに聴覚障碍の女の子がいた。今でも名前を覚えている。彼女が補聴器を付けていたのは憶えているが、どれほど聴覚があったのかは知らない。そのクラスの男子たちが彼女にしたのは、いわゆる健常者には奇妙に聞こえる彼女の独特な話しぶりを、意地悪くも真似て笑ったということである。その男子の中に私もいた。

映画のようなえげつないことはなかったから、からかったに過ぎないと言えなくないとは思う。けれど、まったく理不尽ないじめであった、「正常」なことが当然で、そうでない人を嘲っても「正義」だという雰囲気がおそらくあったのだろう。

記憶の限り、それが長期にわたったとは思わないけれど、自分に都合良く忘れているだけかもしれない。また、短期だったから済むという話でもないだろう。申し訳のつかない残酷なことをした、私であった。

by walk41 | 2019-06-22 20:02 | 映画・ドラマ | Comments(0)

教育と宗教

「スポットライト 世紀のスクープ」(2016年)を観た。

アメリカのボストンでの実話を映画化。カトリック教会神父による少年・少女への性的虐待を地元の新聞社が長期の取材、神父全体の約6%にも上るという研究者の声も得て、1500人中、87人の疑いある神父を見つけ出し、70人による加害を暴露した話である。

その中で被害者だった元少年が次のように語る。経済的にも愛情的にも貧しい家庭で育った子どもにとって、教会は別世界であり、そこで神父に認められることは有頂天になる。そこに性的虐待が行われると、信じられない、ましてや告発することなどとてもできない、教会に送り出した近親者にすら認められず、逆に非難すらされかねないような状況に置かれる。神父に逆らうことは神への裏切りでもあるからだ。そうした自分を愛せず、やがて自死した被害者も少なくない。語ってくれた今や大人は自身を「生き残り」と称した、壮絶な話である。

巨大な力を持った/持つと思わせる神父による虐待という構図は、韓国での実話を映画にした「トガニ-若き瞳の告発」(2011年)を思い出させる。聴覚障碍をもつ子どもたちを集めた全寮制の私立学校で、何と校長を始めとした教職員による、生徒たちへの性的虐待が行われていたのだ。

権威の存在、それを自明として自律できない指導者、彼らを庇護し事件を隠蔽する組織-これは教会に限らず学校についても当てはまるのではないだろうか。

最近、こんな教師が中学校にいたと元生徒から聞いた。生徒を日常的に殴っていたその輩はこう話していたそうだ。「殴られたおまえの痛みはじきに消えるが、おまえを殴らなければならなかった俺の心の痛みは消えることはない。」-まあなんと便利な言い方だろう。

昨今、教職は高度専門職にふさわしくあるべく、コンピテンシー論や教員育成指標の策定と、まるで能力のパーツを組み合わせれば「教員がひとり出来上がり」かのような話にもなっている。けれど、教育という労働上、どうしても認められる「教育上の自由」をうまく制御できる自律性こそ、専門職のゆえんではないだろうか。

「そういう規則になっているから」とか「時代がそう求めているんだ」と、他者のせいにしないで、自分で考え、ふりかえり、他の意見にも耳を傾け、行為できること、それを支える使命感や潔さをいかに担保するか。「自信たっぷりに、揺るがぬ信念をもって」ではなく、「こわごわと仕事をする」ことの大切さを知っていること、そもそも知る力を持っていることが、けっこう重要ではないかと思う。





by walk41 | 2018-05-04 23:34 | 映画・ドラマ | Comments(0)

人が亡くなったけれど、さわやか

ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演の「最高の人生の見つけ方」(2007年)を観た。一代で1000億円を超える財産を築いた男と、歴史学の教授になりたかったものの、子どもをもうけたために自動車整備工として45年間働いた男が、いずれも末期ガンを宣告されて、入った病室がたまたま同じだったことをきっかけに、人生最後の数ヶ月、世界を旅する物語である。

The Bucket List”(死ぬまでにしたいことをリストにしておくこと)という原題が示すように、これまでやったことのないことに二人で挑戦するという展開だが、旅の途中、後悔や諦め、喜びや自負を含めてそれぞれの人生を語る。家族に対する感謝と怨嗟も出てくる。その中で、自分なりの人生の総括をしていったのだろう。やがて二人は逝くが、リストをすべてやり終えた、その終わりはとても爽やかである。

「悲劇は死で、喜劇は結婚で終わる」というヨーロッパ演劇の言葉があるが、この映画にその区分は当てはまらない。誰もが避けられない死をどのように迎えるか、それまでにどのように生きるのかというテーマは、そもそも悲劇・喜劇の区分に馴染まないのかもしれない。けれど、このテーマはかなり普遍的と思うのだ。

他者の死を通して自分の生について考えさせられる、そんな良い作品だと感じた。

(写真は、https://imachan1965.muragon.com/entry/290.html より拝借)
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by walk41 | 2018-03-21 14:13 | 映画・ドラマ | Comments(0)

見て見ぬふりをしている自分

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上の画像は、http://masterlow.net/?p=217 より拝借。

映画「この自由な世界で」(2007年、イギリス)をインターネットで観た。イギリス作品ということで米語とは違う英語が新鮮だった。

さて、この作品ではイギリスにおける移民、難民問題が正面から扱われており、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、コソボといった東欧やロシア方面、あるいはイランなどからやってきた人々の状況が描かれる。ドイツ、フランス、オランダやイタリアといった国の名前は挙がらない。同じヨーロッパでも扱われ方は違うこと、さらにその周辺の国々に対する、イギリスのおおよその世論を出演者に代弁させているように思われた。

こんな映画を観ると、「順法精神(コンプライアンス)が大切」といった行政官の物言いや、「みんなが規則を守らないと世の中が乱れてしまう」と物知り顔でいうような教師の言が、いかに安定した、平和な社会にいるからこその世界観に基づいているかがよくわかる。それは、守りたくても生存が、生活が優位するから、守れないことを想像できない、あるいは「嫌だったら、国に帰れ」がいかに酷い言い方かを共感できないことと、さして違わないと思う。みんなが守るべき法や法律があって当たり前と思う「脳天気さ」(「豊かさ」)を疑わない/疑えないか、知っていて知らぬふりを決め込んでいるか。いずれにせよ、褒められた話ではないということだ。

同フィルムの中にこんな感じの台詞がある。”国では教師や看護師、医者だった連中が、ここではウエイターの仕事しかない。しかも最低賃金でだ。” 日本は移民を「最劣等生」なほどに受け入れていないので、一見、「一億総中流」に見えなくもないが、実際には「不法移民」がいるだろうし、彼らだからこそ担ってくれる仕事もあるだろう。

選挙権/被選挙権を持たず、そもそも住民であると胸を張ることもできず、それでいて消費税ほか税金はしっかり取られるという不利な立場の人たちがいることを薄々知りながら、知らないふりをしている自分がいる。「なんとなくだけど、そうじゃないの」と常に流れ込んでくる「常識」に便乗してしまう自分が、見ようとしなければ見えない事柄に対して、知らないふりを決め込む。「知っているふり」をするのは、新しく知ることを恐れているのか、それとも怠惰が勝っているからなのか。自分が批判されることをいかに遠ざけないでいられるか、と考えさせられる映画だった。



by walk41 | 2018-01-20 23:26 | 映画・ドラマ | Comments(0)

自分を疑うことの大切さと難しさ

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年公開)を観た。

3時間を越える長編で、「赤軍派」や「革命左派」が1972年2月のあさま山荘事件に至るまでを描く。このテーマを映像化したスタッフと出演者の技量と努力に圧倒されたのもさることながら、具体を伴わない「社会を良くする」という教条的な思考が、困難な環境でいっそう先鋭化し、リンチ(内ゲバ)そして自己崩壊していくさまを見て、ショックを受け、また消耗した。

「銃による殲滅戦」を通じてこその「共産主義化」、しかも世界戦争を通じてという当事者の論理にも驚かされるが、その戦士に値するかどうかの基準が一握りの「指導者」によって決まり、そこから外れると「自己批判」と「総括」を求められ、最後には死に至るという構図は、こうした事例に限らない、どこにでも起こりうると学ばなければならない、と思わされた。

分類を試みれば、たとえば、
①一つの可能性に過ぎない命題が金科玉条となり、これを疑うことが許されない状況がある(「学力向上」「いじめ撲滅」「常識として」…)。さらには、命題そのものがよく理解できないにもかかわらず、問いかけること自体が反対の立場ゆえと扱われ、保身から沈黙が支配する。(「主体的、対話的な深い学び」ってどういうこと?)。

②この命題をもっとも理解すると奉られる/主張する人物が登場し、それへの恭順さらには服従が直接・間接に求められる(政治家や官僚、「〇〇大学教授」…)。

③情報、身体、感情が統制・制御され、実は方向づけられ、強いられているにも関わらず、自らが判断したかのように錯覚する。(「恐れ多くも…」「~に示されているように」。なお、これを主体的な行為として語ると、「自ら進んで~させる」という表現になる)。

④文書主義が軽視され、官僚制が機能しない権限と責任が不明確なままに、ある意志が貫徹するようになる。(「首相官邸の意向で」…)。

程度の差はあれども、権威への積極的/消極的な服従、自発的な情報の遮断、出所不明な「声」による事態の進行など、どこにでもありうるとは、果たして言い過ぎだろうか。

by walk41 | 2017-12-18 16:03 | 映画・ドラマ | Comments(0)

Platoon

1986年アメリカ、「7月4日に生まれて」と同じ、オリバー・ストーン監督による作品。

1960年代後半、カンボジアとの国境に近いベトナムに派兵された若い男たちが、動機はともかくも、戦闘に参加することになった。そこで繰り広げられるのは、「敵」との戦いだけではない。小隊(プラツーン)の中でもいざこざは絶えず、それは民間人射殺をめぐってピークに達し、アメリカ軍同士でありながら、殺す-殺される関係にまで至る。武器を与えられると人はより凶暴になり、入隊以前の面影を感じることも難しくなるようだ。

最終場面では、激しい戦闘のあと、負傷した主人公クリスは、敵対していた同じ部隊の先輩兵を撃ち殺し、ヘリコプターで後方に送られるところで映画は終わる。何のための戦いの犠牲なのか、戦争を通して浮き上がってくる人間の醜さとはここまで酷いものか。あるいは、社会的に低位な人ほど、戦争に直接に参加しているという台詞をどう聴くか。戦闘シーンの激しさと同時に、容赦ない殺戮(相手を殺すことに躊躇しない)の模様に打ちのめされてなお、感じ、考えさせられる。

こんな作品を見るに、ドイツのクラウゼヴィッツが『戦争論』(1832年)において、「戦争は政治(外交)の延長である」と述べたとされるけれど、20世紀の戦争については、当てはまらない。少なくとも、政治(外交)のように、それなりの見通しや落としどころ(講和)を伴っておらず、非理性的な恨みつらみ、怨念、執念、意地、プライドといったものが支配的だと知ることができる。

第二次世界大戦にて、アメリカ兵の発砲率があまりに低く、それを改めるために、射撃訓練のスタイルが変えられたとも聞く。人間が人間を殺すということが、本能的に難しそうだという見立てのもと、どのような戦争ならばありうるのかを考えるべき、とも思う。

by walk41 | 2017-08-16 23:25 | 映画・ドラマ | Comments(0)

7月4日に生まれて

ロン・コヴィック氏の実話に基づく作品、トム・クルーズが主演した、1989年のアメリカ映画である。

「正義のための戦争」などないこと、戦争は戦闘から離れれば終わるものではおよそなく、本人と家族ほか周りの人々の生涯に及ぶ影響を与えることを、改めて伝える作品と観た。

観終わってから家人と話したのだが、太平洋戦争末期の日本軍が取った、一連の特別攻撃(特攻)という作戦、すなわち、神風、回天、震洋、桜花といった、飛行機、魚雷、ボートなどによる体当たり作戦は、帰還をつもりする必要がない点で、「きれいな戦争」に一役買うことになっていたねと。なぜって、負傷した兵士を救出し、治療して、できれば故郷に帰すという手間を省くことができたからだ。

帰還してPTSDによる社会問題も起きず、障害者手当を支給する必要もない(遺族年金は払わなければならないけれど)。さらには、反戦論者になる懸念も要らない。もちろん、家族や友人、知人の悲しみは避けられないけれど、生前の美しい姿が脳裏に残されるのに留まる面もある。四肢を失い、アルコールやドラッグに溺れる様子を多くの人に見せるより、戦争遂行者にとって好都合だったとは、言い過ぎだろうか。

とまれ、いま、アメリカと北朝鮮との緊迫した様子が伝えられているけれど、どんな方法であっても、武力行使がなされないことを願うばかりである。

by walk41 | 2017-08-14 22:54 | 映画・ドラマ | Comments(0)

Robin Williams氏を悼む

俳優のRobin Williams氏が亡くなったと報じられた。とても残念に思う。

彼の出演した映画を何本か見たが、中でも、「いまを生きる (Dead Poets Society)」(1989)、「パッチ・アダムス (Patch Adams)(1998)、は印象に深い。

前者はエリート男子校の教員に赴任した彼が、後輩でもある生徒たちに、学校批判を通じて世の中に目を向けさせる物語であり、後者は、実在の人物もいるが、精神的疾患に罹った自身が笑いを通じて人が癒やされる素晴らしさに気づき、笑いを取り入れた医学を志す物語である。いずれも、常識に囚われない革新的な人間を演じており、大きな勇気をもらったことを覚えている。

その彼が病んでいたとも報じられているが、自身で命を絶ってしまったことが残念で仕方がない。長い人生には、健康なときもそうでない時もあるけれど、映画を通じて届けてくれたメッセージのように生きてほしかったとも思う。

彼に励まされた一人として黙祷を捧げる。お疲れさまでした。そしてありがとうございました。
by walk41 | 2014-08-14 13:17 | 映画・ドラマ | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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