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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

カテゴリ:授業のこと( 135 )

嬉しいこと was ich mich daruber freue

この間、学生のレポートを読むことに専念している。

その中で、我が意を得たりというべきか、「こう受け止めてくれると嬉しいな」という、授業の振り返りに関する記述があったので、自画自賛なのだけれど、記しておきたい。

曰く、「…この授業では、物事を批判的に捉えることが、自己の偏向性を修正する大切な手段であることを学んだ。また、考える視点を変えることによって、”公共”とは何なのか根本的に考えることができた。この授業はまさに「エレベータ」であった。通常「エレベータ」は下層階と上層階をつなぐものであるが、この授業もまさにそれと同じであった。教員の感情マネジメントという、ミクロな階層から、言語(政策)というマクロな階層に至るまでの広い範囲を「エレベータ」によって行き来しながら、”公共”について考え学ぶことができた。」

読むべきレポートはあと40本、もうちょっと頑張ろう。


by walk41 | 2019-07-17 18:51 | 授業のこと | Comments(0)

しっかりしよう Ich muss mich noch fleissig sein

京都市内の観光地のお店で、一人の女性からをかけられた。「榊原先生ですよね。」驚いて尋ねてみると、最近大学を卒業した元学生だとわかった。なるほど。

私の授業をふたつ取ったとのことだが、「非言語コミュニケーションのことが本に書いてありましたね。」これまた驚くと、「しっかり読みましたから」と返ってきた。

こういう学生は必ずしも多くはないかもしれないけれど、記憶に残してくれる場合もある、心して授業に臨みたいと思わされたことだった。

by walk41 | 2019-04-23 08:30 | 授業のこと | Comments(0)

9ヶ月ぶりの授業

久しぶりの授業で、少し緊張して講義室に入った。

最初の授業は、数日前に入学した学生がほとんどのクラス。およそ80人の学生が新鮮でまばゆい。入門の授業でかつ初回なので、子細にはいることなく、「ものの見方・考え方」のような話を、学校教育に即して話した次第だ。

書かれた感想には、「自分が当たり前だと考えていたことが、考え方によっては真逆になることがあることに気づいた。」「日頃の当たり前を、「なぜ?」と疑えるような気持ちを持ち、生活していく必要があると感じた。」「新しい視点でさまざまな物事を見つめる授業で、とても刺激的で楽しかったです。」「自分のものの見方が狭く、言葉をもう少し豊かに使わなければならないと気づくことができました。」「自分の中でこれまで定義していた正義や悪が合理的ではなく、ぐちゃぐちゃになった。」といった、メタ認知の必要に気づいてくれたもの、

あるいは、「この授業を受け、これから自分の身に起こること、触るものなど、近くのことから疑問を持ち、発見していきたいです。」「教え方や捉え方によって180度違う考えが出てくることがおもしろい。」「先生のお話を聞き、今まで受身な学習姿勢だった私の中で、自分で捕らえて考えるという楽しみを見つけました。」「「考える」ことは普段しているように思えるけれど、実はもっとおもしろく物事を捉えることができる一つの方法なのかもしれないと感じました。」「この授業の一コマだけで、今まで自分が当たり前に思っていたことがくつがえる話がいくつかあったので、もっと周りを見渡せば、他にも不思議に感じることや謎に思うことが多く見つかりそうな気がする。」「自分のもっている価値観を取り払って考えることはすごく面白いなと感じました。」「多角的に生徒や物事を見れる教師になれるよう大学生活を過ごしたい。」と知的面白さに気づいてくれたもの、が見られた。

また、「この授業ではグループで話し合う時間があるため、意見交換できるので、自分の考えとグルーぷの人の考えを合わせて、さらに深められるようにしたい」と一人で考えるだけではないことの意義への言及もあった。これら3点はこれまでの授業でも出されていた感想でもあるが、くわえて、「今日の講義はとても興味深く、おもしろい内容で、これからの授業がとても楽しみだと感じました。」「これからの授業を楽しみたいと思います。」といった楽しみへの言及もいくつか見られた辺り、授業者である私が「丸くなった」というか、穏やかになったゆえかもしれない。



by walk41 | 2019-04-11 16:42 | 授業のこと | Comments(0)

授業者と児童の「変身」

学生たちと話をする。研究授業、公開授業ってどんな授業改善に役に立つ、つまり日常の延長上にあるものなんだろうかって。

これに対する元児童たちの経験は次のようだった。「その授業の前の時間までは、ジャージ姿だったのに、その時間にはスーツ姿になっていた。」「前の時間までネクタイをしていなかったのに、ネクタイをしていた。」「午後にあった授業の直前の掃除、いつもより丁寧にしていた。」「いつもは板書で済ませるのに、その日は色画用紙に予め書いてあるものをマグネットで、しかも一度しか使わないような磁石をセロテープで貼り付けてあるもので授業をした。」

どうだろう。教員の変身ぶりをよく見ているではないだろうか。また、児童も変身を余儀なくされたようだ。「後ろに座っていたら、参観者が自分のノートをのぞき込んだので、ちゃんと書かんとあかんなと思って、いつもより丁寧に書いた」「何、書いてんのん?、なんでこう思ったん?と尋ねられたので、思ったことを答えた。」

いずれも、普段の授業ではないような変身ぶりがうかがわれるではないか。来客へのマナーゆえと言えなくもないけれど、ならば、「ようこそ、お越し下さいました。今から、ぜひご覧いただきたく授業をしますので、ごゆるりとご鑑賞ください」と口上を述べればいいのに、それもなく、それどころか、参加者をまるで見えない、透明人間かのように扱う授業すらある。「いつもの授業」を仮構しているからこそ起こる、不思議な光景である。

見せるならば、ちゃんと見せる格好をとってほしい。舞台での芝居や演奏のように。また、そうでないのならば、刑事物のドラマに出てくるような容疑者の顔改めのように、一方向からしか見えないようなガラス越しに見てもらいたい。こんなふうに、どっちつかずの中途半端な「公開」授業。いい加減になんとかならないものだろうか。



by walk41 | 2018-05-13 17:54 | 授業のこと | Comments(0)

研究の国際交流

ドイツを訪問した際に、授業の主観的側面と客観的側面のいずれにも配慮した授業研究、「エビデンスにもとづく授業診断とその開発方法」(Evidenzbasierte Methoden der Unterrichtsdiagnostik und–entwicklung, 略記してEMU)に携わっておられる、Herr. M. Ade-Thurow氏と面談する機会を得た。2011年に始まった研究だが、その進捗状況と課題についてお考えを伺うためだ。

その後、同氏からメールを頂戴した。研究代表であるKoblenz-Lindau大学のA.Helmke教授に、過日の私との話を伝えられたところ、2014年に日本語で紹介した論文(榊原禎宏・清水久莉子「授業を観るとはどういうことか―ドイツにおける「エビデンスにもとづく授業診断とその開発方法」の提案―」『京都教育大学紀要』No.1252014https://docs.wixstatic.com/ugd/b7f39f_c29a6986e8224f149834c8a8a2a03587.pdf) を、EMUのホームページ (www.unterrichtsdiagnostik.info) に掲載していいかと問い合わせがあったというのだ。実に嬉しいことである。

おそらく近々、同ホームページにアップロードされるだろう。より丁寧に研究に臨みたいと思う。




by walk41 | 2018-03-01 10:36 | 授業のこと | Comments(0)

授業参観で頑張る?

私はfacebookを研究室向け専門に使っているが、「友達」か「知り合い」絡みでそれ以外のニュースが流れてくる。その中に、現職小学校教員が自分のクラスにて子ども向けに板書したものがあり、「真実は細部に宿る」を実感した次第だ。

その主旨は、年度さいごの授業参観に向けて頑張ろう、日曜日の授業だけれど「チームの団結」で精一杯に取り組もう、結果はともかくもやりきろう、というもので、授業を観られることが何かの発表会かのようであることに疑いを持たない、あまりにもナイーブなものであった。

この教員にとって、授業参観は観に来る人のためのパフォーマンスであり、それを「よりよい」ものにするには、児童に懸命さやチーム的態度が必要とされる。さて、こうした立論は何に根拠づけられるのだろうか。学校評価にも連なるが、保護者に来校願うのは、なるべく普段の子どもの様子を知ってもらうことであり、いつもとは異なるショー(見世物)のためではない。この点は、たとえば、「日曜日授業参観事件」とも整理される東京地裁1986.3.20の判決文中の以下が参考になる(http://appli.attack-defense.biz/ から拝借)。
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また、授業をチーム活動かのように捉えるのも素朴に過ぎ、厳しく言えば罪深い。野球から始まったチームという言葉は、追いかけるべきボールが一つであり、当事者の目や身体はすべてそちらを向くことを前提にしている。送りバントのように、チームのためには自分が犠牲になることもやむを得ない。もちろん監督の采配で、代打を起用することも日常である。

これを授業に当てはめると、どうなるだろうか。授業について行けない子どもは静かにするのがチームのためである。みんながわかっているかのように見せるには好都合だからだ。あるいは、できる子どもをもっぱら指名し、何を言い出すかわからない子を当てないことが授業者には肝要である。とくに授業の後半やまとめの局面においては。

ちなみに「学びの共同体」についても同じである。共同体と名乗るならば、全体のために犠牲になる個もありうる。敵と味方の区分、見方内部のヒエラルキー(階層・階級)やリーダー/フォロワーの存在も想定してこそである。ところが、当事者の議論ではそのようなものは欠片すら見当たらない。「みんなで仲良し」の域を超えない。安倍政権が「お友達内閣」なのと同様、こちらは「お友達サークル」である。

あれ。でも、これでよかったのだろうか。授業で何をするためのチームや共同体の存在なのかしら。それは、どんな目標を実現するための場や集団なのだろうか。近代社会は個人の利益を最大化することが使命ではなかったのかな。

さて、授業や教室がこうした要件を備えておらず、そもそも「みんなのための」ものでもないのに、ファンタジー豊かに言葉遊びをすると「チームの団結」「共同体」と的外れで、頭でっかちの(机上の空論)話に終始する。物言わぬ「いい子」は、こんな物語につきあわされていることに気づかないか、気づいても我慢を強いられるだけである。大人になって「騙された」と声を上げるのが関の山だ。

こんな教員がどれだけいるのかわからないけれど、「何となく」こうしたものを板書したり、しかも不特定多数が目にしうるSNSに挙げるのはやめてほしい。

自分を「先生」と思うことの弊害は、かくも大きい。




by walk41 | 2018-02-12 21:06 | 授業のこと | Comments(0)

論理を鍛えるー形式陶冶

見せてもらった授業は算数だったが、私には形式陶冶的、つまり単元を学ぶではなく、単元で(を通じて)学ぶという点では、論理の授業だったように思われた。

課題は「4人がこれまでに走った記録をもとにして、マラソン大会での監督として誰をあと一人出場させるか」を問うものだった。それぞれの平均タイムを出せば、代数としてはすぐに答えが出るけれど、そこに人が選ぶ際の基準が含まれるために、いろいろな選び方がありうることを、生徒は実感できたと思う。

最初に、誰がいいのかを各自で選ばせる。きっと平均値に着目しするだろうから、1つに答えがまとまるかと思いきや、はじめから4つにばらけたことが興味深かった。同調圧力、付和雷同を求める雰囲気がきっと少ないクラスなのだろう。

そして、さらに面白かったのは、4人のいずれを選ぶかの立論が、必ずしも数学的な範疇に留まらず、実社会的な人間の推論をも含むものであったこと、また、そうした立論を授業者がありうることと受け止めていたことだった。

生徒たちから出た理由づけは、平均値のより低い人を選ぶ(平均してもっとも速い)から始まったが、その後すぐに、最大値と最小値を除いた平均値をもとに主張した生徒が現れた(これは国際競技などでの採点方法に似ている)。

あるいは、最大値のみを除いた平均値を主張した生徒もいた。それは、大きな外れ値は体調不良などのアクシデントによるものだろうという推測にもとづく。なるほど一理あるな。と同時に、こうしたアクシデントが起こりうる人ならば、不安材料だから起用すべきではないという意見も出た。

はたまた、この立論も面白かった。すなわち、最大値と最小値の差がもっとも小さな人が、安定的に記録を出せる点で信頼できるというものだ。この発想には驚かされた。ただし、これにも別の生徒から、安定的であっても遅ければ仕方がないと反論も出た。これももっともな主張である。

他にもこうした立論が述べられた。3人は10回の記録が上がっていたが、1人は欠席して8回のみ。ここに注目すれば、欠席するのは体調不良だろうから、この人を選手に選ぶのは危険だという消去法的な発想である。以上の説明は不確かな部分を含まざるを得ないので、生徒からは「まあまあ」とか「たぶん」とも発言されたが、授業者はそのまま受け止めていたあたりも、狭義の算数ではないなと感じた次第だ。

授業を見ながら、自分ならどんな別の推論ができるだろうかと考えてみた。たとえば、8回のみの記録がある人はまだ体力を温存しているだろうから選ぶべきではないか。あるいは、回数を重ねるほどにタイムが短くなっている人に、今後の伸びしろを期待できるのではないか、と。

こうして授業が終わったが、終わりの際に、自分の立論をうまく語彙的に説明できず、クラスメイトに補ってもらっていた女の子が、小さく拍手をした様子が、とても印象的だった。一つの答えに終着しないテーマの面白さ、その検討の過程を交通整理する授業者の力量(観察、判断、行為)のいかんがが問われる、と思わされたことだった。



by walk41 | 2018-02-09 10:59 | 授業のこと | Comments(0)

校内研究再々論

拙ブログをご覧下さっている皆さんには「いつもの、校内研究はヘンって話か」と食傷気味だろうけれど、この間、多くの現職教員の皆さんと過ごす中で話してみた。

我田引水だけれど、次のような感想を得たのでご紹介したい。

…研究授業の無意味さ、研究というネーミングへの違和感についてお話しされたことは、新鮮でした。日頃から教職員の間では、何ら積み上げや次年度への課題が引き継がれないこと、また、その一日のみせもの的な授業にために費やす膨大な時間やエネルギーについて、疑問の声が上がり続けているのに、同じことが続いていくことに諦めを感じていました。先生のお話に共感するところが多かったです。…

…研究授業は、私にとって年に一度のとても嫌な日でした。講義にあったように、指導案の内容など改善されればもう少しは良くなるだろうと思いましたが、これまでの形式を変えるのは難しいと思いました。…

…授業研究は学校内、あるいは中学校区内で完結すべきだと思います。勤務校のような100名に満たない、のどかな田舎の学校の実践がどの学校にも通用するとは思えない。研究発表をしてから「貴校を参考に実践したら、子どもの意欲が向上しました」との報告は、一件しか聞いたことがない。また、その時の研究主任が次の学校でも実践して上手くいかないという話も聞く。学習方法の効率化を求めて収束するのではなく、こんな条件、こんな教師、こんな子どもの場合には有効といったように、拡散していくことの方が、これからの教育現場に求められていくのではないか。個に応じた学習方法や合理的配慮が求められる現在、鉄板化された授業を研究するのはナンセンスではないか…

私の提案を聞いた人の中には、異論を持つ人もいるとは思う。けれど、少なくとも考え直してみること、議論を試みることについては了解下さるだろう。「働き方改革」とも言われる昨今、やりたくない、成果の見えないことに多大な労力を割くことほど、虚しく不健康なことはない。現職教員の皆さんの勇気が、今の事態を変えることに発揮されるよう強く願う。

by walk41 | 2017-08-11 23:49 | 授業のこと | Comments(0)

何気ない言葉

大学の授業における教員の口調について、こんな話を聞いた。

ある教員は、学生に向かって「話をしてもらっていいですよ」と言うのだとか。これを聞いたある学生は、なんか嫌だなぁと。

この受け止めは分からなくはない。教員は、なんとなくそう言っているのだろうけれど、聞く側に立てば、話をすることに許可がいるかのような印象を受けるのだろう。この不快が高じて、この授業に出たくないなぁ、参加したくないなぁと思われてしまうと、もったいないことである。

手前味噌になるけれど、私の授業では次のように発問するようにしている。「この点、とても不思議だと思わない?」「ここについて、みんなの意見を聞きたいんだけれど」。研修会や講演では次のように発することもある。「こんな疑問があって、皆さんに答えてもらえればなと」。

多少は演技が入っているけれど、問いに対して自分がわからない、あるいは他の考えも知りたいと思ってることは事実だ。もっとも、この「わからない」ということと「何も伝えていない」ということは雲泥の差だ。

授業が、受講者や学習者のためのものならば、彼ら、彼女らがより発言したくなるような、そしてより聞きたくなるようなデザインに、授業者はより心を砕かなければならないのだと思わされる。

by walk41 | 2017-06-28 07:56 | 授業のこと | Comments(0)

(榊原版の)公教育経営を学び考えるとはどういうことか

この授業で何を学べばいいのか、教員は何を伝えたいのかをわかりやすく教えてほしい、と学部生から質問があったので、これに答える格好で以下を記してみよう。

私の公教育経営論、実は社会教育や生涯学習などを含まない学校教育経営論なのだけれど、それはマクロ、メゾ(ミドル)、ミクロのレベルに大きく分けられ、おおよそ学校政策・行財政、各校の学校経営、(学校)教育実践の領域に対応する。

授業の目的の第一は、これらの領域に含まれる基本的事項を知らせることだ。ともすれば、いかに授業を準備し、実際に進めるかにもっぱら関心のある学生の場合、学校や教室が、文部科学省-都道府県教育委員会-市町村教育委員会と関わっていること、それぞれが法的・行政的権限と財源を伴って、人的・物的・財的な資源の管理と開発を担っていることを、全くといってよいほど知らない。

たとえば、学習指導要領と教科書検定、教育職員免許法と地方公務員法、教育公務員特例法、学校に置かれる職位と職権についても、まず何も知らない。官僚制と組織、言語・非言語コミュニケーション、集団力学、意思決定、認知と感情についても、ほとんど説明できない。そもそも教育人口はどれくらいで学校はどれほどあるか、地方自治体はいくつ、教員の給与水準は、学校のものの値段は、といった、教育系を専攻したならば常識的であるべきことにすら学生はまだ出合ったことがないのだ。

だから、これらの極く表面的なことを伝え、まずは知っておくようにと話をする。もちろん、これらを授業で網羅することは時間的に不可能だから、私が扱うのは断片だけである(ずっと説明しても退屈だろうし)。あとは自学でやってもらうことにして、ミニワークを授業間にも課してこれを促す。学校教育の用語辞典の類を見て、だいたい意味がわかるようであれば合格だ。

ところで、学生たちは児童・生徒の経験はあっても、学校で働いたことはないからイメージの得られない場合が少なくない。それを補うために学校でのエピソードを紹介したり、映像資料も見せる。学生の経験も掘り起こし、それが教育側にはどのように映るだろうかと問いかけもする。もって学校を見る視点の転換をねらう。

授業の目的の第二は、学校教育の基本的事項が人工物、つまり人間の作り出している所産だから、常に論争的であり、葛藤していることを伝える。自然科学ならば基本的事項を知ること、それらをいかに観察するかに傾斜するのに対して、人文・社会科学では、基本的事項そのものが相対的、暫定的だから、現在は何が論的なのか、さらには論点そのものが転換する(基本的事項そのものが書き換えられる)可能性を提示する必要がある。

学校は言わずもがな近代社会の産物であり、そこには時間的・空間的な条件と価値が色濃く投影されている。それは、「子どもの成長」「高度に発展した社会」イメージに見られるように、社会発展像に呼応した成長・発達論、分類と配列にもとづく秩序志向などを柱にする。そこで論点となる、葛藤するのは、たとえば、教育と学習、学習と学習棄却、認知と感情の操作と「自然」、文化資本と学力、セクシャリティ・ジェンダーと子ども、国民教育とグローバル化、教育水準の維持向上と「教育上の自由」あるいは地域性、人格的行為としての労働と組織人としての業務遂行、教育計画と「失敗」など、枚挙にいとまがない。

学生たちは高校まで「正解」があるはず、と教えられてきているので、論点を知る、何に葛藤しているかを知るという「考える」ことに馴染みが少ない。けれど、「正解」は必ずしもなく(むしろ、ほとんどなく)、曖昧なこと、不確かなこと、そして無常なことを、大学では学ぶ必要がある。「考える」ためのヒントを知り、考え続けるための態度や体力を養うことが必須である。ひょっとしたら、質問の君も「正解」があるとまだ縛られているが故の疑問かもしれない。

考えるヒントを得ることは、「わからない」「どちらとも言えない」と終わるけれど、それは「何もわからない」とは全く異なることを、学生は知らなければならない。学校教育がどのような構図で理解されうるか、そこで論点となるのは何か、それぞれを裏付けるデータや論拠はどのようかを突き合わせ、より「もっともらしい」捉え方ができるようにならなければならない。そこで求められるのが、モデルを構成する力、メタ認知の力、生産的な議論を交わす力などである。思い込み、決めつけ、常識的判断といったものから距離を取り、学校をいかに多面的に捉えられるか、が問われる。

以上、二点を目的に私は授業を行っているけれど、学生はこれについて来てくれているだろうか。学校教育のマクロ、メゾ、ミクロの各レベルに該当する基本的な知識と理解は伴っているだろうか。また、それぞれの領域で考えるべきこと、改められるべきことに関わる議論を組み立てられるだろうか。たとえば、教員と児童・生徒の関係論(ミクロ)、教職の同僚間の協働と個人の裁量、あるいは管理職の権限(メゾ)、外国人児童・生徒と国民教育(マクロ)、それぞれの具体と問題を説明できるだろうか。

このような「問い」を立てるに足るだけの知識と理解が学生に身についているかどうか、が授業者からの評価の眼目になる。質問に答えられただろうか。ならばこの方向で大いに励み学んでほしい。

by walk41 | 2017-06-27 18:09 | 授業のこと | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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