学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:研究のこと( 103 )

長期的統計の意義

9月1日、いろいろな節目でもあるだろうけれど、学校教育の世界では、子どもの自殺がもっとも考えられる日として、「登校は義務じゃない」と注意喚起、電話相談、緊急受け入れなどが準備されているという。

この根拠になるのが、1972-2013年の「18歳以下の日別自殺者数」で、これによると9月1日の自殺者数が突出していることだ。夏休みが終わり、嫌だった人間関係が戻ってくる、勉強にまた向かわなくてはならない、といった圧力から生じる自殺もあるだろう。

もっとも、この日が2学期の初日だという学校はどれくらいなのだろうか。20年も遡れば大方そうだったと思うが、学力向上の掛け声とともに夏休みが短くなっているように見える。私の近くでは、今年度で言えば8/23,24から始まっているところがあり、9月からと聞くと、いいなあと思わされるほどである。ならば、9月1日だけに注目しても仕方ないではないか。でも、それを言い始めると、キャンペーンの効果が弱まってしまうし。

社会現象を捉えようとするときのジレンマはここにも見られる。短い期間の観察、記録では「たまたまそうだっただけ」と批判されるので、長期的に見ようとすると、対象やその環境が変わってしまうことがある。

先日、1988-2013年の170万人の患者を対象に、誕生月によりなりやすい病気があるというアメリカ、コロンビア大学の研究を知ったが、時間の長さと合わせてケースを大量に集めることで、より信憑性のある研究が目指されているのだろう。さりとて、たくさんのケースを扱うにはお金もそれこそ時間もかかる。コンパクトにわかりやすい知見を提出するのは、自然科学も同様だろうが、社会科学についてもなお難しい。

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by walk41 | 2016-08-30 10:32 | 研究のこと | Comments(0)

相関関係が即、因果関係ではない

鉄五郎さんからコメントをいただき、思い出したことがあった。それは「総合的な学習の時間に発表などができている学校ほど学力テストでの成績が良好」というデータから、総合的な学習の効果を述べる新聞記事のあったことだ。

そこには、総合的な学習に関する学会メンバーの声も紹介されており、だからこの時間が有用であると言う趣旨があったかと思う。でも、これって話が逆じゃないのかな。

つまり、いわゆる学力が高い生徒の多い学校では、総合的な学習の時間に(おいても)積極的な活動が可能、ということではないのだろうか。総合的な学習の時間の経験が「学力」に影響しているかもしれないけれども、このデータの限りそれを導くことはできない。言えることは、両者が相関している可能性についてであって、先に総合の時間があって、その後に「学力」が来るわけでは必ずしもない。

同じことは、多くの「授業研究」についても当てはまる。「〜すれば、〜になる」という表現は、順序を前提にしているけれど、それは相関関係にとどまるのかもしれない。すなわち、 「〜になることと、〜になることとは関連している」と理解するのが、事実に対してより誠実だということだ。

なのに、「なんとなく」そう思ってしまう、それを疑うことなく断じてしまうことがまま起こるということ、本当に恐ろしいことだなって思う。
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by walk41 | 2016-06-22 20:27 | 研究のこと | Comments(0)

権威主義と戦う

学会でおしゃべりをしていたところ盛り上がり、私が「だから、威張る人は嫌やの」と話したところ、ある人が「研究は、権威主義と戦うためのもの」と話されたのを、我が意を得たりと強く思ったのだ。

権威主義とは、実体のないものをあたかもそれがあるかのように振る舞う様だ。これに対して研究とは、どのような実体なのかを明らかにすることを通じて、ともすれば権威主義に陥りがちな世界に異議を唱えること、そこに研究の意義がある、と聞いた。

特に教育や学習について議論することは、ちょうど見えないものをあたかもそれが存在するかのようにふるまうことでもあるので、権威主義にすっぽりとハマる格好になる。これに対して観察や回顧あるいは社会調査などを通じて、その実体に迫ろうとすることが、権威主義を批判し、そのベールを剥がすことになるのだ。

なんとなくそのように思ってしまう、なんとなくそんな風に行動してしまう、こうした感覚や論理、さらには行動様式を振り返り、違う理解に努めようとすること、それが研究の悩ましく魅力的、そして勇気を要する点かと思う。
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by walk41 | 2016-06-12 21:13 | 研究のこと | Comments(0)

研究者と言われる人の仕事

尾木直樹という教育評論家で大学教授でもある人が、日本社会が子どもを大切にできていないのではないかと話をした記事を、今頃になって読んだ(朝日新聞、20160129)。記事は次のように終わっている。

…話の最後に、こう訴えた。「せめて教育のところだけは、命を大切にするよう守って下さい。子どもが夢や希望を抱けるよう、お願いします。お願いします」(氏岡真弓)

スキーバス事故でゼミ学生を失ったという立場でもあり、気の毒とは思う。それに引っ張られてもやむを得ない面もあるだろう。しかしながら、それらを斟酌しても、こうした発言を教授の名の下に行うことは、あまりに酷い。

この人には、事実を丁寧に分析し考察するという手続きが、決定的に足りない。その代わりにあるのは、自身の信念の吐露とこれにそぐわない出来事の糾弾だけである。このようなおよそ思考能力を欠いた人がなぜマスメディアに取り上げられるのかわからない。いや、日々起こるあれこれに思いつきのようなことを言う人が、珍重される世界がマスメディアなのかもしれない。

研究者を自認する人は、次のように考える。教育という名前のもとに命が大切にされていない状況とはどのようなことか。またそれはどのような仕掛けや解釈の結果として生じているのか。あるいは、そもそも「教育が命を大切にする」とはどういうことか、教育がもつ暴力性を鑑みたとき、それは成立する命題なのか、学校教育を経験することで助かっている命についてはどうか、といった問いを立てる。だけど、この人はきっと持ち得ていないのだろう、現実を不思議な謎として捉え、その解明に臨むという作法が。この人には研究者ではもとよりなく、むかし小浜逸郎が論じた「教育教」の信者と名付けるのがふさわしい。教育を疑い、多面的に考察する体力と気力をもたない、思考弱者である。

近い将来、この人の垂れ流したお喋りがどれほど悪影響を及ぼしたかの検証をする人が出てくることだろう。そして、事実に対して謙虚であること、すなわち、出来事を事実として解釈する自身の歪みをより認めるべきこと、自身の語りをドグマではなく批判されるべき余地を含みながら構成すべきこと、を後進は学ぶことになる。さらに、マスメディアの多くが実にいい加減なものだということも、より知られることになるだろう。
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by walk41 | 2016-04-27 11:51 | 研究のこと | Comments(0)

研究とは新しいことを見つけること


幼稚園の研究発表を聴く機会があった。生き物を幼稚園の中に取り入れて、園児の思考に関わるどのようなことが観察されるか、それは獣医師の研究を裏づけるものか、を確かめようとしたものだ。とても興味深く聴いた。勉強になった。

研究スタイルの点で学んだことは、改めてを含めて、新しいことをしてこそ研究と言うべきだということ、これまでやったことのない試みをして初めて、気づかなかったこと、知らなかったことに出会えるかもしれない、と楽しみが生まれる。

そこには、元気と勇気も必要だ。これまでと違うことをするのだから、面倒だと思うだろうし、従来を否定する場合もあるだろうから、ちょっと滅入るかもしれない。けれど、それを敢えてやりたい、やるべきだという危機感や問題意識が伴えば、新しいことに臨むだろう。つまり、自分や回りをモニターしていなければ、疑いを持つことがなければ、革新しようとは思わない。

また、新たなことをやるとは、相当に限定的なものでなければ、それとはっきりしない。ぼんやりと新しいことはできないから。対象や方法の焦点を定めた、期間やメンバーも限る方がよい。「みんなでやること」を第一義的に考えないことだ。もちろん、何をやろうとしているのか、どんなデータが得られているのかは、みんなに知らせて、意見ももらえばいい。そのことと「みんな一緒に」とは別物だ。何かを明らかにするために適切なメンバー、期間を決めればいいのであって、決してその反対ではない。

けれど、多くの場合は、みんなでやることが第一義的なのだろう。この結果、何を明らかにするかがなおざりにされ、そもそも、研究と叫んでいても何も明らかにしようなどと思ってもいないことが起こる。本末転倒が日常化する。子どもたちに、日々成長しようと檄を飛ばす教員が、自分についてはそうしようとしない。なんとも哀しい話である。
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by walk41 | 2016-02-28 18:01 | 研究のこと | Comments(0)

研究発表会

ある研究発表会で、締めの挨拶をすることがあった。その数日後、一人の教員から「こういう言い方をしたら失礼なんですけれど」と前置きされて、話しかけられたのだ。

何かまずいことを言ったかなと恐々聞くと、「あの話が一日の研究発表会の中で一番良かったです」と言われる。どういうことかと聞いていると、多くの場合、「皆様の忌憚ない意見を伺えて良かった」などと心にもないことを言うか、それとも、上から目線で偉そうに言うか、いずれかだが、私の話はそれらと違い、「ここで提案したことを皆さんの学校でも試みて下さい。そして、それぞれの学校でやってみた結果を、こちらにも教えてください。」と話したからだと言われたのだ。

間違っても参観者にヨイショしたわけではないし、奇をてらったわけでもない。授業を見たからといって、法則的なことが学べるわけではないし、もとより、そのクラスだからこそできることが大半なのだから、直接に使えることがあるはずもない。常日頃、そのように思っているから、先のような話になったのだけれど。

みんな、無理してるんかな。再現性のないシロモノを相手にしているのに、わかったようなことを言わなあかん、って思ってしまうのは。だから、結果的に嘘つきになる。学ぶことはおおよそ主観の違いに起因するのだから、どのように見ているのかを相対化することで、多様な解釈を促すように議論を進めること、これこそが研究発表会でも大事な態度やと思うんやけれど。
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by walk41 | 2016-02-24 20:46 | 研究のこと | Comments(0)

嬉しかったこと

ご縁を得て招かれ、北海道に来た。

担当の方とお会いして話をしていると、数年前に私が担当した研修に参加されていたことを知る。だから、呼んでくださったのかあ。

嬉しかったのは、私のことを覚えて下さっていたからだけではない。「先生が研修で話されたことを、システム手帳に書き留めていて、今もときどき読み返しているんです」と聞いたからだ。そんなそんな。

どんな話をしたのか、研修講師だった当人にはもう定かでないけれど、この方には何か残ったようでとても嬉しい。研修の効果というほどのものではないけれど、何年か経って、ひょんな機会にこんな話を聞けるなんて、何て幸せなことかと思う。
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by walk41 | 2016-01-27 16:48 | 研究のこと | Comments(0)

新たな問いへと開く

年に3回集まっては、勉強会を続けているメンバーがいる。かれこれ5年ほどになる。前回は、私に講演が入っていたためにお流れとなったので、このメンバーで会うのは、ほぼ9ヶ月ぶりだ。

それぞれの報告を聞きながら、自分の中で気づき、そして喜びを感じられる瞬間に多く出会う。

学校にとって地域とは何なのか、教育目標や方法の基準と教員、生徒の個別性はどういう関係なのか、規制をしすぎるとかえって目標から遠ざかるのではないか、と新たな問いが生まれる。こうした経験のできることが、忙しい中、遠方を含めて集ってもらう意味だと実感する。

こうして一日を過ごせたこと、幸いと思う。
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by walk41 | 2015-12-12 22:07 | 研究のこと | Comments(0)

人間は確率の論議に馴染まない

ネット配信されるニュースに、「子供の学力、生涯収入が必ず伸びる! 子育て世代がぜひとも知るべき 「教育経済学」を紹介しよう」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44004#gunosy とあった。

中室牧子『「学力」の経済学』という本について、教育が何をもたらしているのか、エビデンス(証拠)を示す同書を高く評価し、「それでは、「経済(学)」と付かない「教育学」とは一体何を内容とする学問なのだろうか。エビデンスに基づかない雑多な精神論の集まりでないことをただ祈るばかりだ」と辛口で締めている(山崎元「ニュースの深層」)。

こうした論調には、いつもながら違和感をぬぐえない。その理由を二つほど挙げよう。
その一、国家レベルの教育政策を立てるのが目的ならばともかくも、それぞれの家庭や学校にとっては、丁寧な幼児教育を受けた場合とそうでない場合について、その後の追跡から、前者は6歳時のIQ、19歳時の高卒率、27歳時の持ち家率、40歳時の所得がいずれも有意に高く、47歳時点までの逮捕率は低かった、と紹介されても、目の前にいる子ども(とその保護者や教職員)にとっては、ほとんど意味を持たない。個々にとってはそうなるかならないかの二者択一の話であって、そうなる可能性が高いと言われても困る。そもそも、丁寧な教育を受けられる状況にあるのかどうかを問えない点でも、この種の議論は心細い。

その二、教育という出来事は、時代や地域的な背景により多様に価値づけられる。教育は世の中のさまざまな条件の一つとしてあり、社会的に「教育が一番」とは限らない。小・中学校の教師の能力下位5%を「平均並み」の教師に変えると、生徒の生涯収入の価値が2500万円くらい異なると紹介されても、そこまで高給で教員を募ることが社会的に認められるのか。そもそも、生涯収入の多いことが「幸せ」とも断言できない。稼ぐことに懸命になったがゆえに、「縁の下の力持ち」の仕事に就く人が尊ばれないことは望ましいのか、も分からない。今の時代の価値観が、将来的にも同じであるとは、これまでの経験を踏まえればとても言えることではない。

つまるところ、学校教育もその一つだが、いつでも、どこでも当てはまるような証拠として、教育は馴染まない。教育がどうだったかは、相当に個人的に受け止められ、その中に「能力」に繋がるかもしれないという、曖昧でアテのないものでもある。その見えにくさに人はロマンを感じ、将来を楽しみにするのだろう。昨今は「見える化」「計測化」とも言われるが、人間に対する操作が可能という素朴でそして恐ろしい発想を問い直すべきではないだろうか。
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by walk41 | 2015-07-03 00:05 | 研究のこと | Comments(1)

ケース研究

校内研究ーそのほとんどは幼児、児童、生徒に関するものだがー、について、飲み会話で盛り上がる。

その中で、学級集団を捉えることは事実上できないし、かといってケース研究、事例を扱っても、学校教育の研究にはならないなあと、気づかされた。まさに「どっちもつかず」である。

繰り返そう。学校は幼児、児童、生徒と呼ばれる子どもを集合的に扱うところだ。「個に応じた指導」といった言葉が強調されるのも、それだけ個に応じていないからこそである。何年何組何番と常に帰属が求められ強化される。着用が求められる名札、決められた座席、クラス目標、班活動、◯◯隊形、どこに個人を基本にした場があるというのだろう。だから、そこで行われる授業は集合的なものであり、「より良い」授業も「全体的」に問われることになる。

けれど、授業の観察者は、あの子がこの子がと見たものをケースで言わざるを得ず、それがなぜかクラス全体を代表するものと無前提に見なされる。「あの子の様子がこの授業を象徴していた」ってね。そんなん、わからへんのに。

全体をとらえる方法も論理も乏しく(平均というロジックはかなり乱暴だ)、かといって個を捉えたからといって「だから?」と聞き返される(それに、あまり個人に注目すると、観察者効果を及ぼしてしまう。つまり「本当の姿」は見られなくなる)。

残されるのは、何十万人といった規模での統計的分析で教育の効果を測定するか、個人による記録か、辺りかなあ。


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by walk41 | 2015-06-06 08:59 | 研究のこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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