学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:学校教育のあれこれ( 641 )

ランドセルの色

きっと今日が入学式なのだろう。保護者と連れ立って歩く小学校1年生らしき子どもを何人か見かけた。そこで、ランドセルの色は女の子なら赤、男の子なら黒、と言うのが常識だという見方が、いかに歴史的限定つきかを感じる。

私が見た女の子のランドセルは、紫と青だった。小学生を持つ知り合いのお母さんにそのことを尋ねると、いまテレビかで紫色の主人公が人気らしいですよ、と返ってきた。なるほど。

グローバル化とは、一面で画一化が進むことだけれど、もう一方、ローカルやナショナルな、多分に不文律な規制の縛りから解き放たれていく過程でもある。性別によって色が区別されるという規則も、いまや去りつつあるのかもしれない。

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by walk41 | 2018-04-09 10:44 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校部活動「適正化」狂想曲

学校での部活動を減らし、教員の働き方改革を進めるトーンが強まっているが、最前線の各学校とそれを支援する教育委員会では、混乱を極めているように思う。

教員の過重負担、長時間労働を抑制するべく、「土曜日及び日曜日は少なくとも1日以上を休養日とする」、「1日の活動時間は、長くとも平日で2時間、休業日では3時間程度とし、できるだけ短時間に、合理的かつ効率的・効果的な活動を行う」(スポーツ庁ガイドライン)などと出されているが、その現実味が乏しいために、いろいろな解釈がなされていると聞く。グランドの準備、道具出し、練習あるいは試合、片づけ、グランド整備をすべて含めて、この時間内に活動を終わらせることが実際にはできないからだ。

このため、たとえば次のような解釈がありうる。
・活動時間とは、生徒が部のスポーツをしている時間、たとえば走る、ボールを追いかける時間だけを指し、準備や片づけ、待ち時間などは含まない。

・土日曜日の少なくとも1日を休むというのは、土曜日の半日と日曜日の半日、合わせて、1日としてこれらも「1日を休む」ことと見なす。

もう無茶苦茶である。これだけ拡大解釈せざるをえないほどに、体育連盟などに加盟することに伴う活動実態があるということだ。だから、上記の基本線を守ろうとすれば、各学校には、こうした団体に参加しない、つまり試合に出られないという選択しか残らなくなる。でもそれでは、生徒がかわいそうであり、そもそも部活動をやる意味がない。じゃあ、部を廃止することになるが、それでいいのか、という話になる。

原理的また実際的に、これまでのような部活動を続けるのか、止めるのか。この帰路に学校と教育委員会は立たされている。あるいは、ドイツの学校のように、週に一度、2時間程度の活動でできるものにしていくのか。これまた「もっとやりたい」という声にかき消されてしまうだろうなあ。



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by walk41 | 2018-03-28 11:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校の自律性はやっぱり担保されていない

1998年の中央教育審議会答申「今後の地方教育行政の在り方について」をきっかけに、 学校の自主性・自律性が盛んに喧伝され、「校長はボス、人的・財的にいっそう権限を持ち、学校経営に責任を負うのだ」と、けっこう長く叫ばれていたのではないかと記憶している。

けれど、これはあくまでも理念に留まり、まずは制度面で現実のものとするのはまあ難しいなあと思っていたが、最近、非制度的な文脈においてもこのことが当てはまると、強く思わされた。それは、かつてその学校に関わっており、今なお直接・間接に関わっている(と少なくとも本人は思っている)立場の人がおり、学校の管理職と言えども、その人に物言うのが難しい状況がある、ということだ。

こんな話を聞いた。ある学校の卒業式に来賓として出席したその上級学校の管理職が、この春にこの学校の卒業生の多くが自分の学校に入学するので、事前の準備づもりと写真を撮っていた。すると、当日同じく来賓として出席していた、すでにその学校を退職して10年は経つ元管理職から、「保護者でない方は、写真を撮らないで下さい」と、たしなめられたというのだ。

現在の管理職から言われることですら、いささか失礼ではと思うが(当人に言わせれば「進級先の学校の管理職が変なことに写真を使うはずがないやろ!」であった)、それがかつての、しかも往年の、いつの人や、という立場からの指摘である。

こうした様子を見ていた現在の管理職ですら、その人に物をいえなかったとこれまた当人から聞いたものだから、よけいにびっくりした。年長者に意見できないという教育の効果絶大である。

「こうしたオールドメンバーに、式への招待状を送ることなどないのに」と私が口を挟むも、「それができないんです」との返事だった。こうした例以外に、同窓会なども多くの学校にはあるし、学校を支援してくれている面もある。勢い、正規メンバーでないけれど、意見していいと思う余地が残るのだろう。だから、各学校の力など、そんなものなのだろうね、ちょっと残念ではあるけれど。

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by walk41 | 2018-03-19 16:51 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「将来の夢」

学校の宿命とも言うべきことかもしれないけれど、こんな表現が学校であまりにも当たり前のように扱われているので、変なことではないかと、みなさんに問うてみたい。

それは、主に小・中学生に尋ねられる「将来の夢は」という投げかけである。この言い方は、次のような点を前提にしている。

その一、現在は将来のための準備や「投資」の期間であり、現在を生きることが「夢の実現」とは見なされていない。その二、いま語ることのできる「将来の夢」は、あくまで、いま見えるものに限られ、その意味で現実味を帯びない。

少し説明を加えるなら、一つ目は、「今は我慢」「今は耐える時期」と位置づけられるが、かと言って「将来」がいつなのかが明示されている訳ではない。「将来」は何となくの意味しか持ち得ない。

二つ目は、現在の知識すら十分に持ち得ない子どもが語りる「夢」は、あまりに断片的であり、そのまま追いかけることは、決してお勧めしない、さらには、おっかないものですらある。さらに、「将来」の射程が設定されておらず(何歳くらいが「将来」なのかよくわからない)、実際には長期に及ぶ「将来」(いま生まれた子どもは100年を生きるとすら言われている)が不変なはずもない(20代、50代、80代を同じように語るのは、きっと無理)のに、そうした想定を欠いている。

つまるところ、子どもが「お花屋さんになりたい」「サッカー選手」「研究者」「小学校の先生」と言っても、ほとんどのところ、何もわかっていない(現在のそれらについて)、また何もわからない(未来のそれらがどうなるかについて)から、そんな発言をさせても「おう、元気やなあ」という印象以上とを得ることができない。それを文字通り受け止めて、「そうか、サッカー選手か。じゃあ、クラブチームに入って、高校の勉強はほどほどに、大学まで行ってるようじゃ間に合わないぞ」と進路指導を始めたならば、それは罪作りというものだろう。サッカー選手以外の道も知る必要があるし、彼/彼女がそれなりの年齢になった時、この類の人気が凋落しているかもしれない。はたまた、いくつになってもこの立場という訳にもいかないだろう。

だから思う。子どもたちに問うべきは、「将来の夢」ではなく「現在のありよう」だと。いま、何に興味をもっていて/もっていなくて、何をしていて/していないで、いるかということを。そして、そこには見えていないことを言ってやることで、気づきを与え、もって「じゃあ、どうしようかな、これから」と考えるきっかけを提供すること。いい加減で、責任の取りようもない「将来の夢」など言わせるのを止めて(そもそも、高学年にもなれば思うのではないだろうか。「こうしたことを言うのって、けっこう恥ずかしい」と)、より視野を広げる方向でのやりとりへと誘うこと。これこそ、教育-学習の場にふさわしいのではないだろうか。

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by walk41 | 2018-03-17 10:15 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「いじめ」問題の見方

中学校教員と話をしながら、なるほどと思わされた。その一つは、いわゆるいじめ問題についてである。

「嫌な気持ちになった」を含む「いじめ」被害について、ある生徒から訴えがあるとする。現在の定義では、本人がそう感じたら「いじめ」の認知件数に含まれるが、日頃、生徒たちに接している教員が感じるのは、むしろ、その生徒がまわりに、ちょっかいを出して(関西では、「要らんことしい」とも言う)煙たがられた結果、たとえば「みんなが自分を避ける」、「自分が仲間はずれにされている」と感じるに至っているのではないか、ということだ。

「いじめ」の起こることが望ましいとは決して言わない。けれど、これは対人関係上、一方向とは限らず、また、受け止めを問題にする限り、敏感さ/繊細さの度合いによって事態の認識が変わってくる点で、けっこうな相対感覚を要するテーマなのだと改めて思う。「いじめられた」と感じる生徒が遠因で事態が発生している可能性、「気にしい」が著しいゆえに認識されうる可能性も含めて(逆に、閾値が高すぎて、つまり、鈍いゆえに問題である可能性も含めて)、考える必要があるのだなあと思わされる。

この点で「いじめられる方にも原因がある」という生徒の言い分は、限定付きながら妥当性を持っていると思う。以前の拙ブログに書いたが、鼻水を垂らす児童がクラスメイトを追いかけた結果、当の児童が「みんなにいじめられている」と言い出すほどに、まわりから忌避されたケースを思い出す。回りの声を勝手に代弁すれば、「あんたがウチらに嫌なことをするからやんか」だろう。ときに、嫌な思いをする児童が多くなるほど、「いじめ」は認識されにくくなるのだろうか。

かくも、コミュニケーションの起点と展開は実に曖昧で、対人関係についてはおよそ正確に事態を捉えがたい。どこから始まったのか、何がどうなって、こうなったのか。漏れなく説明するのが非常に難しいのは、関係者の怠慢のせいとばかりは言えない、なぜって、当人ですらよくわからず、受け止めの主観性、記憶の混乱、感情のもつれ、といっそう複雑になっていくのだから。



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by walk41 | 2018-03-13 06:11 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

視野狭窄ゆえではないか

京都市立洛水中(伏見区)の女性教諭(55)が昨年9月、校内の女子トイレのスリッパを3日間にわたって隠していたことがわかった。教諭は「生徒のスリッパの使い方が悪く、指導の一環で行った」と説明したが、靴下のままトイレを利用した生徒もいたといい、市教委は「不適切な指導だった」として教諭を口頭で厳重注意した。同校などによると、教諭はトイレの清掃指導を担当。校舎3階の女子トイレで、スリッパが散乱したり、洗面台付近が水でぬれたりすることが続いたため、昨年9月26日、スリッパ全5足を用具庫に隠した。

校内の戸締まりをしていた教頭が27日夜にスリッパがないことに気付き、28日朝に教諭に戻すよう指示。教諭は全校集会でスリッパの適正な使用を呼びかけた上で、同日夜にスリッパを戻した。教諭は「再三注意したが改善されず、生活上の小さな乱れを見逃してはいけないと思ってスリッパを片付けた」と話しているという。(読売新聞、20180228)

……

うーむ。同教諭によれば「生活上の小さな乱れを見逃してはいけない」とのことだが、家のトイレでスリッパに履き替えるところは今どれくらいあるのだろうか。実生活に必ずしも適用できないような事柄を指して、「生活上の」と言われても困る。バリアフリーの家でトイレスリッパを用意することの意味はあるだろうか。


私が勉強不足なだけなのだろうが、そもそもトイレの内外で靴を替えることの意味はなんだろうか。トイレの床を歩いた靴は不衛生という話ならば、それを支持する実証データはあるのだろうか。いわゆる上履きは相当期間、洗わずに学校で使う代物で、私に言わせればかなり不衛生だと思う。


また、京都市内の中学校には、いわゆる土足のまま校舎内を歩く学校もあり、その場合はトイレ用のスリッパはなかったかと記憶している(校長室に入る時には、別途、マットとスリッパが置いてあったりする)。そんな風に生活していても、衛生上の問題が起こったとは報じられていないように思う。こういう時に外国話を出すのも上品ではないが、ドイツの学校でトイレで履き替えないから不衛生など思いつきもしないことだろう。


ましてや、トイレスリッパを隠してどんな効用を期待しているのだろうか。ほとんど嫌がらせと言って良いのでは。ドイツの生徒だったら、阿呆らしいとそのまま入ったり、別の靴を持って来たり、自分で判断して行動すること必至である。


こんなことに血道をあげるより、学校に考えてほしいことがある。それは、来客用のスリッパについて、いったい何のギネス記録を狙っているのか、スリッパを重ねては往往にして、柱のように長く長くつくねていることの汚さである。床に触れたスリッパの底が別のスリッパの足裏部分に収納される。これを不衛生と言わずに何だというのか。こんな「何となくの」習慣を放置していて、生活上の乱れなどよく言えるものだと思う。この汚さに無感覚なこと、相当に乱れていると思いませんか。


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by walk41 | 2018-02-28 14:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

教員もブランド服を

東京・銀座にある中央区立泰明小学校(336人)が、新1年生の「標準服」をイタリアの高級ブランド「アルマーニ」のデザインのものに変更するとして保護者から苦情が出ている問題で9日、和田利次校長が記者会見した。和田校長は「銀座にある学校だからこそ進めてきたが、丁寧な説明をしながら進めるべきだった」と述べた。だが、新標準服の採用を撤回する考えはなく、「ご理解いただき、購入者側の判断で購入してほしい」とした。学校が着用を推奨するアルマーニの標準服は、上着やズボンなどで計約4万5000円と現在の2.5倍。セーターなどを加えると8万円を超え、保護者から批判や疑問の声が出ている。【大迫麻記子、稲垣衆史】(毎日新聞、20180209

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これに対して「銀座だからいいんじゃないか」とか「義務教育でこれだけの保護者負担を強いるのはおかしい」、あるいは「外見から入っても内面は変わらない」、はたまた「(子どもの発達を見越して)丈が余った状態でアルマーニの服を着るなんて言語道断」、「地元業者と癒着しているのでは」との意見も飛び出しているが、これに一つ付け加えたい。

標準服とはいえ、児童にブランドものを学校として推奨しているのだから、そこで働く教職員がまさかユニクロ、しまむら、GUHMなどで調達した服を着てこないだろうね、ということだ。「子どもは教育される側、大人とは別だ」という言い分は通じないよ。ブランドものの回りに見合うのはブランドもの、そうでなければ格好悪い、それだけが理由だ。

ファストファッションで身を固めた教員がまさかブランドものをまとう子どもを指導するなど、バランスが悪すぎるだろう。「身近なアイテムをきちんと装うことの大切さを感じることも、国際感覚の醸成につながる」との校長の言もあるとのことだし。

さて、出勤のためのブランド服が公費の対象になるかどうかは、導入を決めた校長に教育委員会に掛け合うように言えばいい。もっともサラリーマンは基礎控除があるから、ここで何とかしろと返されるだろうけれど。そもそも、失礼ながら、ブランドが似合う体型や姿勢を大人の側が維持している/できるのだろうか。






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by walk41 | 2018-02-11 23:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「いい授業」

小学校の算数の授業を見せてもらった。

単元や指導上の目標についてはさておき、いいなと思ったのは、授業者と児童とのやりとりに不自然さが少なく、それなりの葛藤を含みつつ、授業時間が流れていったことだ。

公開授業は、拝見していて無理があるというか、妙なやりとりの見られることが多いように思う。授業者に子どもから肯定的な発言が続く、あるいは普段とは違うのだろう押し黙ってしまう。「みんなどうしたん、いつも通りやっていいんやで」と、授業者が思わず声を上げてしまう様子がまま見られるのだ。私が下品に言う「見世物」としての授業がこれに当てはまる。

それに対してこの授業は、児童から「わからない」「できない」と複数の声が出る。授業者も「かまへんで」「ええよ」と返す。あるいは、児童が説明していることに対して「もっと大きな声で言ってくれるかな」とか「わからへんわ」といった発言もする。普段の授業の様子が想像できるようだった。

公開授業に慣れている児童ゆえでもあるだろうけれど、多くの衆目を浴びながらなお、子どもー教員間、子ども間で「そんなことない」「なんでそうするん」と、おしゃべりが続く様を楽しく見ることができた。語彙の限られる子どもの言い間違いもやんわりと授業者が指摘し、聞いた子どもも笑って終わるといった和やかな雰囲気を感じた。

日ごろの良好なラポールに支えられる一方、正解が必ずしも明確でない問いを設定し、適度な緊張、ストレスを前提としながらおしゃべりを楽しむ、多面的にものを見る時間にする授業の良さを感じさせてもらった。

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by walk41 | 2018-02-09 10:24 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校論の難しさ

「小規模校の功罪、関係や序列不変 窮屈、逃げ場ない懸念」(福井新聞、20180202)を、興味深く読んだ。

全校生徒が60人といった規模の小学校では、上級生が下級生の面倒を見る、みんなが互いを知っているといった良さが見られる。その一方、クラス替えがない、ピラミッドのような人間関係が変わらない、閉鎖的な関係ゆえのいじめも起こりうるといったまずさもある、という記事だ。

小学校は全国におよそ2万校あるが、そのサイズは決して一様ではない。「標準規模」とされる1学年2ないし3クラスに当てはまるのは、実は少数で、いまや1学年1クラスの、いわゆる単級学年の学校が多くを占めるはずだ。また、新興地や才再開発地域など、人口が急増しているところもあり、そんなところでは教室が足りず、プレハブでしのいでいるという話も聞く。つまり、小学校というものの大きさ(全校児童数、学年児童数、さらには学級児童数とこれらに対応する教職員数)をおおよそであれ、想定することがとても難しいのだ。もちろん、統計的に平均規模を算出することはできるが、この場合、平均は最頻値や中央値と大きく異なっており、意味あるデータにはなりえない。

だから、こうした小学校、さらには中学校(高校は規模に関する限り、入学試験を通じた生徒数の設定と管理がある程度、可能である)についての議論が成り立ちにくいのは明らかだろう。「小学校というものは…」と言われても、児童数1000人を超える規模から10数人さらにはもっと少ない学校もある。教職員数もこれらにおおむね比例するから、校長以下、養護教諭、事務職員までで10人に届かない小学校から、1学年5クラスや6クラスの教職員総数がきっと50名を超える小学校まである。

小学校だけでこれだけ分散しており、これに中学校ほかが加われば、どんな場所について論じているのがわからなくなるのは当たり前である。もちろん、人数だけではない。性差、年齢別構成と別の変数が加われば、きっと、どこにウチと似たような学校があるんだと叫びたくなることだろう。

かくして、学校についてのお喋りはそれぞれを語ることはできても、一般化、普遍化はきわめて困難、くわえて論者それぞれの学校経験があるので、話はさらに錯綜する。一般化できない議論に再現性を期待できるはずもなく、「こんな学校があるね」の域を超えることはない。

そこで問われるのは、これらの上に、どのような学校についての議論が可能か、またそれにはどんな意味があるかを整理することである。学校論に関する議論の作法を身につけることが必要なゆえんだ。


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by walk41 | 2018-02-02 15:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

小さな子どもはこわれやすい

宿題忘れた小3男児、担任に壁押しつけられ骨折

 福岡市西区の市立小学校で昨年12月、3年生の男児(9)が担任の男性教諭から暴力を受け、鎖骨を折る重傷を負っていたことがわかった。男児側から被害申告を受けた福岡県警は傷害容疑で捜査を始めた。市教委によると、教諭は昨年12月19日、男児が算数の宿題を忘れたため、午前中の休み時間にやるよう指導。しかし、男児がその後も宿題をしているように見えなかったことから、胸ぐらをつかんで廊下の壁に押しつけるなどしたという。男児は午前の授業中に痛みを訴えて保健室で処置を受け、同日午後、帰宅後に保護者と一緒に医療機関へ行き、鎖骨骨折と診断された。学校側は同日、男児と保護者に謝罪した。市教委の聞き取り調査に対し、教諭は壁に押しつけたことを認めたうえで、「しっかり指導したいという思いだったが、感情的になってしまった。深く反省している」と話したという。男児は現在も痛みを訴えて登校しておらず、教諭も心労による体調不良を理由に、今月12日から欠勤しているという(読売新聞、20180131)。
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給食を無理やり食べさせ男児吐く、女性教諭処分

 東京都教育委員会は30日、男子児童が嘔吐おうとするまで給食を食べさせたなどとして、公立小学校の女性教諭(40)を戒告処分にした。発表によると、女性教諭は2014年1月、余っていた給食をお代わりするよう児童全員に命じ、男子児童の一人が「もう食べられません」と訴えたが、無理やり食べさせ、嘔吐させた。同年4月~11月には、女子児童から鉛筆を盗んだと疑われた別の男子児童に対し、十分に事実確認せず、「とったんじゃないの」と決めつけるなど不適切な指導をした(読売新聞、20180131)。
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東京の事例は児童の学年がわからないが、低学年・中学年くらい、つまり10歳までくらいだとすれば、まさに小さな子どもは心身ともにこわれやすい、心して接しなければいけないと思わされる。

「先生の言うことは絶対」「先生は神様のようなものだった」とは、教育学部に入学してきた学生が小学校時代を回想して少なからず口にする言葉である。家族に教員がいたりして、学校という場に馴染んでいれば、大人の光と影の両面を多少とも見ることができるだろうが、いわゆる素で学校という世界に放り込まれれば、小さな子どもはひとたまりもないと思う。

身体は自分より遙かに大きく、声も大きく、自信ありげに威圧的に接してくる。しかも自分のことを「先生」と呼び、疑いの余地を与えもしない(これに対して、私のような大学教員は「わからないなあ」と連発するものだから、学生から「わからないばかり言わないでください」と叱られる始末である)。

さらに、何をするか、どこまでやるのか、そもそもどこに座っているべきなのか、と内容と時間そして空間を全面的に支配するのが、教室にいる教員という立場である。こんな存在から真顔で迫られたら、小さな子どもは木っ端みじんなこと必至だろう。いったい、どんな抵抗やさらには反論ができるというのだろうか。

大人と子ども関係の典型のような、教員と小さな児童という構図は、前者優位の後者に対する圧倒的な暴力あるいは権力関係として説明できる。だからこそ、頼まれた訳でもなく、くわえて、少なくない子どもを預かる教員は、自身に対する相対的認識とこれに適ったセルフマネジメントの能力がいっそう必要だ。

実はそうでもないのに「社会は…」とか「人間って…」とわかったような発言を自重すること、「教育熱心」を肯定的だけでなく否定的にも捉えるバランス感覚を持つこと、「子ども理解」と自身が向ける眼差しと比べるべくもないほど、多くの眼差しを自分が向けられていると知ること、このように「先生然」としないように努めること、「教師らしくない教師の良さ」を常に考え携えることではないだろうか。

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by walk41 | 2018-01-31 13:50 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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