体操服の下に肌着は着てはいけない――。運動会シーズンが本格化するなか、小学校でのこんな「ルール」がSNSで話題になっている。学校側は、肌着を着たまま汗をかくと体が冷えるためだと説明するが、女児の胸など肌が透けて見えることを心配する親も。なぜ学校が子どものプライバシーにまで立ち入るのか、と疑問視する声もある。(朝日新聞、20180601)





この話題は通り一遍に言えば、下着の着用というすぐれて私的な事柄に、学校がどこまで関与できるのかというテーマであり、「個人の自由」なのだから学校がとやかく言うべきではない、といった評論家の談でおしまい、になるのだけれど、ちょっと違う角度から考えてみたい。

学校が公共性を持つということは、学校がいわゆる公序良俗の保たれた公共の場でもあるということだ。ならば、体操着の下が透けるかもしれないことで、困る本人にくわえて、その回りも目のやり場に困る、あるいは盗撮を誘因しかねない点で、公序良俗を乱す要因になることが問題だと指摘できるのではないだろうか。

同様に、「体罰」や暴言といった暴行が禁じられるのは、それが傷害罪に当たる可能性があるだけでなく、暴力が放たれることによって公序良俗を危うくしかねない点が問題だということである。ドイツなどで見かけるガラス製品の回収コンテナに、深夜や早朝にビンを投げ込むことが禁じられているのは、騒音が公共性を阻害するという理解ゆえだろう。

このように考えれば、そこに集う人々が不快、困惑しかねない条件をわざわざ設定する必要はないと言える。そんなことをしなくても、人々が集まるところでは、誰も望んでいなくても何かしら問題が生じるのだから。

「汗をかいたままの下着では風邪を引く」とか「一部の児童だけ違うことをするのは、まとまりに欠ける」といった主張が、「人を困らせることはできるだけしないのが、公共の福祉である」という主張にはたして優位するのかどうか。考える意味があるのではないだろうか。