学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:ことばのこと( 507 )

ダブルスタンダード(二重基準)

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中央本線沿い、警報器や遮断機のない「第四種踏切」または「勝手踏切」とも言われるところを見た。

入るなというメッセージの一方、フェンスの間が空けられ、階段もつけられている。おそらく住民は日常的には通っているのだろう。だからこそ「観光客等の皆様へ」とあるのだと思われる。住民は別だよというメッセージでもあると読んだ。

ダブルスタンダードという言葉は、良くない意味合いでまま使われるが、この場合はこれでいいのかなとも思う。生活に馴染んでいる人が通る場合と、いわば一見さんの観光客が通る場合の危険度の違いを想定してもよいだろうから。

とまれ、鉄道と生活圏との共存はなかなか悩ましい。「こうした踏切はなくすべき」「すべての踏切に警報器、遮断機をつけるべき」のいずれにも行きにくい、白黒つけがたい例のひとつかと思う。

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by walk41 | 2018-05-24 10:03 | ことばのこと | Comments(0)

論文の効果?(そんな訳はないだろうけれど)

インターネットニュースで以下が流れてきた。小学校であだ名禁止や「さん」づけが広がっているというものだ(抜粋)。
ーーーー

千葉県内の公立小学校では、生徒間だけでなく、教職員が生徒を呼ぶ際に、「○○さん」と呼ぶように定めている。県内の小学校教頭が語る。

「教職員が生徒を呼び捨てにすると、生徒たちの言葉が荒くなることが予想されるためです。優しい呼び掛けをすれば、続く言葉も自然と優しくなりますから。子供たちの場合も教職員と同じで、できるだけ優しい言葉を使っていこうということです」

※週刊ポスト2018年5月25日号

ーーーーーー

以前、榊原禎宏「叱るときこそ丁寧にー教師の子ども呼称における賭け」(京都教育大学教育支援センター『教育実践研究紀要』12、2012)にて、次のように記した。

「…そして三つ目は、感情労働として教職を捉えれば、相手に丁寧に接することは、自身を落ちつかせるマネジメ ントにつながり、これと反対の状況、すなわち相手に乱暴に接すると、自分を操ることを難しくもする。つまり、 呼び捨ては引き続く表現と合わせて、自身をいたずらに興奮させ、また自分の乱暴な物言いに興奮した相手の感情に自分が影響を受けてしまうことで、セルフマネジメントを困難にする可能性を高めるのである。短い時間で の意思決定が職務上きわめて重要な教職において、冷静な業務遂行は必須ともいうべき条件だが、呼び捨てはこれを危うくしかねない。」(p.228)

いかがだろう。ともすれば呼び捨てが愛情表現や信頼関係の証しなどと評されるのに異議を唱え、呼び捨てが教員ー児童生徒関係のみならず、教員のセルフマネジメントにおいてもリスクを孕むことを述べていると思う。この点を踏まえた学校での取り組みがなされ始めている、と見て良いのではないだろうか。

もっとも、この論文が読まれて、なるほどと思われて、各地での実践へと連なっていったわけではまあないだろう。けれど、上のようなニュースはまずは嬉しい。ただでも葛藤や衝突と穏やかならぬ空気の漂いやすいのが学校と教室なのだから、その方向に棹ささないようにできることを探し、試みることはすぐれ重要と考えるからだ。

こうした試みが何を導くのか、「現場」からの報告を知り、また考えたい。


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by walk41 | 2018-05-18 06:35 | ことばのこと | Comments(0)

学校経営という言葉

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学校を組織や運営という文脈で議論しようとするときに、避けられない問題は、何を指して学校の経営というのか、ということだ。このことは、school management あるいはschool administration という英語はどの辺りの日本語に落ち着くのだろうかと、言い換えてもよい。

ある高校をお邪魔した時に、写真の表記を見つけて、とても興味深く思った。この英語の限りは、school administrationとは別の部門が学校にあるかのような意味に取れる。それも一つの考えだけれど、学校のmanagementやadministrationって、他にどんなことを指すのかな、と改めて思わされたことだった。

ちなみに、この教務室は、例えば関西では職員室のことである。

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by walk41 | 2018-05-18 00:04 | ことばのこと | Comments(0)

ベアドッグ

ベアドッグと聞いて何を思い浮かべられるだろうか。

信濃毎日新聞(20180518)の記事に、ベアドッグがすくすくと育っているとあり、読むと熊のような犬でもなく、犬のような熊でもない、熊を山に追い返すための、熊対策犬のことだった。微妙なネーミングだなあ。

隣には、戸隠神社に熊が現れたと記事があり、熊と人間との共存が大きなテーマになっていることがわかる。ところ変われば…である。

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by walk41 | 2018-05-17 08:49 | ことばのこと | Comments(0)

「だいたいそんな感じ」で学ぶことの重要性

この間の授業で、「基礎ができていないと応用ができない」のか「基礎が必要とは言えるけれど、あまりにかっちりしたものを求めると新しいアイディアが生まれにくいのではないか」について、学生たちと考えている。

私は、基礎や基本といものが、経路依存性(Path dependence)を多分にはらむ点で、普遍的な分類にもとづくものではないことから、あまりこれらに縛られるとマズイという立場をとる。基礎の集積としての「世の常識」なるものは、それほど長持ちしないと考えるのだ。

ところが、「そんなはずはない」と考える人の中には、長らくそうだったと思いたい気持ちが強すぎるためか、捏造する場合が出てくる。江戸時代、待ち合わせの時間に遅れたら大変な罪だったという妄想を描き、その「伝統」が今も生きていると説いたり、ここ150年間ほどの発明なのに、一人の天皇が使う元号は一つだけ、交代するときに元号が変わるのが「伝統」だと吹聴したり、と。

さて、基礎のことに戻り、「だいたいそんな感じで覚えるくらいがちょうどいい」ことを単語に即して考えてみよう。いきおい「正しい書き方」が求められる言葉の習得だが、たとえば、英語とドイツ語ではこんな対照になる(左が英語、右がドイツ語)。

愛:love ----- Liebe [vとb]

たくさん:full ------- voll [fとv]

古い:old-------alt[o とa]
新しい:new------neu[だいたい同じ]

ようそこ:welcome ------willkommen[lと m が1個か2個か]

神:god ------Gott[dとt、tが1個か2個か]

氷/アイスクリーム:ice -------Eis [同じ発音だが、綴りがぜんぜん違う]

強調:accent-----Akzent[cとK,Z]

こんなふうに、必ずしも法則的とは言えない部分があることを知って、学ぶことが大切だと思うんだけれどね。

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by walk41 | 2018-05-07 09:09 | ことばのこと | Comments(0)

女人禁制再論

「仏教の教える『女人禁制』」(新潟日報、20180416)という、住職からの投書を読んだ。

それによると、大相撲は神事とされているが、女人禁制は仏教語であること、そもそも仏教は「男女を論ずることなかれ」と男女平等を説き、女性を汚れているとするのは他の思想であること、そして女人禁制は、「男が女に魅かれ修行できなくなることを防ぐため」なのだという。

なるほど、とりわけ明治期以降に強調された女人禁制は、男尊女卑を基盤とする家父長制という家制度と不可分なことが、仏教の側からも説明されることがわかる。ならば、なおさら「女人禁制は神事である相撲の伝統」なる語りが歴史的には最近、発明されたものと言える。

それにしても、女人禁制が修行の妨げになるからだとは、ちょっと格好悪い。食欲、性欲、睡眠欲とも言われる、ある意味で人間らしさの象徴でもあるのだから、それを含めて宗教があってほしいな。カトリック教会の修道院での性的虐待事件など、どこかで無理が出るからね。






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by walk41 | 2018-04-16 15:26 | ことばのこと | Comments(0)

敬老者

宮城県で老人クラブが花見に出かけるため、電車の座席を確保すべく、A4版くらいの白い紙を置いて、他の乗客が座りにくい事態を招いた、という(ライブドアニュース、20180410)。その紙には「次の駅から、敬老者が16名乗車します」と書いてあったらしい。

自分たちのことを「敬老者」と称する不思議さに気づかないのかと、不思議に思う。

似たような言葉を並べると、たとえば、成功者、開拓者、発見者と、「者」の前はいずれもその人の修飾となっている。となると、敬老者は「老人を敬う者」ということになるが、どうもそうではないらしい(まあ、自分で自分のことを敬っても構わないのだけれど、それを他者に吹聴するのは格好悪い)。ちょっと似た言葉に、博愛者、があるけれど、これも「者」を修飾するものとして通じるだろう。

ひょっとしたら、紛らわしいのは「敬老会」かもしれない。敬老の日、敬老のつどい、は、お年寄りの長寿を喜び、祝う場の意味だとわかるが、「会」となると、元々はそうした「場」の意味なのに、敬老されるべき人が集っている「団体」へと指すところが変わってしまうのでは。つまり、敬老会は、壮行会、激励会、誕生会、といった言葉と同じ並びなのに、「老人会」のような意味でも遣われているためではないだろうか。

それにしても、老人による座席取り、高齢化が著しい昨今、また問題になるだろね。善意は控えめな人にこそ向けられると、私は思うけれど。



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by walk41 | 2018-04-12 12:49 | ことばのこと | Comments(0)

「少し」は何ポイントか

50歳の声を聞いて「何かしなくては」と始めた乗馬、下手なりに続けている。

レッスン中に受ける、やんわりではあるけれど手厳しい注意やアドバイスは、とってもほんわか、つまり、曖昧なものである。

「もう少し手綱を張って」「姿勢が良すぎるので、ちょっとだらしなく座って」「拍車の当たり方がきついから、さわる感じで優しいめに」といった表現は、何となくわかるが、正確に発信-受信できているかと言われれば、心許なしとしない。はっきりとはわからないからだ。「少し」と言われたことに対して、「何ポイントのことですか」と返しても、実りはない。客観的にこれらを表現できるかと問うても、指導員も困ることだろう。その辺りの雰囲気をつかんでほしい、と返されること、きっとである。

翻って、数値化論やPDCAサイクル論、説明責任やエビデンスといった言葉は、いささか失礼な物言いだけれど、客観性に対するあまりに素朴な信念をもつ人、つまり幼い人たちに喧伝されていると思う。

もっとも、数字に置き換えれば正しく把握できるはず、客観的な記述があれば再現できるはず、とは、ある部分においては当てはまる。ある部分とは、対象が静的、少なくともゆっくりと動くくらいの変化に留まる、また、主体と客体(対象)との関係がおおよそ独立している、という条件を持っていることである。さて、こうした条件を伴う事象はどれほどあるだろうか。

たとえば、学校の年間スケジュールは、修学旅行をいつ行うかと決めれば、それにしたがって準備、実施、点検、評価できる。決められたスケジュールに対して、個々の教員が影響を及ぼすことはなく、もしそうなりかねない時は、当該教員が排除される。PDCAサイクルを回すことが優位するのだ。

けれど、一つの授業において、こんなことをしようとつもりをしても、その日の天気、生徒の様子、教員自身の体調、ハプニングなどによって、予定通りに進むことはあまり期待できない。主体と客体の関係はかなり相補的であり、ピンで壁に紙を留めるようには行かないからだ。「計画に即して」の優先順位が下がるとも言える。そもそも、はじめにあまりにつもりをすると、却ってぎごちない、生硬なものになりかねない。柔軟さを欠いて不格好なのだ。

乗馬もまさにそのようだと思う。乗り手によって馬の様子はまったくといっていいくらい違う。同じ馬なのに、指導員が接するとこんなにも従順なのかと驚かされる。接している頻度や態度が影響するのだろう。そんなことを知らずに不用心に近づくと、人も馬もびっくりする。

また、同じ馬でも、その時の体調によって決して一様ではない。朝の調子と午後の調子が違うのは当たり前だし、走っている際にちょっとした物音に驚いて急に止まることもある。それは誰のせいでもない、仕方のないことである。

乗馬クラブで「生き物相手ですから」とはよく言われることだが、これも教室や授業でそのまま当てはまる。ライブなのだから、予定するのは構わないけれど、まずはそのように進まないし、無理をして予定(つもりや計画)に合わせようとすると、痛いしっぺ返しをくらうことになると、心すべきだろう。あわせて知るべきだろう。先を見通せないことこそ、おもしろさ、醍醐味でもあるということを。

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by walk41 | 2018-04-12 08:02 | ことばのこと | Comments(0)

学校の実力

新学年が始まり、気持ちは早くも次年度の入試だろうか。週刊誌各紙は、高校ごとの大学入学者数を大見出しで連日掲載、どの高校に行けば有利かと煽るがごとくである。

けれど考えてみてほしい。「実力がひと目で分かる」(サンデー毎日、20180422号)と謳うけれど、学校に行くことで得られた受験結果は、どれほどだろうか。

多くの高校生が塾や予備校に日常的に通い、夏期講習などにも参加している。これらを通じて受験学力を期待できるから、賑わっているのだろう。現に、予備校の紙面やチラシは、合格した生徒の顔写真入りで満載、次の生徒獲得の広告塔である。

また、いわゆる家庭の教育力、つまり、高校生たちが過ごしている家の経済的・文化的状況(勉強に充てられる時間、集中できる静かな部屋があるか、購入できる教材の上限、受験に理解があり加えて支援的な保護者の存在のいかん、受験に際しての選択肢の幅、受験での言語コードとの親和性といった)も影響する。本人ではどうしようもない条件や環境が、受験に肯定的・否定的に働くことは、容易に考えられるだろう。

これらのいわば残りとして、学校の実力が位置する。そこで考えられるのは、教員の授業力や進路指導力もあるだろうが、クラスメートとの情報交換といったインフォーマルなネットワークである。後者は、「学校の」というよりも「学校を通じた」と言うべきではあるが。

これらを考え合わせると、各学校の実力とははなはだ心許ない。メディア各社とも、このことを承知の上だろうなのに「公平な競争の結果」かのように報じるのは、けっこう罪深いものである。

乱暴な単純化をすれば、「出来る子」がそうした子の集まる学校に行き、上級学校へと送り出されているだけーこれで多くの事実が説明できるのではないだろうか。

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by walk41 | 2018-04-10 11:12 | ことばのこと | Comments(2)

一緒と一斉

小学校に入学時にすでにパソコンへのローマ字入力ができたという子どもさんを持つ、知り合いの話。

ある意味で残念ながら、小学校の授業はすこぶるつまらないようで、回りとは違うことをしていたら、叱られて、積極的不登校になった。

担任教員との話で、保護者が「他の子どもさんには迷惑をかけないようしますから、この子には別の課題を与えてもらえませんか」と伝えたところ、こう返ってきたとのことだ。

「○○ちゃん、学校はみんなと一緒に勉強するところだからね。そうは行かないのよ」と。

唖然である。この教員には「一緒」と「一斉」の違いがわからないのだ。教員が言っているのは一斉に、つまり子どもがみな同じことをすることであり、一緒にではない。

一緒とは、一人でするのが必ずしも合理的ではない作業の場合にふさわしい形態である。たとえば、たくさんの量を調理するときに、材料を洗う、切る、鍋を火にかける、食器を用意するといった作業を複数が分担して進めること、あるいは、見張りや点検など、一人では見落とすかもしれない作業を複数で行うといったことである。

同じ課題を一斉にやろうとすると、どうしても早くできる人とそうでない人が現れる。だから、一斉にやる授業は、常に「誰かを待たせ、また誰かを置いてきぼりにする」ことで成り立つ仕組みとも言える。だから、一斉の授業が有効なのは、ポイントをしぼり、短時間で行う場合に限られなければならない。なのに、この教員にかかれば、学校では一緒が当たり前らしいから、さぞ不公正な時間が長く流れていることだろう。

「一緒に学ぶ」「言葉がつながる」「授業を練り上げる」…、下品な言い方でごめんなさいね、教員だけの「頭がお花畑状態」は大概にしませんか。授業は子どものための場である、教員が主人公よろしく子どもたちに「はい、こっちを向いて」と教壇の上でスターを演じるような前提はもう博物館入りにしてほしいな。

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by walk41 | 2018-04-08 11:42 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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