学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:ことばのこと( 502 )

女人禁制再論

「仏教の教える『女人禁制』」(新潟日報、20180416)という、住職からの投書を読んだ。

それによると、大相撲は神事とされているが、女人禁制は仏教語であること、そもそも仏教は「男女を論ずることなかれ」と男女平等を説き、女性を汚れているとするのは他の思想であること、そして女人禁制は、「男が女に魅かれ修行できなくなることを防ぐため」なのだという。

なるほど、とりわけ明治期以降に強調された女人禁制は、男尊女卑を基盤とする家父長制という家制度と不可分なことが、仏教の側からも説明されることがわかる。ならば、なおさら「女人禁制は神事である相撲の伝統」なる語りが歴史的には最近、発明されたものと言える。

それにしても、女人禁制が修行の妨げになるからだとは、ちょっと格好悪い。食欲、性欲、睡眠欲とも言われる、ある意味で人間らしさの象徴でもあるのだから、それを含めて宗教があってほしいな。カトリック教会の修道院での性的虐待事件など、どこかで無理が出るからね。






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by walk41 | 2018-04-16 15:26 | ことばのこと | Comments(0)

敬老者

宮城県で老人クラブが花見に出かけるため、電車の座席を確保すべく、A4版くらいの白い紙を置いて、他の乗客が座りにくい事態を招いた、という(ライブドアニュース、20180410)。その紙には「次の駅から、敬老者が16名乗車します」と書いてあったらしい。

自分たちのことを「敬老者」と称する不思議さに気づかないのかと、不思議に思う。

似たような言葉を並べると、たとえば、成功者、開拓者、発見者と、「者」の前はいずれもその人の修飾となっている。となると、敬老者は「老人を敬う者」ということになるが、どうもそうではないらしい(まあ、自分で自分のことを敬っても構わないのだけれど、それを他者に吹聴するのは格好悪い)。ちょっと似た言葉に、博愛者、があるけれど、これも「者」を修飾するものとして通じるだろう。

ひょっとしたら、紛らわしいのは「敬老会」かもしれない。敬老の日、敬老のつどい、は、お年寄りの長寿を喜び、祝う場の意味だとわかるが、「会」となると、元々はそうした「場」の意味なのに、敬老されるべき人が集っている「団体」へと指すところが変わってしまうのでは。つまり、敬老会は、壮行会、激励会、誕生会、といった言葉と同じ並びなのに、「老人会」のような意味でも遣われているためではないだろうか。

それにしても、老人による座席取り、高齢化が著しい昨今、また問題になるだろね。善意は控えめな人にこそ向けられると、私は思うけれど。



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by walk41 | 2018-04-12 12:49 | ことばのこと | Comments(0)

「少し」は何ポイントか

50歳の声を聞いて「何かしなくては」と始めた乗馬、下手なりに続けている。

レッスン中に受ける、やんわりではあるけれど手厳しい注意やアドバイスは、とってもほんわか、つまり、曖昧なものである。

「もう少し手綱を張って」「姿勢が良すぎるので、ちょっとだらしなく座って」「拍車の当たり方がきついから、さわる感じで優しいめに」といった表現は、何となくわかるが、正確に発信-受信できているかと言われれば、心許なしとしない。はっきりとはわからないからだ。「少し」と言われたことに対して、「何ポイントのことですか」と返しても、実りはない。客観的にこれらを表現できるかと問うても、指導員も困ることだろう。その辺りの雰囲気をつかんでほしい、と返されること、きっとである。

翻って、数値化論やPDCAサイクル論、説明責任やエビデンスといった言葉は、いささか失礼な物言いだけれど、客観性に対するあまりに素朴な信念をもつ人、つまり幼い人たちに喧伝されていると思う。

もっとも、数字に置き換えれば正しく把握できるはず、客観的な記述があれば再現できるはず、とは、ある部分においては当てはまる。ある部分とは、対象が静的、少なくともゆっくりと動くくらいの変化に留まる、また、主体と客体(対象)との関係がおおよそ独立している、という条件を持っていることである。さて、こうした条件を伴う事象はどれほどあるだろうか。

たとえば、学校の年間スケジュールは、修学旅行をいつ行うかと決めれば、それにしたがって準備、実施、点検、評価できる。決められたスケジュールに対して、個々の教員が影響を及ぼすことはなく、もしそうなりかねない時は、当該教員が排除される。PDCAサイクルを回すことが優位するのだ。

けれど、一つの授業において、こんなことをしようとつもりをしても、その日の天気、生徒の様子、教員自身の体調、ハプニングなどによって、予定通りに進むことはあまり期待できない。主体と客体の関係はかなり相補的であり、ピンで壁に紙を留めるようには行かないからだ。「計画に即して」の優先順位が下がるとも言える。そもそも、はじめにあまりにつもりをすると、却ってぎごちない、生硬なものになりかねない。柔軟さを欠いて不格好なのだ。

乗馬もまさにそのようだと思う。乗り手によって馬の様子はまったくといっていいくらい違う。同じ馬なのに、指導員が接するとこんなにも従順なのかと驚かされる。接している頻度や態度が影響するのだろう。そんなことを知らずに不用心に近づくと、人も馬もびっくりする。

また、同じ馬でも、その時の体調によって決して一様ではない。朝の調子と午後の調子が違うのは当たり前だし、走っている際にちょっとした物音に驚いて急に止まることもある。それは誰のせいでもない、仕方のないことである。

乗馬クラブで「生き物相手ですから」とはよく言われることだが、これも教室や授業でそのまま当てはまる。ライブなのだから、予定するのは構わないけれど、まずはそのように進まないし、無理をして予定(つもりや計画)に合わせようとすると、痛いしっぺ返しをくらうことになると、心すべきだろう。あわせて知るべきだろう。先を見通せないことこそ、おもしろさ、醍醐味でもあるということを。

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by walk41 | 2018-04-12 08:02 | ことばのこと | Comments(0)

学校の実力

新学年が始まり、気持ちは早くも次年度の入試だろうか。週刊誌各紙は、高校ごとの大学入学者数を大見出しで連日掲載、どの高校に行けば有利かと煽るがごとくである。

けれど考えてみてほしい。「実力がひと目で分かる」(サンデー毎日、20180422号)と謳うけれど、学校に行くことで得られた受験結果は、どれほどだろうか。

多くの高校生が塾や予備校に日常的に通い、夏期講習などにも参加している。これらを通じて受験学力を期待できるから、賑わっているのだろう。現に、予備校の紙面やチラシは、合格した生徒の顔写真入りで満載、次の生徒獲得の広告塔である。

また、いわゆる家庭の教育力、つまり、高校生たちが過ごしている家の経済的・文化的状況(勉強に充てられる時間、集中できる静かな部屋があるか、購入できる教材の上限、受験に理解があり加えて支援的な保護者の存在のいかん、受験に際しての選択肢の幅、受験での言語コードとの親和性といった)も影響する。本人ではどうしようもない条件や環境が、受験に肯定的・否定的に働くことは、容易に考えられるだろう。

これらのいわば残りとして、学校の実力が位置する。そこで考えられるのは、教員の授業力や進路指導力もあるだろうが、クラスメートとの情報交換といったインフォーマルなネットワークである。後者は、「学校の」というよりも「学校を通じた」と言うべきではあるが。

これらを考え合わせると、各学校の実力とははなはだ心許ない。メディア各社とも、このことを承知の上だろうなのに「公平な競争の結果」かのように報じるのは、けっこう罪深いものである。

乱暴な単純化をすれば、「出来る子」がそうした子の集まる学校に行き、上級学校へと送り出されているだけーこれで多くの事実が説明できるのではないだろうか。

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by walk41 | 2018-04-10 11:12 | ことばのこと | Comments(2)

一緒と一斉

小学校に入学時にすでにパソコンへのローマ字入力ができたという子どもさんを持つ、知り合いの話。

ある意味で残念ながら、小学校の授業はすこぶるつまらないようで、回りとは違うことをしていたら、叱られて、積極的不登校になった。

担任教員との話で、保護者が「他の子どもさんには迷惑をかけないようしますから、この子には別の課題を与えてもらえませんか」と伝えたところ、こう返ってきたとのことだ。

「○○ちゃん、学校はみんなと一緒に勉強するところだからね。そうは行かないのよ」と。

唖然である。この教員には「一緒」と「一斉」の違いがわからないのだ。教員が言っているのは一斉に、つまり子どもがみな同じことをすることであり、一緒にではない。

一緒とは、一人でするのが必ずしも合理的ではない作業の場合にふさわしい形態である。たとえば、たくさんの量を調理するときに、材料を洗う、切る、鍋を火にかける、食器を用意するといった作業を複数が分担して進めること、あるいは、見張りや点検など、一人では見落とすかもしれない作業を複数で行うといったことである。

同じ課題を一斉にやろうとすると、どうしても早くできる人とそうでない人が現れる。だから、一斉にやる授業は、常に「誰かを待たせ、また誰かを置いてきぼりにする」ことで成り立つ仕組みとも言える。だから、一斉の授業が有効なのは、ポイントをしぼり、短時間で行う場合に限られなければならない。なのに、この教員にかかれば、学校では一緒が当たり前らしいから、さぞ不公正な時間が長く流れていることだろう。

「一緒に学ぶ」「言葉がつながる」「授業を練り上げる」…、下品な言い方でごめんなさいね、教員だけの「頭がお花畑状態」は大概にしませんか。授業は子どものための場である、教員が主人公よろしく子どもたちに「はい、こっちを向いて」と教壇の上でスターを演じるような前提はもう博物館入りにしてほしいな。

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by walk41 | 2018-04-08 11:42 | ことばのこと | Comments(0)

自分を主語に他者のことを言う

みなさんは、自分を主語にして、他者のことを言う、言い方を換えれば、他者が自分のことを、あたかも自分のことかのように言うのを聞いたら、どう思うだろうか。

「私は静かにします」が、自分のことを自分で決めて行動するさまならば、「どうぞお好きに」で済む話だ。けれど、これを他者によって言われると不思議な感じがしないだろうか。「なに勝手に言うてんのん」って。

ところが、学校ではこうした不思議な言葉がまま飛び交うのである。自分のことなのに教員/教師という他者が、あたかも自分のことかのように言うことが。

「今はしゃべりません」「そこで立ちます」「宿題忘れはしません」と、教師自身のことかと思えば、実は児童・生徒のあるべき行動について話しているのだ。

この言い方は、二つの問題をはらんでいる。その一つは、私がそう言いたいのに、その点を隠して、あたかも中立的な、あるいは神の言葉かのように振る舞うことで、普遍的、一般的かのように装うこと。もう一つは、そう言いたい自分(たち)の暴力性を糊塗しているということである。

前者は、たとえば、かつて学校で席巻した教育勅語にも通じる。この文書を指して「言っているのは、ごく当たり前のことじゃないか」と擁護、肯定する人が今なおいるが(「当たり前のことなら、なぜことさら言われなければならないんだろう」という疑問は、この手の御仁には無縁だ)、それは誰が言っているかをぼやかしている点が問題なのである。発言の責任の所在がはっきりしない。

後者は、自分がある価値にもとづき他者を操作したいことを「〜しなさい」「〜してほしい」とは表現せずに、当人がそうして当たり前という態度で臨むことで、強いているのを隠すことだ。良く取れば、これは「自然に」そうさせているとも言えるが、馴染んでしまうと恐いことでもある。

こうしたお作法が何となく通ってしまうこと、つまり説明を伴わないことに、学校のルールの根拠のなさを見出せる。集団生活であるのは学校の都合であって、児童・生徒がそう望むからではない。だから、当たり前のように言うのではなく、より説得的であってほしいと思うのだ。


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by walk41 | 2018-03-27 06:37 | ことばのこと | Comments(0)

論理的でない言い回し

あまり根拠があるわけではないけれど、そう表現すると、周りからそうだそうだと声の上がる様子の感じられる言い回しがある。

「エリートは打たれ弱い」「一流大学を出てるからって頭がいいわけではない」といった類がこれに当る。恨み節と言うかルサンチマンと言うか、それを聞くと喝采を送りたくなるような言葉づかいである。

この表現は、溜飲を下げたいために急ぐせいか、同義反復(トートロジー)に似ているけれどちょっと違って、自分を否定するという点で特徴的だ。「富士山は山だ」「蛙の子は蛙」などは、AはAと意味はないが論理的に間違いではない。その意味で益もないが害もない。けれど、上のような例は、AはAではないと言っており、明らかに矛盾する。けれど、不思議なことに何となくそうだよなあ、って思う余地が生まれるのだ。

打たれ弱いのはエリートとは言えない、頭がいいわけでないのは一流ではないから、と、そもそもの言葉を疑い、言い直せばいいのだけれど、そこを端折ると、おかしな表現になる。もっとおかしいのは、そう話している自分を疑わない様子である。

ちなみに、教員も立場上、わかっているわけはないのにわかっているかのような振り、無理をしなければならないことがあるだろうが(だから、これからの時代、教員という言葉は消滅するのではないかと予想する)、AはAではない、という無茶な言い方をしていないか自身を点検してほしい。たとえば、「先生も間違うことがある」「先生も人間だ」と自己弁護するならば、あなたは先生ではない。感情に過度に流され、「だって人間だもの」と弱音を吐くのならば、冷静沈着でいるべき像としての「先生」などと自身を規定、また称しないことである。

あるときは教員然、そうではないときは友達然とするような様を「先生」という言葉で括る、私に言わせれば言葉を弄んでいるから、中途半端な立ち位置になる。だから、何度でも言う。間違っても自分で自身のことを「先生は…」と言わないと戒めるべきである。ある場面を指して、他者が先生と呼ぶのはありうる。けれど、自分で自分を先生と語ることの大きな問題は、自分を疑わなくなることだ。自分を疑わない人間の恐ろしさは、否定的な出来事を自分以外に帰属させること、つまり「こうなったのは、○○のせい」と思い込んでしまうことである。自分を反省できず、革新することができない人間が、どうして人様の前に偉そうに立つことができるだろうか。

公教育の課題は、何も政策や行政、制度のあり方によってのみ、もたらされるのではない。それは、児童・生徒に一番身近にいる「先生」という大人のいい加減さによっても生じるものである。自分を疑わない人間が、何の根拠も定義もないのに、身勝手に自分で自分を「先生が…」と語るというおぞましいことが、今日も各地で起こる。「先生の言うことが聞けないのか」「先生はあんたたちと違うんや」「それは先生が決めます」って。「あんた、いったい、何様やねん」という、声にならない児童・生徒のつぶやきや叫びが聞こえるだろうか。



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by walk41 | 2018-03-22 15:44 | ことばのこと | Comments(0)

不思議な文章

あるホテルの案内に、次の一文があった。

館内の換気は清掃時に十分にいたしておりますが、気になる場合はご容赦ください。

気になる場合は「おっしゃってください」とか「フロントに消臭剤がありますのでご利用ください」と続くと思いきや。

こうした不思議な文章は、国語教育の教材に遣えるのではないかしら。

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by walk41 | 2018-03-13 06:25 | ことばのこと | Comments(0)

国家と言語の統一

ドイツのメディア、Spiegel-online で報じられた興味深いニュース(20180302)。

昨年の連邦議会選挙で躍進した右派政党の「ドイツのための選択」(AfD)が、ドイツにおける言語はドイツ語ということを連邦基本法に定めるべきだと提案。これに対して、社会民主党(SPD)の議員が、自分の母語はPlattdeutschであり、高地ドイツ語(ハノーファーを中心とした「標準ドイツ語」)だけに限るのはナンセンスだと、この言語Plattdeutschを交えながら演説したのだ。以下が原文。動画もある(Die AfD fordert Deutsch als Landessprache im Grundgesetz. Der SPD-Abgeordnete Johann Saathoff führt darauf diesen Antrag ad absurdum - in seiner Muttersprache Plattdeutsch.)。

これへの補足としてSpiegel誌は、wikipedia を引いて、いわゆる少数派言語として、Plattdeutsch, Nordfriesisch, Saterfriesisch, Dänisch, Sorbisch, Wendisch,Romaniといった言語のあることを挙げている。いわゆる方言ということだろうね。

国家として人々を国民として統一していく上で(同時に、外国人を排斥する上で)、言語が決定的に重要なことは歴史的に明らかだから、AfDはそこに着眼したのだろうが、これに異を唱えることが、21世紀初頭のグローバル化に適ったものだろう。この反対演説を支持したい。

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by walk41 | 2018-03-03 23:51 | ことばのこと | Comments(0)

日本/日本人だから?

この間、福井県ほか北陸での豪雪、そして多くの車両が路上で動けなくなった災害が報じられている。一方、車の中に閉じ込められた人に対する炊き出しのほか、山崎パンの配送車がパンを無料で配ったり、餃子の王将が500人に料理を届けたりという嬉しいニュースも流れている。困難な中にあって、素晴らしい行動を取れる人と組織のあることに驚き、また敬意を表する。

ただし、この手のニュースを受けて、「素晴らしい日本人」「日本に生まれて良かった」調の、日本/日本人万歳がコメントとして書き込まれるのはいただけない。確かに、国や地域によっては騒ぎさらには略奪までもが起こったという報道を耳にすることもあるが、それはどれほど明確な違いなのだろうか。

事実をいたずらに一般化するのではなく、美談をその限りのものとして「良かったなあ」と受け止める謙虚な姿勢を保つこと、そのためにも、「これは北陸地方の人々ゆえではないか」「雪に閉じ込められている状況ならではのことではないか」と多面的に推論できる能力が必要だろう。それは「日本だから、日本人だから」と考えることと随分と距離がある。

過度に一般化してしまいがちな思考上の癖や歪みに気づき、補正できることは、生活術としても有用なはずだ。それは「白か黒か」と二分法に陥ったために払われた夥しい犠牲を思い起こせば了解されるだろう。「買うか買わないか」「敵か味方か」「損か得か」と日々迫られる事柄に対して、第三の選択肢を持つことができれば、救われることが少なくないからだ。

このためには、「だいたい」「ふつう」といった口癖を控えること、自身の経験に縛られて、ステレオタイプの論理化をしないように「子どもの目」のような新鮮な眼差しを注ぐこと、何より、そうした態度を持ちうる健康な身体を保持することが肝要ではないだろうか。





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by walk41 | 2018-02-08 15:19 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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