学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:ことばのこと( 510 )

パラ・シアター

家人と話す。劇場、シアターの元の言葉であるギリシャ語のテアトロンとは「見物する場所」の意味だったそう。

ならば、これからの文化芸術のあり方として、「場の理論」(K.レヴィン)にも関わるが、観客(見る側)と演者(見られる側)に限らない、その場(空間と時間を合わせ持つ)をいかに豊かにしていくか、という発想がありうると思う。

シアターがいろいろなものと繋がる、パラ・シアター(para-theater)は、公演や演奏だけでない、そこで休み、くつろぎ、思い出に浸り、これからに思いを馳せることができるような、文化芸術に関わる人的・物的・財的そして情報、さらには環境を包括する「豊穣な場」を意味する概念たりうるのではないか。そんな直感を得たことだった。

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by walk41 | 2017-11-10 19:10 | ことばのこと | Comments(0)

エチケットつづき

きっとそうだろうなぁ、と思いました。調べるとやはりそのようです。

エチケットと言う言葉が、宮廷儀礼を示した札から転じて、マナーや作法を指す言葉になったとは先に記した通りですが、このエチケットの札と言う意味が、英語のチケット(切符や札)になったということ。面白いと思われませんか。

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by walk41 | 2017-11-07 18:41 | ことばのこと | Comments(0)

エチケット

家人と話す。ハッシュタグのハッシュってどういう意味かしら。

hash を引くと、「細切れにした」の意味なことがわかる。だから、細切れ肉料理はハッシュドビーフ、さらには、hashed beef with rice、とご飯か付いて日本語化、「ハヤシライス」になったのか、へー。じゃあ、残るタグって。tag は付け札、下げ札の意味、これで了解できた。ハッシュタグとは、内容を細かく刻んだ札のことなんだ。

転じて、札tagを引くと自分の中でつながる発見があった。tag(英語)はEtikette(ドイツ語)、このドイツ語が札、ラベルを指すことは知っていたけれど、なぜそうなのかは知らずじまいだった。語源を引くと、 étiquette(フランス語)、興味深いのはここからで、このエチケットは宮廷に招かれた際に守るべき儀礼を示した札のこと、転じて、宮廷儀礼を指すのだと。なるほど、だからエチケットは、札、儀礼なんだなあ。

色々なところでつながっている言葉、知らないことが山ほどあるね。




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by walk41 | 2017-11-04 11:33 | ことばのこと | Comments(0)

セルフ

香川県を訪れると「セルフ」という看板の多いことに気づく。さてあなたは何を思い浮かべるだろうか。

香川県は「うどん県」とも自称するように、讃岐うどんが有名だ。ここで、セルフとはセルフサービススタイルのうどん屋さんのこと、セルフうどんである。

セルフと見ると、例えばセルフガソリンスタンドを思いつくかもしれない。これが文脈に依存して理解しているということ、同じ言葉を見ているのに、思い浮かべることは必ずしも同じではない。とても面白い事実ではないだろうか。

ちなみに、香川県のセルフうどんは、私の経験の限り、自分で麺を茹でる、お湯を切る、ネギや天かすを入れる、めんつゆを入れる。けっこうセルフだなあ。

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by walk41 | 2017-11-02 16:25 | ことばのこと | Comments(0)

いじめ定義の難しさ

先日、「いじめ」件数が増加と報じられたが、これは訴えに丁寧に耳を傾けた結果と基本的に肯定的に捉えるべきだろう。「こんな多くいじめが起こって由々しき事態」とは見なさないのが賢明だろうということである。

「いじめ」定義は変遷しているが、現在はいじめ防止対策法(2013)に示される「第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」が採用されている。

客観的な事実の確認が難しいこの種の行為に、受け手の主観であっても「いじめ」と見なすことで、いわば網の目を細かくする意義のあることはわかる。けれど、それが主観であるために、「言ったもん勝ち」の面も持ち得ることは踏まえなければならない。

すなわち、「いやだ」「辛い」と感じるのは、いわゆるいじめられる側だけにあるのではない。いじめるとされる側も、同様の受け止めをしている場合のあることを忘れてはいけない。

たとえば、家庭事情も影響してか清潔とは思えないクラスメイトがいる。近くになると異臭を避けられない。小学校低学年で、自分の鼻水を周りに擦り付けようとする実例は、以前の拙ブログに記した通りだ。あるいは、発達特性が関わっているのか落ち着かず物を投げたりして、周りにいるとヒヤヒヤさせられるケースもありうる。

これらは「汚い」「怖い」ゆえの、ある意味で当然とも言える反応、逃避行動を取っているのである。それが当該の子どもに「心身の苦痛」を与えることになりえるけれど、はたしてこれは「いじめ」だろうか。困っている周りも「嫌や」「辛い」のである。「こっちがいじめられてるみたいなもんや」との声は聞こえないだろうか。

かくも、定義することは難しく、それゆえに変わってもいくのだろう。そこで大切なのは、これが定義と誦んじられることではなく、この定義が持つ強みと弱み、効用と限界を考察できるように、事実と論理の往還運動という「頭の体操」ができることだろう。

思考体力がなければ、頭でっかちあるいは経験の羅列に留まる。ちょうどサーカスでの綱渡りのように、不安定な中でバランスを取りながら歩き続ける力を養い保持することが必要と、重ねて思わされる。




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by walk41 | 2017-10-30 15:56 | ことばのこと | Comments(0)

読み方

本州と四国を結ぶ三つの橋の一つ、しまなみ海道を北から南に進むと、尾道から今治に至る。

その今治に波止浜(はしはま)という地名があり、離島への船が出る港もある。

さて、この波止浜をインターネットで検索しようとするも、なかなか見つからない。ほどなく、その理由がわかった。それは、波止場(はとば)という漢字の並びに馴染んでいるために、最初の二文字を「はし」とは読まずに、「はと」と読んでしまう癖が自分に付いているからだと。

思い返せば、山梨県に住んでしばらくは、「やまなし」と京都の地名、山科(やましな)をよく言い間違えていたが、山梨県にひとたび馴染むと、反対に山科を「やまなし」と言うことになった。そして今は、再び「やましな」派だ。

言葉の表記は客観的だが、それをどう読むかは、読み手の経験にもとづく偏り、傾きにも依っており、この点で、文字を読むことは文脈依存的である。これが話し言葉や非言語となれば、その表出と変化のスピードの早さから言って、より各主体の文脈に沿って把握されることになる。「コミュニケーション能力が大切」などと、のっぺりと捕まえるのではない、より分析的な姿勢が求められるゆえんである。


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by walk41 | 2017-10-27 16:07 | ことばのこと | Comments(0)

nation

学部生への授業で、「国民教育の歴史を乱暴に述べれば」と授業者は話したのに、なぜか「乱暴な国民教育」と聞いた「元気な学生」が、感想文の行で、ナショナリズムという言葉を記していたので、いま一度、確認しておきたい。

ナショナリズムはナショナルな考え方を重視するものだが、このnationはフランス語のnatus「生まれた」を語源にする。「生まれたことをきっかけに自然に結びついている人々」と理解すればよい。今でこそ、これは国家と同義的に考えられがちだが、範疇が即、国家に限られるわけではない。

nationとは、家族や親族、村落共同体は狭いかもしれないが、市町村や都道府県が単位であってもかまわない。故郷(くに)は多くの場合、近江国、薩摩国と生まれ育った地域を指しており、「お国はどちらですか」と尋ねられて「日本です」と返すのは、知識が足りないか、ちょっとした冗談の類である。あるいは、「全国地図」とあるけれど、これは決して世界地図を意味するわけではないことは小学生でも知っているだろう。はたまた、国盗り物語も、外国との戦争を描いたものではない。国とあれば国家だと捉えるのは、シンプルに過ぎるだろう。

また、おそらくは多くの国家の場合、その中に、複数の小さな国家を抱えた、いわば同心円的な構造を取っている。日本ならば、日本国-都道府県-市町村、であり、ドイツならば、Bund-Land-Gemeinde、である。言わずもがな、すべてを国が扱うわけではなく、都道府県や市町村の所轄事項も少なくない。さらには、市町村ではあっても、政令指定都市や中核都市ならではの業務もある。

また、ドイツの場合は連邦国家だから、人々の日常感覚としての国は州(Land)であり、各州の法律にもStaat(国家)は州のことを指すと示されている。教育行政について言えば、16の州それぞれにいわゆる文部省があるし、それらの調整役としての常設文部大臣会議(KMK)は1948年に創設、70年近く前から、州ごとに公教育が異なることを前提に「ドイツの教育」を行っているのである。

こうした「わかったようなつもり」の言葉についてこそ、慎重に丁寧に考え扱うべきことを学ぶのが大学生だろうに、「本来のナショナリズム」などと記して、権威主義に乗じるかのような知的貧困な様子を残念に思う。

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by walk41 | 2017-10-17 12:45 | ことばのこと | Comments(0)

Fiasko/fiasco

先月下旬のドイツ連邦議会選挙の投票日直前、ドイツの友人が怒っていた。ネオナチ張りの主張を続けるAfD(ドイツのための選択)の躍進が見込まれるという報道に対してだ。彼女はこの事態を"Fiasko(野心的な企てが滑稽な結果で終わるような大失敗:Weblio訳を拝借)"だと述べ、大いに憂いていたが、実際にAfDはおよそ13%を得票し、第3党に躍り出た。メルケル首相の続投は決まったが、連立政権の組み合わせはまだ確定していない。

さて、日本でもなぜか急に総選挙が行われることになり、そしてなぜか政党がなくなり、「安保法制反対」と叫んでいた議員が、新しい政党に入れてもらうためにこれを口にしなくなった。国民の信託を受けたはずなのに任期を全うせず、政党でも選ばれたはずなのにその政党があっという間に消滅し(そもそも、党をなくすことを党大会を経ずに決められるのだろうか。党員がよく黙っているなあ)、幟に新しい政党の名前を貼り付けて演説をする様である。

こんな訳のわからない状態なのに、まるで競馬の予想かのような報道が続くのもまさにFiaskoである。代表制民主主義とは、政党とは、投票とは…、社会の教科書に書いてあるようなこととかけ離れた事実が連なっている。こんな茶番あるいはパロディ、はたまた悪い冗談はどうして起こっているのか。けれど、まったく気持ち悪いことに現実なのだ。


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by walk41 | 2017-10-08 10:40 | ことばのこと | Comments(0)

青か緑か

音の違いに敏感な人とそうでない人、数字の違いがはっきりとわかる人とそうでない人がいるように、私は色の表現が苦手だ。色覚が多数の基準から外れているということではなく、違いはわかっているけれど、それを違うように表現することができない、とくに「青」と「緑」について。

明らかに緑のものを指して、青ということが頻繁にあり、聞いた相手から「緑だね」と確かめられる、というケースが多い。うーむ、緑と青の色の違いはわかっているはずなのに、なぜか言葉にするときに間違ってしまうなあ。ただし、青を緑ということはなく、緑を青というのがほとんどだけれど。

その一方、こうも思う。実生活では青と緑という言葉は、かなりおおらかに用いられているのではないか、そうならば青と緑の区別はあまり重要ではないのでは、と。

たとえば、「青信号」と言うが、大体は緑である。緑なのに青と表現する。また、「青葉の頃」と言うけれど、新緑とも言うように「若葉は緑」である。あるいは、緑黄野菜から作っているのに「青汁」、同様に「青菜に塩」とも言う。みんな緑やん、と突っ込んでいいだろうか。

青と緑を話す際に苦労されている方、おられませんか。

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by walk41 | 2017-10-06 09:39 | ことばのこと | Comments(0)

丁寧な言葉遣い

ある公立中学校の文化祭にお邪魔した。

一つの学年が7クラスほどもある、今ならば大規模校とも言える学校だが、体育館への生徒の整列、入場の様子を見ていて、教員の口ぶりが随分と丁寧なことが、ひとつ印象的だった。

それは、①「〜しましょう」「〜ですね」と語尾がほぼ敬体であること、②怒鳴るなど語気が強くなく、おおむね穏やかなこと、③笑顔が比較的現れ、まあまあ和やかな雰囲気を醸し出していること、に私は見つけたけれど、他にもあったかもしれない。

欲を言えば、生徒会や放送部などによる集団力学をもっと活用して(たとえば、「10,9,8と読み上げる中で、声を小さくしていき、1、0で無言になる」とかクラス単位などで静かになった順位争いをするなど)、制御することができるかなとも思ったけれど。

とまれ、こうした丁寧な様子は、周りを安心させ、落ち着いて場に臨むことに繋がる。売り言葉に買い言葉といったことも減るだろうし、ましてや手が出るといったことも起こりにくいはずだ。お喋りが止まない、思っているように動いてくれない、という状況では、いきおい語気も強まりかねないけれど、そこを堪えて接することのできる教職員みなさんの様子を素敵だなと思ったし、生徒たちとのよりよい関係が築かれることを願うばかりだ。

実際、プログラム中に含まれていた「職員合唱」と、放送部がアナウンスした途端に、生徒たちから大きな拍手が起こったこと、そして教職員が舞台に現れた時の拍手と掛け声の大きさ、さらに、職員合唱が生徒たちとの合唱でもあったこと、加えて、合唱に聴衆側の生徒からたくさんの手拍子が伴い、アンコールの声までが上がったことは、いずれも日頃の教職員の皆さんと生徒との良い関係を象徴するようだった。

ちなみに、後ろに設けられた保護者席で、なかなか途切れない母親たちのお喋りには、辟易させられた。教員たちも保護者に注意するとはなかなか行かないだろうから、生徒に対して言っていることとのズレに困惑したはずだ。こうした「やっかいな」人々とも学校は付き合わなければならない。こんな面でも学校が大変なことについて、より多くの人が想像力を発揮してくださればと思う。

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by walk41 | 2017-10-05 10:26 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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