学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

カテゴリ:ことばのこと( 510 )

「先生は…」は自信のなさの現れ?

今週も聞いたなあ、「先生は…」「先生が…」と教員が自分のことを生徒に向かって話すさまを。

これまで何度も主張しているが、「先生」とは敬称であり、他者から投げかけられる呼称である。教員同士での「先生」「先生」の掛け合いは辟易なものの(大学もご多分に漏れず)、それでも他者が誰かに対して遣う表現である点では、上の条件を満たしている。

ところが、自分で自分のことを「先生」というのは、自分で自分を尊敬していることになる。これは、「私のような者が」「愚息が」と謙譲して、つまり自分を実際よりも低めに述べることの対極にある。私はこの傲慢さ、そして傲慢であることを自覚していない様子が自分としては嫌なのだと思う。

この「先生問題」だが、先日、現職の教員たちとの勉強会で「公-私関係」の話をしていたときに、合点した。「そうか、先生という表現は公共性を帯びているんだ」と。確かに、先生という敬称は、ある人ひとりにとっての先生、たとえば「人生の師」といった意味合いでも遣われるけれど、学校という多くの人が関わる場で用いられる先生、すなわち公共性を持つ。教員免許状を有して、実際に学校で勤務しているという公共性を指して「先生」と呼ばれているのだ。ただ大人なだけでは、先生にならない。

このことは、ちょっと飛躍するけれど、戦前の軍隊で頻繁に用いられたと聞く「畏れ多くも天皇陛下の…」と前口上を述べて、自分の命令を部下に行ったという様と同じだと思うのだ。「私は」「自分は」と述べる主体が自身であることを明示せず、「先生が」と話すことで、「先生という公的な立場の人が言っているんだよ」「だから、言っていることは聞くに値する大切なことなんだよ」と、発言の最初に相手に印象づける(流行言葉で言えば、ゴッフマンの「印象操作」)点で狡い。等身大の自分が言っているという格好を取らず、「偉い人が言ってるんだよ」とより思わせる一つの仕掛けになっているから。

これは「僕の叔父が今度、ニューヨークで個展を開くことになってさあ」とか「有名な女優の○○さんと、この間、パーティーで話をしてね」という手合いと同じだ。こう話すことであたかも自分がひとかどの人間と思わせようとする狡猾さ、卑屈さ、自信のなさを見る。

だから「先生」にお願い。虎の威を借る狐のような発言は止めて、自分にもっと自信を持てるように鍛えてください。自分で「先生」と連呼するうちに、本当に自分が偉くなったかのような壮大な勘違いをすることがないように。



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by walk41 | 2017-09-30 14:16 | ことばのこと | Comments(0)

強烈な皮肉

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「私たちは、あなたに暗殺者を送り込もうという訳ではありません。けれども、あらゆる万引きは図書館への立ち入り禁止と告発を招くことになります。」

南ドイツのある市立図書館内に貼ってあるポスターから。ユーモラスかつ強烈なパンチが効いていると思いませんか。

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by walk41 | 2017-09-20 12:26 | ことばのこと | Comments(0)

「かぶる」再考

重複することを「かぶる」と、学校教員までが言うのを、さして違和感なく聞けるようになってきた。言葉は世に連れ、世は言葉に連れとは思うけれど、「ダブる」の変形のような気がして嫌だったのだけれど。

と同時に、これは「ダブる」の言い換えと言うよりも、「重なる」を一文字分短くしたものではないか、とも思うようになった。発声上の省エネ、エコの一つなんだと。

①自動販売機→自販機、就職活動→就活、と用語をつづめるもの、あるいは、②見られる→見れる、着られる→着れると「ら」抜きのもの、はたまた、③ATM(現金自動預け払い機)、AI(人工知能)と、アルファベットに置き換えるものと、いずれも少ないエネルギーで多くの内容を表現しようとしていると見なせる。

いわゆる若者言葉には、おはよう→おは、ありがとうございます→あざーす、と省略するとも聞く。ひょっとしたら新しい世代ほど、より省力化が図られているのかもしれない。

扱う情報が増大しているためか、伝達意欲が強まっているからなのか、伝達する相手が増えているからか。いずれにせよ、少ないエネルギーでより多くの内容を表現しようという指向性が強まっていることは認められるだろう。

この点で、教育論議においても聞こえる「昔と比べると、コミュニケーション能力が低下している」なんていう言い草が、いかに的外れかわかる。私たちは、いっそうコミュニケーションをしようとしており、実際にしており、だからこそ、必ずしもできていないことを「コミュ力不足」だと病むに至っているのである。

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by walk41 | 2017-09-13 14:48 | ことばのこと | Comments(0)

お店の名前

広島市を訪れる。

お好み焼きを食べながら、同席くださった方からこんな話を聞いた。

お好み焼き屋さんに女性の名前が多いのは、被曝後、連絡が取れなくなった家族や知人に、自分がここにいると知らせるために店の名前を付けたから、と聞きますよ。

そんなこともあったのか。一瞬にして町が崩壊、おびただしい方が亡くなったことに加えて、生き残った人も衣食住を失い、人々の繋がりも失った。

その痕跡がこうして残されていることを知り、言葉を失った。

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by walk41 | 2017-08-22 09:11 | ことばのこと | Comments(0)

〜しか〜ない

日本語学の教科書にはきっと載っているのだと思う。それを調べずに言うのはものぐさの典型だけれど、お許し願いたい。

〜しか〜しない、という表現、「しか」は「だけ」「のみ」と同義だとすれば、後半が否定文になると、前半を排除する意味になると思いきや、前半だけを肯定するという意味になるというのが、とても不思議だ。

彼しか知らない→彼のみ知らない→彼だけが知らない、になってしまい、
彼しか知らない→彼だけが知っている、という意味と正反対になってしまう。

私たちの頭はどのような論理で、「彼しか知らない」を「彼だけが知っている」と翻訳しているのだろうか。論理は関係なく、そういうことなの、とただ暗記しているだけなのだろうか。

もし、後者であれば、「わかる」だから「できる」ではなく、「わからない」から「できる」あるいは「わかる」と「できない」ということになる。さてこれは、教育ー学習の論理に即しているだろうか。

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by walk41 | 2017-08-15 19:34 | ことばのこと | Comments(0)

negative capability

否定的能力、否定的なものに対する能力とも訳されると聞く、この言葉を最近知った。

今からちょうど200年前に、イギリスの詩人、ジョン・キーツが22歳のとき、以下のように二人の弟に送った手紙の一節にあるそうで、生涯に一度しか用いなかった言葉だという。誰が見つけてくれたのか、面白い発想に基づく言葉だと思う。

..I mean Negative Capability, that is when man is capable of being in uncertainties, Mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact & reason. (人が、事実や理由を得ようといらいらすることなしに、不確実性、不可思議、疑惑のなかにいることのできる力、それを私はNegative Capabilityというのだと思います。)[https://www.lifeworks.co.jp/labo/2015_09_071001.html より拝借。]

このような言葉を知ると、いろいろと発想に広がりを持てる。たとえば、「すぐにわかるとは、否定的能力が低いという点で問題ではないか」とか「確実か不確実かをそれなりに見分けられる能力があってのことだろうな」とか、教育-学習の議論にも密接するテーマだ。

逆転の発想という点では、赤瀬川原平が造語した「老人力」にも通じるだろう。記憶力が落ちるのは、つまらないことを覚えておかないという能力が高まること、早く歩けなくなるのは、ゆっくりと世界を眺める楽しさを知るからこそ、と捉え直せば、老いることの何を嘆く必要があるだろうか、という話である。

啓蒙、啓発の時代が直前に迫っていただろう200年前のイギリスにおいて、不確実なこと、不可思議なことって、どんなことだったんだろう。





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by walk41 | 2017-08-13 12:45 | ことばのこと | Comments(0)

「わかった?」「わかりましたか?」

「わかった?」と教員が児童・生徒に尋ねるシーンは、学校経験のある人ならば容易に思い浮かぶだろう。それほどに馴染みのある言動だけれど、とても不思議な言い回しである。

なぜなら、このように子どもに尋ねることは、彼ら/彼女らがわかっているかどうかを教員はわからない、ということを表明している、つまり、児童・生徒理解、子ども見取り、生徒観念などと日頃から言っているにもかかわらず、子どもを捉える、診断する能力が教員に必ずしもないと、教員自身が述べているのだ。

また、これは全てに当てはまるわけではないが、多くの場合、語調、ニュアンスとしてこの言葉は質問の意味をなしておらず、確認を取る格好になっている点でも特徴的だ。教員は子どもがわかっているかどうかを必ずしも知りたいのではなく、わかっているはずだからね、というメッセージを暗に伝えようとしているのだ。その雰囲気を感じ取る子どもは、実際にどうかは別にして、おおよそはわかったような顔をする。こうして、次の単元に進むという「共同作業」ができる。ここで「わかりません」などと無粋な反応をしようものなら、「空気が読めない奴」の誹りを免れない。

かくして、自身だけでは子どもを理解できない、にもかかわらず、教員たるもの理解できるはず、理解できなければならないという信念が一人歩きをし続ける。また、尋ねているわけではないのに、尋ねたというアリバイづくりによって、あとあと「だって、わかったってあの時に言ってたやん」と抗弁できるカードを教員は手にする。学校の言葉はまことに興味深い。

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by walk41 | 2017-07-31 05:39 | ことばのこと | Comments(0)

ドイツ語の長い言葉

ドイツ語は、ひとかたまりの言葉が長い場合が多い、と話題になりやすい。

単語を覚える上でも、この手の話題は楽しく飽きさせない。

今回学んだ一番長い言葉はこれだな。下手な日本語訳だけれど、こんな感じ。

「土地取引認可に関わる権限委任規定」
Grundstücksverkehrsgenehmigungszuständigkeitsübertragungsverordnung

えっ、こんなの面白くないって? ああ残念。


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by walk41 | 2017-07-26 21:00 | ことばのこと | Comments(0)

かぶる

この間、学期末の学生のレポートを読んでいる。

前から気になっているのだけれど、「かぶる/被る」という言葉の遣い方に強い違和感を覚えており、この表現がレポートの中にも出てくるので、なぜ気になるのだろうかと考えてみた。

私の授業では、学生のレポートをクラスメイトである他の学生がコメントする(紙上対話、「赤ペン先生」と呼んでいる)スタイルを取っており、最終レポートでしっかりそれができるように、授業間にミニワークと称する小さな課題にて「赤ペン先生」の経験を重ねている(2回生向けの授業では、今期5回行った)。そこに記される、「私の考えと被っていて…」という表現が、とても気になるのだ。

そこで「かぶる」を引くと、従来の意味といっていいだろう、頭や顔などにそれを覆うものを載せる。また、全体をすっぽり覆う。「帽子を―・る」「面を―・る」「毛布を―・って寝る」「雪を―・った山」のほか、写真で、現像過程の失敗、露出過度やフィルムの欠陥などのため、フィルムや印画紙の画面が曇ってぼやける。「この写真は―・っている」。あるいは、すでにある色や音などの上に、さらに他の物が加わる。「日陰の撮影でやや青の―・った画像になる」「会話の音に電車の通過する音が―・る」、「一方の発言と、もう一方の発言が重なる。「同時にしゃべりだして言葉が―・る」」(goo辞書)という説明が見つかる。

ところが、「意見がかぶる」「考えがかぶる」は、これらと違うのではないか。その理由を考えたところ、次のような感じかなと今は思う。

①辞書に載る意味での「かぶる」は、色や音、発言あるいはフィルムといった具体物の重複である。客観的にダブっており、それにより色や音などが変質する。

②これに対して考えが「かぶる」とは、同様の考え、近い考えを指しており、抽象的な話である。よって、それらが「かぶる」ことがあっても、互いに影響を及ぼすことはない。独立したままである。

何ら意識していた訳ではないけれど、こんな点で自分勝手に言葉の線引きをしているのかもしれない。だから、私は違和感を拭えないのだ。

もちろん、これまでも書き散らしているように、言葉は時代によって移り変わるから、昔を懐かしんでも仕方がないことは承知している。ただ、移り変わりの過渡期だからなのだろうか、頻繁に聞こえるように思われ、より鬱陶しさを感じるのかもしれない。まさに、言語は思考を支配する、違和感のある言語に触れると落ち着かない、といった辺りか。

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by walk41 | 2017-07-23 17:13 | ことばのこと | Comments(0)

生きる力

家人と話をしていて、身内ぼめながら、とても感心することがあった。

曰く「生きる力とか言うけれど、誰かのために頑張ると思えれば、その人が生きる力を与えてくれているってことでは?」。

鋭いです。教育議論はともすれば、自分が持つべき力という前提でおしゃべりをしがちだけれど、他者のために、他者を励みに、生きる力を得るという立論は、実にしっくりくるではないか。

コミュニケーション力ほか、「〜力」は今なお興隆しているけれど、こうした言葉の遣い方のそもそもの前提をどれだけ問うているだろうか。自分でできることなど、たかが知れている、他者によってこそ力が引き出され、自身が生きる力を結果的に得ているという実際により注目するのも大切ではないだろうか。

だとすれば、生きる力を持つとは、自身のあり方もさることながら、自分の周りに自らのやりがい、生きがい、喜びをいわば用意すること、そうであって初めて、自身が生かされる、と導ける。個人単位で「学力」を測ることの愚かさ、周りがあってこそ自分が存在するということに気づかない幼さを反省することができる。



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by walk41 | 2017-07-19 23:27 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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