学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und Schulmitglieder

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とことん邪魔をしてくれます

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今年12歳のあずき、ウルトラ甘えたです。

人がパソコンに向かえば、この有様。仕事になりません(「Twitter見てるやん」て?)。

とても元気なので幸いではありますが。
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by walk41 | 2012-05-04 10:08 | Comments(0)

準備しすぎてはいけない

東京ディズニーランドを目指し、関越道で死傷事故を起こした夜行バス。チケットを手配した楽天トラベルから、被害者宛に「ご乗車はいかがでしたか」とメールが届いたという。

被害者家族からすれば、あまりに無神経な話だが、会社からすれば「自動発信されるようになっているので…」と噛み合わない。

「まさかそんなことが」と思われるような自動車事故ですら、稀には起こり、関係者を傷つける。先々どうなるかわからないのに、予め準備をしすぎたためだ。

だから、そもそもどんな風になるかわからない学校教育において、事前につもりすることが、いかに危険かを教職員や教育委員会のメンバーは心すべきだろう。なのに、「PDCA(Plan-Do-Check-Action)を回すことが大切」と、学校教育が自分たちでちゃんと掌握できるかのような議論を、「研究者」はしようとする。

児童・生徒という学校には不可欠だけれど、学校教育が望む方向に進んでくれるわけでは必ずしもないメンバーを抱える学校が、計画を立て、それに即して実践し、点検・修正して、次の段階に進むというモデルは、もともとムリな話なのだ。

Planは現状分析と評価が主眼と話し、「計画をきっちり、しっかり」、とは言わなかったものの、PDCAの講義をした自分の反省を込めて、改めて確認したい。「人間相手の仕事は、その場にならないとわからないことがたくさんあるから、想定できない段階での準備は目安の域をまったく出ない。だから、詳細な事前のつもりやそれに従った戦略などという発想は、柔軟な対応を困難にする点で、却って危険ですらある」と。
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by walk41 | 2012-05-04 09:37 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

子育て

「大阪維新の会  大阪市議会議員団」がこの5月にまとめたという「家庭教育支援条例 (案)」がリークされ、ネット上で炎上している。

発達障害に対するとんちんかんな理解、親と保護者の未整理、なぜか「本県の未来を託す…」コピペかと、問題オンパレードの文面だが、それ以外の点から見ても、このグループが「維新」などでは全くなく、かといって真逆の「守旧」でもなく、勝手な想像で過去を「捏造」する面子なことがわかる。

同条例案の前文は、こう始まる。「かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた」

これはどれほど正しいだろうか。たとえば明治初期、国民の7~8割が農業に就いていた時代、子育ては、村落共同体の後継者を育てるのが目標だったから、父母よりも、地域という名前の「企業」によって行われた。何しろ、田畑は動かすことができないから、村落は運命共同体、その正否は地域による子育てにあったのだ。

家族が教育の中心になるのは、大正期に新中間層という教育以外の機能を外注(アウトソーシング)できる階層が登場して以降であり、それですら国民のごく一部に過ぎなかった。逆に「セレブ」な人々は、乳母や家政婦に任せて、自分で子育てをしなかったのだから。

また、子育ての内容は、村落を維持するためのしつけや技術の獲得が圧倒的であり、当時の労働社会に直結していた。今のような「人格の完成」や「市民としての常識」といった普遍性はなく、あくまでもその地域に即した生活(ケとハレいう労働と祭り、冠婚葬祭の習俗)を支えるものだった。このことは、都市住民にとっても同様、学歴主義がまだ機能した時代にあっては、「末は博士か大臣か」と地域社会のしがらみと無縁の人生(「無縁社会」)が志向されたのである。

そもそも、出産と育児の衛生、栄養、安全などが著しく不安定だった時代、「7歳までは神の子」と、いつ亡くなっても不思議ではなかったから、将来を見通した子育てが行われるはずもなく、子どもは否応なしに自分で学び、生きていったのである。成人を待たずに死んだ子どもは数多く、これが平均寿命を低いものに抑えていた。彼らは、ほとんど育てられていない。

こんな辺りですら素人なりに描けるのだから、この条例案は、これまで存在しなかったようなお話を、まるで存在したかのように作り上げている点で、ウソつきであり、あるいは、自分たちがウソをついていると気づかないくらい歴史の(社会の?)「学力」が低い。

昔のことをみんなが忘れるのをいいことに、勢いよく言えば「そうだったよなあ」と思い込ませることができる。年配の人ですら、自分がどのように子育てされたか、なかなか思い出せないのだから、人間の記憶ってほんとうにアバウト。

お調子者が跋扈するとろくなことがない、という好例をここで大いに学ぶべきだ(でも、記憶がいい加減だから、また忘れるのだけれど)。
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by walk41 | 2012-05-03 23:02 | ことばのこと | Comments(0)

QC

品質管理(QC:Quality Control)サークル活動の先駆けとなった「現場とQC]誌が創刊されて、50年になる(2012.4.30、日経)。

その発想と手法には賛否両論があったが、より高い品質を、より低いコストで、より短い時間で、机上ではなく、現場で働く人の目線からアイディアを出していくという基本原則は、官僚制が支配的な領域をのぞき、業種を問わずおおよそ定着したのではないかと思う。

同記事を書いた編集委員によると、変化しつつあるQCの一つ、日産では、この活動を業務として明確に位置づけた点で新しい。10人ほどのサークルがリーダー、工長を中心に活動を決めるが、それは業務だから勤務時間に含められ、残業手当の対象にもなるのだという。

ひるがえって、学校教育に目を向ければ、「事件は現場で起きている」と多くの教員が好んで口にしながら、その現場を重視していないように、私には見える。どうすれば職場をより良くできるか、いかに働きやすい職場にするかという発想と手法、さらに方略について、どれほどの労力を割いているかといえば、まったくお寒い状況だろう。

「子どものために」「子どもの成長のために」と呪文のように唱えるが、それを支えるはずの、たとえば職員室の整理と整頓、できるだけ早く帰宅するタイムマネジメント、情報共有と交換を促す空間的設計とコミュニケーション上の工夫など、いくらでもありうる業務改善については、学校管理職をはじめ、視点すら持ち得ていない、といえは失礼に過ぎるだろうか。

教員の職務は「授業研究」や「教育実践」だけではない、教育公務員特例法に定める「研修」もそうだし、学校環境の改善ももちろんである。問題は、まずそのことに気づくこと、そして校務分掌に「学校業務改善委員会」などを設けて、全学校を視野に入れた働き方の分析、実践、報告と始めてはどうだろうか。
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by walk41 | 2012-05-03 07:52 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

若者

「若者よ、尾崎豊を知っているか」と全国紙に投書。

「…また私たち現代の中年世代には学校や社会の不条理に立ち向かった尾崎の叫びが、それぞれ心に響いていた。今の若者には、そのように心が揺さぶられる音楽があるのだろうか」とある。

う~ん。「メッセージ性」のある音楽に影響を受けた自分たちの世代を無前提に肯定し、「草食」とも揶揄される「若者」にはそれが欠けているのでは、という趣旨と読んだ。

つまり、尾崎豊の話ではない。そうではなく、投稿主が「メッセージ性」を持つ音楽であるかどうかを「神の視点」から論じがちなこと、また、仮に「メッセージ性」が乏しい場合、そのことをどう見るかという分析的視点を欠くことが問題では、と感じるのだ。

たとえば、「私的には…」という言い方について、「日本語が乱れている」と評する人もいるが、「控えめでおしとやか」と聴く人もいる。「メッセージ性」のあるなしを捉えるのは容易でない。

また、「メッセージ性」が乏しいということは、誰かに依らなくても自分のメッセージを発しているからなのか、あるいはメッセージを発しなくてもすでに内面に有しているのか、と分析もいろいろ可能だ。

投書がこうした作業をカットしがち、あるいはカットしているからこそ、「思い切った」メッセージを発することができるのだろうが、40代半ばでもう「若者よ」と書ける「大人」ぶりに感心もする。

こっちはもう「天命を知る」(論語)べき世代に達しているのに、まだまだ未熟で、世の中わからないことばかり。でも、楽しく生きるには大切と思うんだな。
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by walk41 | 2012-05-03 00:02 | ことばのこと | Comments(0)

感性

「ぼくは美術やから、感性でモノをいうんやけど」と、ある中学校校長。校長室で話をしていたときのことだ。

そうならば、どのように児童・生徒をとらえ、判断し、彼らにいかに働きかけるのか、その「正しさ」や「妥当性」、そして「結果」や「効果」はどのようなものと理解したらいいのだろうか。是非うかがいたい。

ひょっとしたら、美術、音楽などの芸術系の教科に限らず、ほかでも、教員が子どもや教室の状況を判断する根拠は、「なんとなく」つまり、感性ではないだろうか。

だって、状況がどうなっているのかを計測するには、変化のスピードが速すぎるし、そもそも、そんな計測器は存在しない。教員は自分の目、口、耳、鼻、皮膚で感じ取るしかない(舌もあるけれど、これは出番がないし…)、それは主観的で、直感的で、瞬間的なものだろう。

かたや、客観的で、正確な学校評価、教員評価、教育評価という人もいるけれど、「できないことはできない」「ムリなものはムリ」という、ある意味で当たり前のことがら議論を組み立てることが大切だ。

そうでなければ、いつまでたっても、「ちゃんとできないのは、意識改革が進んでいないから」、「教員の力量や努力が足りないから」と偉そうに言う「研究者」に騙され続けることになる。「~すべき」という論理に惑わされてはいけない、と改めて感じる。
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by walk41 | 2012-05-02 09:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

点検

財務省が定める基準では、コンクリートの建物の耐用年数は50年とのこと。その一方で、築40年さらに50年を越える橋はおびただしい数に上っており、多くは補修のメドがまだ立っていないのだという(2012.4.30 毎日新聞)。

もっとも、定期的な点検はなされており、それが補修ほか指針の基礎データになるのだが、東日本大震災の際に落ちた茨城県の橋は、わずか地震の1週間前に担当職員によるチェックがあったものの、「異常なし」と報告されていた。

ただし、その方法は、「職員が車の中から見るだけ」(同上)とのこと、いったん事故が起これば、「そんなやり方では、ちゃんとは見れない」と批判を受けることになる。何も起こらなければ、点検すみ、で終わってしまう。

ひるがえって、学校で語られる「児童・生徒観」や「クラスの様子」は、どのような方法で点検された結果なのだろう。たとえば、教員はどれほどの、またいかなる方法で子どもと子どもたちを観察、点検しているのだろうか。またそのやり方の妥当性はどう保証されているのだろう。「そんな感じに見える」というだけではないのだろうか。同様に、いわゆる学校評価論やPDCAサイクル論でも、「点検、そして修正」と重要性が叫ばれるが、それはそもそも、どれほど可能なことなのだろうか。アンケートによる「意識」調査で、何がわかるのだろうか。

「点検」に限らないけれど、言葉が独り歩きをはじめると、そもそもどんな具体的なことなのかが忘れられてしまいがちだ。学校での活動についても、すぐに言語化しないで、「わからなさ」を担保するような態度が求められる、といっそう感じる。
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by walk41 | 2012-05-01 10:32 | ことばのこと | Comments(0)

学校園

Baden-Württemberg州「農耕地域と消費者保護」省(Ministerium für Ländlichen Raum und Verbraucherschutz)および文部省

春の訪れ、学校園(Schulgartenarbeit)活動に利用を

「栄養のバランスを欠くのは、小さな子どもにとって重要なことである。この点で人は食料品とその由来について知らなければならない。新しい教材、"学校園(Schulgarten)における教科と結びついた活動"において私たちは、 学校園での活動と子どもたちの日常の食経験をつなげようとしている。新たなことは、中等教育段階に教科のテーマにこれを据えたことである」とBonde消費者大臣はStuttgartにて述べた。教員への教材としてはすでに、シリーズ「環境教育と持続性」ができあがっており、学校の日常において、良く選ばれた実践例を通じて、持続的で責任を意識したやり方を学ぶことができる。これにより、国際連合「持続的発展のための教育の10年間」が生活の中の栄養を重点テーマにすることで実現できると、文部大臣Gabriele Warminski-Leitheußerは話す。

新しい教材は、写真を合成して、食料品のもっとも重要な内容を挙げるとともに、それらを深めるための多様な可能性を示している。この教材は、いわば、ギムナジウムでの生物の授業に、ハーブの重要なオイルの結合点を提供する。すなわち、生徒たちは季節にあった食べ物を学校園から収穫して、たとえばベリー系や根菜類など、野菜スープの材料にすることで、既製品と比較することができる。あるいは、蜂蜜とハチというテーマでは、すでに成功例が示すように、学校園は1年を通じて学ぶことができる場所となる。

「学校園は、健康や依存症、あるいは自然物の収穫と加工に関して、現実に近い知識を得る上で理想的な場所です」とBonde大臣。こうしてあらゆる意味で自然を経験し、つなげることができる。すでに、Baden-Württemberg 州の全学校の約40%は、学校園または自然の学校フィールドを持っており、今回の教材と合わせて、潜在力をいっそう活用し、拡大する。

同教材は、消費者省と文部省が共同して2巻に編集し、経験豊かな教員たちが作業に取り組んだものである。持続的発展の目標は、国際的な公正、経済的発展、そして文化的な基本価値、個人の自己実現を含む自然と環境保護の問題と結びついている。持続的発展のための教育上の次元では、知識とりわけ実際的な社会的な能力を高め、個人的な責任を促すことで、関わり方を変えていくことにある。

パンフレットはインターネットサイトからダウンロードあるいは紙媒体でも無料で注文できる。

文部省ニュース 29.04.2012
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不勉強でさっぱり知らないのだが、日本では、食育と喧伝する一方、学校で植物を育て、観察、収穫するような機会はどれほどあるのだろうか。緑のカーテンと称して、ゴーヤを育てて最後に食べるというのは聞いたことがあるけれど。

いずれせよ、実際的で子どもたちの行動を変えていくためには、座学ではなく、自分の手を使って、目で見て、耳をすませて、鼻で香りを確かめてという活動が不可欠なようだ。その中にあって、これまで支配的だったスコープとシークエンスという軸で、実際から切り取ってきた「教科」は、今後どんな位置を与えられていくのだろうか。さらに、「教科」を単位に免許状を得ている教員の資質や能力の中身は…。
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by walk41 | 2012-05-01 08:14 | ドイツのこと | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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