学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

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あかん

小学校講師、教室で女児の尻を触った疑い
 教え子の女児の下半身を触ったとして、京都府警は20日、京都府京丹後市立小講師、(31)を強制わいせつ容疑で逮捕した。
 調べに対し、「女児に膝の上から下りてもらおうとした際、たまたまズボンの中に手が入った」と容疑を否認している。発表では、同容疑者は2月1日午後1時過ぎ、低学年の担任クラスの教室で昼休み中に女児を膝の上に座らせ、ズボンの中に手を入れて尻を触った疑い。
 5日に女児が両親に打ち明け、翌6日、両親が府警に相談して発覚した。同容疑者は「ドリルの採点中、女児が自分から膝に乗ってきた」と供述しているが、女児は「無理やり座らされた。これまで同じような被害を何度も受けた」と話しているという。府警によると、同容疑者は4年前から同校に勤務。現在、体調不良を理由に休暇を取っているという。(2013年2月20日 読売新聞、一部改変)
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この事案は、私のところで進めている「わいせつ行為」研究の対象に含まれることになる(事実だったと仮定して)。教員による発生比率がこれで高くなるかしらん。

先のブログ記事にもらったコメントにちょうど返信したところだが、職業をjob ではなく(この単語を語源辞典で引くと、"piece of work" (contrasted with continuous labor)と、継続的な仕事と対比して、ちょっとした仕事という意味で16世紀半ばに始まったらしい)calling、呼ばれるものとして職業を考えるならば、少しは構えも変わって来るように思うのだけれど。

つまり、問いの方向を変えるのだ。「何をしたいか」ではなく、「何をすることが求められているか」と。なのに、世はキャリア教育や自己実現やもんなあ。ちゃうねん、スタートを自分に置くんとちゃう。「神」や「世間」や「ご先祖」に指し示してもらったところで働くんや。向きを変えなあかん。

それにしても、「あかんもんはあかん」。しかも地元の京都でなんて。 
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by walk41 | 2013-02-20 21:55 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

宝くじは人を幸せにするか

世界の雑記帳:宝くじ当せんの米兄弟、「浮かれて」薬物所持ばれる=警察

[カンザスシティー(米カンザス州)19日 ロイター] 米カンザス州の警察は、同州の宝くじに当せんした兄弟が、賞金で覚せい剤やマリフアナを購入し、誤って住居を爆発させた可能性があるとして捜査を行っている。
 同州ウィチタ警察の警部補によると、爆発は15日夜、兄弟の1人が薬物の吸引パイプに使うバーナーの燃料を詰め替えようとしていた時に発生した。兄弟は当時、宝くじの当せんを祝っていたという。
 警部補は「2人がやっていたことは違法行為」だとコメント。兄弟は27歳と25歳で、兄は負傷して病院で治療を受けたが、18日に退院した。弟は薬物所持の疑いで逮捕された。2人が受け取った宝くじの賞金は7万5000ドル(約700万円)。(毎日新聞、2013年02月20日)
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まとまった研究がきっとあると思うけれど、宝くじに当たると人は幸せになるかという問いについては、おそらく否だろう。2005年4月下旬、岩手県一関市の42歳女性が2億円の宝くじを当てた後に行方不明、元交際相手が借金の返済に充てるため女性を殺害した事件だった。2013年1月には、当選したゆえとは言えないが、米イリノイ州シカゴ在住の男性が、スクラッチくじで100万ドルを当ててからわずか1か月後に死亡、のちに死因がシアン化物による毒殺だったと発表された(米紙Chicago Tribune)。

「幸せ」になれるはずと、人気のある売り場では徹夜組すら出るほどの宝くじだけれど、その一途な想いが不幸の始まりかもしれない。ちょっと考えてみよう。お金持ちになると急に「友だち」が増える、縁遠かった親族もやってくる。奢る支出が増えるだけでなく、無心話や相談事にも対応しなければならなくなる。疲れる。思わぬところで嫉妬の対象になる、恨みを買う。罵詈雑言を浴びせられる。勢いよい消費の結果、管理しなければならないものが増え。引っ越ししなければならないかもしれない、泥棒に備えてセキュリテーを頼まなければならないかもしれない。こうした中で健康にいられるかどうかは、はなはだ心許ないようにも思う。さてどうだろうか。

当たり前と思うことこそ大いに疑うこと、考えて頭がちょっと「筋肉痛」になるかもしれないけれど、その意欲と体力が問われているのだと思う。
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by walk41 | 2013-02-20 21:14 | Comments(0)

校長を評する

引き続き、ドイツの校長先生の話題。

ドイツの中西部、ノルトライン-ヴェストファーレン州のケルンにある、JOHANNES - GUTENBERG 実科学校[5-10学年の6年制中等学校](http://www.rsgodorf.de/)は、1969年に創設された。

歴代の校長は、1969-1980が Herr Herbert Hunze, 1980-1997が Herr Siegfried Born, 1997-2008が Frau Wilma Wojtczak, であり、2008.10からは2000年からこの学校に勤務するHerr Michael Roske (数学、情報、化学)が校長に就いている。

英語と生物学の教員でもあったFrau Wilma Wojtczakが校長を退任し、州地方局の学校管理官(Schuldirektorin)に異動となったあとの2008年11月、学校でお別れ会が開かれ、ピアノ、コーラス、合奏、会食が行われた。以下、副校長であったMichael Roskeによる挨拶の一部を紹介したい。
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Wilma Wojtczak校長のお別れ会にお越しくださった学校後援会のみなさん、同僚そして元同僚のみなさん、ご臨席くださったケルン実科学校の校長ほか近隣学校の校長、地区市長、地区局、学校管理局、地区管理官、そして本校と校長を近しく感じてくださっているみなさん、そして学校みんなが準備したお別れ会にいらっしゃったWojtczak氏に、心よりご挨拶を申し上げます。

若い教員だったとき、私はこんな経験をしました。当時、勤めていた学校の主任(Dezernent)がその時の校長を褒めて次のように言ったのです。「彼女はいい仕事(Job)をする!」と。当時の経験豊かな校長-Wojtczak校長ではありません-にはとても刺激を受けました。私は当初、彼女の刺激をさっぱり理解できませんでした。良い仕事-この決まり文句はよく知られていますが、長くこの職に就く中で、とりわけ貴方Wilmaと一緒に仕事をする中で、なぜ以前の校長がこの言葉にふさわしくないかがわかるようになったのです。

仕事という言葉で、人は比較的短い期間の活動分野、狭い範囲の明確な課題あるいは具体的な課題を素早く遂行することを考えます。学校を経営するとは、この意味において仕事(Job)と言えるものであり、短距離で繰り返し回るマラソンのようなものにあてはまるでしょう。学校経営とは組織だけのことではありません。良い学校経営とは、イノベーション(革新)、たくさんのアイディア、確信、実行能力、交渉、貢献意欲によって示されるのです。

しばしば学校は企業と比較されます。学校の大きさと比べられるほどの、たいていの企業では、材料が機械で形づくられますが、学校では人間が人間を通じて形づくられるのです。教育は決してJob ではなく、天職(Berufung)です。

学校を経営するとは、まさに頭脳と心(マインドとハート)を必要とします。Wilma貴方はたくさんのマインドと大きなハートで取り組みました。関わり方と力強い意欲を結びつけた貴方は、私たちのもっとも愛すべき、評価されるべき校長であり、同僚でした。

なかでもすばらしい経営だったのは、学校の増築に関わることです。Wojtczak校長は決して放っておかず、常に関わりを続けました。それによって、私たちの学校の校舎がこんなにも楽しげで明るい外観となったのです。また、学校プログラムにも、校長は配慮豊かに取り組みました。こうして学校は、共同的な学習形態と個人的な促進が単なる決まり文句ではなく、現代的な学習の場へと発展したのです。

Wojtczak校長は、教員、保護者、生徒たちと一緒にすばらしい働きを見せました。彼女は常に人々を動機づけ、活発な学校生活へと誘いました・また彼女は、同僚の個人的な問題にも耳を傾け、助言を与えてくれ、また自分の出来るサポートをしてくれたのです。

彼女はまた葛藤を排除しようともしませんでした。いつも彼女は、生徒や同僚がよりよくなる可能性を示そうとしており、常に同じ調子で現れ、問題が深刻になることを抑え、争う者がすぐに仲直りするように心を砕きました。

彼女は学校にいるすべての人に対して自立的であることを期待していました。彼女はよくEVA[自身の責任ある活動]の原則を話したものです。

ローマ時代の哲学者、セネカがすでに述べているように、「自分の先を行く人と一緒することを望むように、自分より遅い人たちと一緒に行きなさい」、これは学校における貴方のモットーです。だからこそ、貴方は学校のすべての保護者、生徒、同僚から好かれたのです。この会で演奏した音楽は、私たちがどれほど貴方がいないことを残念に思っているかを示すものです。

すでに50日間、あなたは地方局の仕事に就いており、多くの話から貴方がすでにとてもうまくこなせていることを知っています。貴方はすばらしい業績を残した先任のRolli の仕事を引き継ぎましたが、平等に関する問題、終日学校の授業や外的な査察などにおいてすでに有能な対応ができています。他の学校の同僚との話し合いからも私は知っています、貴方と一緒に仕事をすることがいかに望まれるかを。私が貴方と初めて業務について話し合ったとき、丁寧さではなく、確信を与えてくれたことに私は大きな拍手を送らせてもらいたいと思いました。私たちは貴方の新たな任務をお祝いし、こんなにも優秀な同僚を得た地方局の学校部門にお祝いを述べます。

貴方の学校経営に心から感謝しています。いつでも学校にいらして、あるいは電話やメールをください。私たちが学校の課題(Aufgabe)を仕事(Job)ではなく、貴方の精神で続けていくことを約束します。
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いかがだろうか。退任の際、学校関係者にかくもお祝いをしてもらえる校長は、日本の公立学校でどれだけいるだろうか。また、こんなにも副校長に語ってもらえる校長であることは、いかに可能だろうか。かたや「校長としての信念」や「リーダーシップ」が必要と喧伝されているのに。そうしたものが育ち、発揮され、認められる機会はどれほどあるのだろうか。

たとえば10年間はこの学校から動かない、とすること。そのためには、
①「春から校長になることは決まっているけれど、どの学校かわかるのは新年度の始まる数日前なんだ」といった、およそ笑えない話をなくし、各学校を単位に採用、異動を行うこと、
②60歳定年ならば、おそくとも50歳までには校長になること、
を原則にしなければならない。

このアイディアが採用されないのはなぜだろう。校長会が反対? あるいは教育委員会としては嫌? どんな不都合があるのだろうか。そしてそれは誰のためなのだろう。ぜひ議論したいと思う。
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by walk41 | 2013-02-20 13:23 | ドイツのこと | Comments(2)

内罰的・無罰的・外罰的

がっかりするような話に接した。詳細は記さないが、本人にとって望ましくない結果を、他人のせいにする、外罰的な発想と行動をとる人がいるということだ。

ある事実が起こる。それは自分にとって不快なことである。ここに二つの道が現れる。一つは内罰的あるいは無罰的、つまり、そうなったのは自分の至らなさが原因であり、今度そうならないように反省しようとする、あるいは、運が悪かったのだから仕方ないと諦めることのできる方向だ。

これに対してもう一つの道は、外罰的、原因や背景を他者に帰属させようとする方向である。こうなったのはあいつが悪い、きっと自分のことを嫌っているからこんなことをするんだ、高じれば、こんな風に仕組まれたんだ、と陰謀説にすらなりうる、憎悪の塊になる。

さて、どちらが正しいのだろうか。ある事実が自分のせいではなく、他者や広く外界からもたらされる可能性はもちろん排除できない。そういうことも確かにあるだろう。しかし、仮にそうだとしても自分ではどうしようもない。なぜなら、それは自分の力の及ばない他者やいかんともしがたい外的条件によって生じているのだから。いくら怒っても仕方ないのだ。夏が暑いからといって太陽に文句を言う人はいない。人間が相手だから、何とかしよう、何とか変えられるはずだ、変わらないのは相手が悪いからだ、と虚しい思考を循環させるのがオチである。そもそも、怒りを発することはそれだけで健康を害し、得なことはない。「笑う門には福来たる」の正反対である。そこまで他者を攻撃したくなるほどに、合理化という防衛機制が働くのだろうか。

これに対して、内罰的や無罰的な態度は、その何割かはわからないけれど、自分に帰属する原因や背景からこのことが生じた、と振り返ることができる。あるいは、「天のみぞ知る」と諦めの境地に至れるかもしれない。諦念はそのままを受け止めるということだから、それでよし、また、自分に遠因を見つけることができるならば、これは自分の物の見方・考え方、そして行動なのだから、変えることができる。現実味がある。自分の主人公は自身のはずなのだから。そして、これらが変われば、次は違う結果を導くかもしれない。こうした機会に恵まれたと考えれば、なかなかお得な話である。

このいずれの道を選ぶべきか。もちろん好みの問題でも構わないのだけれど、自分と周りの人が楽しく、生きる喜びを感じられるのは、明らかに後者である。仮に、「より良く生きようとする」ための知恵を持ち得ていることが「賢さ」とするならば、前者を選ぶ人は「頭が悪い」のであり、人間と社会を理解していない無教養なのである。

つくづく感じさせられる。人は長く生きれば賢くなる訳ではない、むしろ長く生きて賢くなければ、周りにおびただしい迷惑をかけるということを。「暴走老人」にならないよう、くれぐれも自戒しなければならないと思う。
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by walk41 | 2013-02-19 22:25 | Comments(0)

校長は長くいてこそ

ドイツの中西部、フランスと国境を接するザールラント州の新聞記事から

その当時、すでに正しい職業選択をしていたが、教員としての41年間を終えるBernd Muchaは、「きょうもう一度、職業を選ぶとするならば、再び教員になりたい」と言う。「知識を伝え、教育的影響を子どもに与え、保護者や同僚とパートナーとしての関係を持てたことは、いつも大きな喜びでした」とLudweiler-Lauterbach基礎学校の校長は、満ち足りた教員生活を振り返る。夏期休業前に彼は、正式に定年を迎えるのだ。

同僚や子ども達は、彼にとっていつも特別の関心事だった。彼は、教育者の強みが何かを知り、それでいかに学校を良くすることができるか、あるいはいかに同僚が関わるかに、とりわけ腐心したのである。校長としての26年間、Bernd Mucha は最初の10年間は、当時のWadgassen基幹学校にて、そして16年間はこの基礎学校で勤めた。

同僚関係における彼の手腕はすばらしく、職員がオープンで新しいアイディアを互いに出し合い、協力的でありと、副校長であるStefanie Zieglerの模範となるものだった。Bernd Mucha が Ludweiler基礎学校に着任して1年後、後援会が設立され、同会と学校との協力は深いものとなった。ブラスバンド部やコーラス部も創設された。

2005年、Lauterbach基礎学校が閉校に直面した学校改革において、Bernd Muchaはザールラント州の学校の歴史に1ページを書き加えた。 Völklingens市長Klaus Lorigの主導もあって、2007年にLauterbachは2つの言語教育の場となり、最初のバイリンガルクラスが設けられた。ドイツ語とフランス語の基礎学校として、現在14クラスにおいて2カ国語が教えられている。
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何度となく主張しているが、同一校に3年勤務するかどうかくらいの長さで、校長に学校改革や改善を求めるのは基本的に無理だ。「3年もあれば十分」という、ごく一部の優れた校長を引き合いに出しても仕方なく、全国およそ38000校の初等・中等教育学校の校長の、おおよそに当てはまる話でなければならない。

50歳代も半ば近く、あと5,6年で定年を迎える立場の人に、「大いに腕をふるって」と鼓舞しても、たいていは空しいものだろう。ドイツの教員の定年は65歳の誕生日を迎える前の年度終了時だから、先の校長は38歳で校長になったはず。このくらいの若さがあってこそ、エネルギッシュな活動が期待できるのではないだろうか。

校長になる年齢、同一校での勤務年数、あるいは性差など、基本的な属性を変更できないままに、「校長のリーダーシップが重要」と旗を振っても仕方がない、と説明すること、その上で、「できそうなことは何か」と提案することこそ、研究者の役割と重ねて思うのだけれど、みなさんはいかが思われるだろうか。それとも、無理を承知で「がんばれ」と言ってもらうほうが元気が出るだろうか。

なお原文は以下の通り。Wochenspiel 20130219
LUDWEILER „Wenn ich heute noch einmal vor der Berufswahl stände- ich würde wieder Lehrer werden“, ist sich Bernd Mucha nach 41 Jahren als Lehrer sicher, damals schon die richtige Entscheidung getroffen zu haben. „Mir hat die Aufgabe, Wissen zu vermitteln, erzieherisch und pädagogisch auf die Kinder einwirken zu können und partnerschaftlich mit Eltern und Kollegen umzugehen, immer Spaß gemacht“, blickt der Schulleiter der Grundschule Ludweiler-Lauterbach auf ein erfülltes Lehrerleben zurück. Vor den Sommerferien wurde Bernd Mucha offiziell in den Ruhestand verabschiedet.

Ein menschlicher Umgang mit Kollegen und Kindern waren ihm stets ein besonderes Anliegen. Ein besonderes Händchen hatte er dafür zu erkennen, wo die Stärken der Einzelnen liegen und sie so zum Wohl der Schule richtig einsetzen zu können, wie seine Kollegen ihm bestätigen. Seit 26 Jahren ist Bernd Mucha Schulleiter, die ersten zehn Jahre an der damaligen Hauptschule in Wadgassen und seit 16 Jahren an der Grundschule Ludweiler. Seine Aufnahme im Kollegenkreis war sehr gut, das Kollegium war aufgeschlossen und neuen Anregungen gegenüber offen und die Zusammenarbeit mit meiner Konrektorin Stefanie Ziegler vorbildlich. Ein Jahr nach seinem Amtsantritt in der Grundschule Ludweiler wurde der Förderverein gegründet und eine Zusammenarbeit mit den Ludweiler Vereinen wurde vertieft. Eine Bläserklasse mit Karin Ahr und ein Singkreis wurden gegründet.

Schulgeschichtegeschrieben

Saarländische Schulgeschichte schrieb Bernd Mucha mit, als nach der Grundschulreform im Jahr 2005 die Grundschule Lauterbach vor der Schließung stand. Auch auf Initiative von Völklingens Oberbürgermeister Klaus Lorig wurde Lauterbach ein bilingualer Standort. 2007 entstand die erste bilinguale Klasse in Lauterbach. Heute werden an der deutsch-französischen Grundschule Ludweiler-Lauterbach von 14 Klassen zwölf zweisprachig unterrichtet. red./dos
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by walk41 | 2013-02-19 11:46 | ドイツのこと | Comments(0)

留年(原級留置)

学校政策 バーデン-ヴュルテンベルク州文部大臣Stoch が原級留置に反対(dpa Deutsche Presse-Agenturニュース、20130217)

新たに文部大臣についた社会民主党のStochは、原級留置に関する議論で改革の意志を示した。「留年の不安は生徒にとって意味ある学習への動機づけになっていない」と同大臣は語る。この点で同大臣は、ニーダーザクセン州の社会民主党と緑の党の連立政権が、中期的に留年を廃止する意向を示したことを支持し、激しい反応があることも懸念した。南西のこの地においても反対する逆風が吹くものと見られる。

同大臣は、緑の党と社会民主党の新しい州政権が導入している「共同体学校(Gemeinschaftsschule)」にはすでに落第がなく、ふさわしい前提条件を伴わせた上で、これを他の学校種にも広げたい考えである。「私たちは、すべての学校種において、すべての生徒の学校修了ができるだけ可能となるように、個別の学習を打ち立てることをサポートしたい」。そこでは留年は、もはや不要という。

これにたいして自由民主党議員団長のHans-Ulrich Rülkeは、「まったく幼稚な世界観」と批判する。この策は生徒のやる気を失わせる。州政府はすべての子どもに、「出生証明と一緒に、まさにそのまま価値判断なしに、大学入学資格(Abitur)を渡そうとするものである」と。

Rülkes の同僚、同党の Patrick Meinhardt は述べる。「努力をまったくといってよいほどしない学校があることを明らかにしなければならない。いずれにせよ留年はなければならない」。ただし、成績の悪い生徒に夏休みのあと(年度が終わったあと)の試験で次の学年に進めるチャンスは与えられるべきとする。「もし州政府がそうしたコースのための予算をつもりしていないのならば、それはまったく文部省の大衆迎合である。」

教育関係団体 (VBE) は、好かれる学校(die Schule der Beliebigkeit)を、動機づけのない、やる気のない生徒は仕事に就けないという結果を導きかねない。早期に留年をされるべきという意見は基本的に正しいだろう。ただし、そのためには教員をさらに雇用しなければならない。もっとも州政府はその方向を打ち出してはいない、と意見を述べている。

Stoch はニーダーザクセン州の文部大臣、Frauke Heiligenstadt (SPD)の路線に沿った明言をしている。同大臣は、連立政権が「今日ではないが明日には実施されうる」一定の方向を定式化したと述べており、政権合意には留年について「個々のサポートを通じて不要なものと」すると記されている。

ドイツ連邦全体では、すべての生徒のおよそ2%が毎年留年している。ここ数年、留年を完全に廃止あるいは部分的に廃止することについては州による違いが大きい。たとえば、ハンブルク州では2010年から留年が廃止された。現在、1~9学年にこれが適用されており、2017年までにはすべての学年に留年生がいなくなることになる。

Stoch の見方によれば、「留年は相当の心理的負荷をもたらし、青少年の自信を奪ってしまう」。それは結局のところ、学校で励もうとするための、いわゆる自尊心を低めてしまう、と述べる。
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とても興味深い。地球のほぼ裏側でも、平等と努力、あるいは集合・集団と個との関係と、日本と同じ構図で議論されているということが、である。

日本では、年齢主義と課程主義が「一致するはず」という公然の虚偽がまだ通用しているので、とくに義務教育段階ではどんな結果であっても留年(原級留置)はなく、飛び級も行われていない。留年が法的には認められているにもかかわらず、である。「9年間学校に通ったら9年分の勉強が身についたはず」と見なされているのだ。著しい場合には、「卒業式くらい学校に来いよ」という不登校児童生徒に対する教員の言葉が、美談になることすらある。進級や卒業がいかに軽んじられているかが、よくわかるだろう。

かといって、学校教育を経験する上で経済的・社会的に不利な子どもたちに「努力が足りないから」という烙印が押されることも、フェアとはいえないだろう。「心の傷」も無視してよいとも思われない。ちなみに、大昔、高校中退の研究に携わったことがあるが、100人を超える中途退学者が出ていた学校では、そうすることがカッコイイ、あるいは友だちつきあいの延長と思われるケースもあった。「中退問題をなくすには、もっとたくさん中退すること」という逆説的な結論すら感じられた。

はやり言葉の「質保証」を言うならば、留年はいかにあるべきか。日本でも「伝家の宝刀」状態にしておかず、少なくとも議論すべき段階ではないだろうか。

以下、ニュースの原文
Schulpolitik Kultusminister Stoch ist gegen das Sitzenbleiben
dpa, 17.02.2013 15:16 Uhr

Stuttgart - Der neue baden-württembergische Kultusminister Andreas Stoch (SPD) hat sich in der Debatte über das Sitzenbleiben von Schülern auf die Seite der Reformer geschlagen. „Die Angst vor dem Sitzenbleiben ist keine sinnvolle Lernmotivation für die Schülerinnen und Schüler“, sagte er am Samstag der Nachrichtenagentur dpa. Damit unterstützt er die rot-grüne Koalition in Niedersachsen, die mit ihrer Ankündigung, das Sitzenbleiben mittelfristig abzuschaffen, für heftige Reaktionen gesorgt hatte. Gegenwind kam auch von der Opposition aus dem Südwesten.

Stoch erklärte, in der jüngst von der grün-roten Landesregierung eingeführten Gemeinschaftsschule könnten die Kinder bereits nicht mehr durchfallen. Dies wolle er Schritt für Schritt auch an den anderen Schulen durchsetzen, indem er entsprechende Voraussetzungen schaffe. „Wir wollen das individuelle Lernen an allen Schularten ausbauen, um jede Schülerin und jeden Schüler dabei zu unterstützen, den jeweils bestmöglichen Abschluss zu erreichen.“ Dann sei Sitzenbleiben nicht mehr nötig.

FDP: „Völlig naives Weltbild“

FDP-Fraktionschef Hans-Ulrich Rülke warf Stoch ein „völlig naives Weltbild“ vor. Sein Vorhaben wirke sich motivationsfeindlich auf die Schüler aus. Die Landesregierung könne ja jedem Kind „mit der Geburtsurkunde gleich ein - allerdings wertloses - Abiturzeugnis aushändigen“.

Rülkes Parteikollege Patrick Meinhardt erklärte: „Es muss jedem klar sein, dass es keine anstrengungslose Schule gibt. Selbstverständlich muss es auch weiterhin ein Sitzenbleiben geben.“ Allerdings sollten schlechte Schüler die Chance haben, nach den Sommerferien in einer Prüfung doch noch den Sprung in die nächste Klasse zu schaffen. „Wenn die Landesregierung nicht bereit ist, den Schulen für solche Kurse das Geld zur Verfügung zu stellen, ist das ganze Gerede des Kultusministers purer Populismus.“

Der Verband Bildung und Erziehung (VBE) warnte vor einer Schule der Beliebigkeit. Unmotivierte und unlustige Schüler dürften die Konsequenzen ihres Verhaltens nicht erst im Arbeitsleben zu spüren bekommen. Der Anspruch, durch frühe Förderung das Sitzenbleiben überflüssig zu machen, sei aber grundsätzlich richtig. Dafür müssten jedoch zusätzliche Lehrer eingestellt werden. An dieser Stellschraube wolle die Landesregierung allerdings nicht drehen.

Stoch ist mit seiner Ankündigung genau auf der Linie der designierten niedersächsischen Kultusministerin Frauke Heiligenstadt (SPD). Sie hatte darauf verwiesen, dass die Koalition ein perspektivisches Ziel formuliert habe, „das nicht von heute auf morgen umgesetzt werden kann“. Im Koalitionsvertrag sei festgeschrieben, Sitzenbleiben „durch individuelle Förderung überflüssig“ zu machen.

„Erhebliche psychische Belastungen“

Bundesweit wiederholen pro Jahr etwa zwei Prozent aller Schüler eine Klasse. In den vergangenen Jahren haben eine ganze Reihe von Ländern entschieden, das Durchfallen ganz oder zumindest teilweise zu streichen. In Hamburg zum Beispiel ist Sitzenbleiben seit dem Schuljahr 2010 abgeschafft. Zurzeit gilt dies für die Klassen 1 bis 9, jährlich kommt eine weitere Stufe hinzu, so dass es bis 2017 in allen Klassen kein Sitzenbleiben mehr gibt.

Nach Ansicht von Stoch „bringt das Sitzenbleiben erhebliche psychische Belastungen mit sich und nimmt den Mädchen und Jungen viel Selbstvertrauen“. Es sei längst nachgewiesen, dass Schüler durch eine sogenannte Ehrenrunde wenig gewinnen, um in der Schule besser voranzukommen.
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by walk41 | 2013-02-18 11:56 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

校長がかわれば学校が変わる

よく聞く言い回し、このものズバリのタイトルのテレビドラマもあった。

校長が「かわる」は、変わるか替わるのかがちょっと微妙だけれど、いずれであれ、校長がかわることで学校が変わるくらい、学校というのは一定のサイクルを刻む仕掛けやシステムに馴染まないことがわかる。

この言い方に倣えば、「校長がかわっても学校が変わらない」くらいでちょうど、学校は確固たるシステムたりえるのだ。にもかかわらず、日本独自とも思われる定期的な学校間移動によって、校長の同一校在任は3年以内が多数を占める。こんな短い期間で学校が変わるなんてことになれば、さっぱりシステムとは言えないではないか。

つまり、①校長がかわる⇒学校が変わる。学校はごく一部の属人的な影響を強く受けており、そのキーパーソンのあり方に左右されるから、他の教職員のあり方を議論する余地は乏しい。また、前校長の批判を前提にするから、「どの学校でも上手くいく」ことは無理である。②校長がかわる⇒学校が変わらない。学校は校長以外の要素で生成、維持、変化しているから、「こんなリーダーシップが学校を変える」ともなかなか言えない。校長と同様、教職員も数年で入れ替わるから、リーダーシップの所在が必ずしも明らかでない。

いずれにしても、「その場になってみなければわからない」ということが、学校をもっとも説明するように思われる。おそらく、その場その時の巡り合わせの偶然から、「なんとなく」学校は動き、変わったり変わらなかったりするのだろう。その上で、学校を変えたいのならば、教職員を始めとする当事者がおおよそ共通する「物語」を持ち得ること、そこにおおむね依拠して自身と同僚の内省を促すこと、そのために認識上、感情的な状況を捉えられるような能力や働く上の条件を整えること、こんな点に専心するのが良いだろう。

以上のように、どのように学校を捉えればよいのか、という点だけでも、どうすればよいのかを方向づける基本的なテーマが横たわっていることがわかる。これまでも繰り返し述べているように、「机上の空論ではなく、まずやってみないと」という意見には、「やってみなくても、思考実験上すでにわかることがある」と改めて強調したいのだ。
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by walk41 | 2013-02-17 21:16 | ことばのこと | Comments(0)

教育実践から学校を考える

演繹と帰納という認識の方法に即せば、学校は次のように説明される。

まず、演繹的方法(「べき論」)にもとづけば、①学校は公教育の重要なセクターとして国民形成を担っており、基礎・基本ほか精神的・肉体的・社会的な能力を培う場でなければならない。②したがって、学校教職員とりわけ児童生徒と直接に接する教諭は、そうした能力を彼らが獲得できるように、彼らを教え、励まし、直さなければならない。

これに対して、帰納的方法(「ある論」)に拠れば、①児童生徒は子どもながらも、彼らなりの認識・感情・行動の癖や好みがあり、教員の思い通りにいくことを前提にできない。むしろ「反面教師」として真逆の結果を導くこともありうる。②したがって、教育実践とは常に賭けるものであって成功を予定できず、失敗さらには判断が不能なことも一般的なために、どれほどの教育資源をいかに投入することが妥当かがわからず、あくまでも基本的な条件整備(机や教科書があること、中卒よりも大卒の教員が担当すること、1回の授業は100分などにならないことといった)に留まる。学校を通じて国民形成されるという論理は、限定的に有効あるいは勘違いに拠り、多くはブラックボックスに閉じ込められたままである。

学校教育の議論が、いかに現実を説明できるかに価値を置くのであれば、拠るべき方法は後者、帰納的でなければならない。そして、ブラックボックスの中をいかに探れるかを追求するのである。

「頭でっかちの」主張は、どうしても前者に傾斜する。その命題が正しければこの方法は有効だが、人間が作り出した人工的組織である学校を対象にするならば、絶対的な命題を前提にはできない。私たちが持ちうる認識・感覚・情緒によって学校教育の事実を捕まえ、それをあるモデルにしたがい整序だてること、もって、「もっともらしさ」を得ることを通じて「ありうる学校」を描くことこそ生産的だろう。
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by walk41 | 2013-02-17 14:17 | 研究のこと | Comments(0)

DV(ドメスティック・バイオレンス)

斉藤美奈子「甘い社会が見過ごす暴力-阿部政権で一掃は可能か」(毎日新聞、20130214)を読んだ。

「人権を制限し、究極の暴力の否定である戦争放棄に異議を唱える人たちに、暴力を一掃することができるだろうか。矛盾としかいいようがない」で終わる一文だが、この中に、夫婦間・恋人間の暴力、DVにも言及している。

DV(domestic violence)を広く捉えてみよう。domestic は家庭内という意味とともに、国内の、自国の、の意味もあるから(GDP:Gross Domestic Product 国内総生産、など)、自分の手中にあると考える範囲は、いずれもドメスティックと言えるだろう。

ならば、部活顧問による生徒への暴力、暴行はまさにDVである。ある学校の生徒であるはずなのに、その最高責任者である校長さえ口出しするのが憚られるとは、まさに「聖域」であり、大阪市立桜宮高校においては、部活生徒用の寮まで存在したというのだから、他との隔離を促す点で、いっそうDV的になりうる。

「体罰」という名前の暴力に悩んでいる人は、ぜひDV防止のページを見てみよう。「しつけのため」、「信頼関係を確かめるため」、「愛しているからこそ」といった理由で、精神的・肉体的ときに経済的暴力(お土産を買ってこいと言われるなど)を振るわれているかもしれない。

「体罰」ではなく、DVであると言葉を置き換えてみる。すると、新しい見え方がきっとできることだろう。現実が言葉を作り出すのは確かだが、同時に、言葉が現実を生み出しもするのだから。
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by walk41 | 2013-02-16 09:34 | ことばのこと | Comments(0)

研究授業

ある研究授業を見せてもらった。

普段とは違う教室に移動して、壁を取り払ってヨウカン型になった部屋の後ろは、児童数の4倍は優にいると思われる各地からの参観者、この中で「普段どおり」の授業ができるなんて誰が思うのだろうか。また、子どもの背中ばかり見えるようなところに座ったままで、何が観察できるのかしら。目をつむったままの人もちらほら見えたけれど。

私としては、指導案とはちょっと違う流れで、子どもの様子にうまくかみ合わせたり、また敢えてはぐらかしながら、子どもの周りを縦横に歩く、臨機応変で緩急に満ちた授業者の話しぶりと振る舞いを、とても好ましく思った。

説明をしようと黒板の前にやってきたものの、できなかった女の子に「ちょっと休んどいてくれる?」、まだ発表の機会を得ていない子に「秘密なん? 楽しみに置いておくわ」、あるいは、違う説明がなされたあとに、「○○くん、敗北?」と、子どもの間もうまくつなぎながら、飽きさせない時間や雰囲気を作り得たこと、またそれに児童がしっかりと付いてくる様子に、ラポール豊かな普段の学級の様子がうかがえるように思えたのだ。

授業が終わっていわゆる事後検討会、ここにも150人くらいの参加者、いくつもの質問が出たけれど、それらは、なぜあの植物を使ったのか、着眼のヒントとなったのは何か、といった狭義の技術的問題に関わるものと、どこまで教えるのか否かをめぐる問題に二分されるように思った。

後者の問題は、「もっと教えてから子どもに考えさせるべきだったのでは」VS「あのように漠然とした問いかけでこそ、子どもが自由に考えられる」の構図と捉えたが、いずれも、「教える」だけ、あるいは「(真似をすると言う意味ではない)学ぶ」だけではない点は一致しており、残るは程度の問題に思われた。だから、「こうしたらいいんだ」という答えにはどちらにせよ辿り着かない。答えに至らないのだ。「こうも考えられるのでは」「こうしても良かったのでは」という、授業像の収束ではなく拡散である。だから、「より良い授業」の議論は、あれこれ考えることにこそ意味がある。

ちなみに、「もっと教科の基本概念に関わることを教えるべきでは」の意見に対する、授業者の返答が興味深かった。「子どもたちのほとんどは、いくつも掛け持ちをするくらい塾に通っており、基本概念はすでに知っている。だからこそ、そうではない方向から考えさせるために、敢えて曖昧な発問を試みたのだ」と。とても逆説的な話だなあ。

なるほど、子どもたちの状況に即してこそ、内容と方法が決まるという当たり前のことが、ここにも当てはまることがわかる。子どもの様子、クラスの雰囲気あるいはその日のお天気や授業前のちょっとしたハプニングで、授業は大きく姿を変える。授業者もその例外ではない。にもかかわららず、普遍的、一般的、そして法則的な議論を志向しがちな教育関係者の頭の中はいったいどうなっているのだろうか。それっておかしくない? って言うことを恐れているのか、それとも、そもそも変なことに気づいていないのか。

とまれ、授業者のみなさん、お疲れさまでした。
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by walk41 | 2013-02-15 20:11 | 授業のこと | Comments(11)



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