学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

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裏ルール

破ると靴にジャム?「裏ルール撤廃を」と生徒会
 1年生は派手なバッグや靴下は禁止。下級生は一部のトイレしか使えない――。
 校則にはないが、生徒の間で引き継がれてきた学校の「裏ルール」をなくそうと、新潟県胎内市立乙中の生徒会が1年間、アンケート調査や全校討議などを行ってきた。生徒たちは理不尽な上下関係を強いる「悪習」を断ち切ろうと、正面から向き合っている。
 生徒会副会長を務めた3年生の女子生徒(15)は、小学生の頃に同中の裏ルールを耳にした。「守らないと、靴の中に給食のジャムを入れられるらしいよ」。おかしいと感じながら1年以上守ってきたが、「自分が嫌だったことを後輩にさせたくない」と、生徒会役員選挙で「裏ルールの撤廃」を公約に掲げて当選した。他の7人の生徒会メンバーも賛同し、撤廃に向けた活動が始まった。
 1学期は、どんな裏ルールがあるか、裏ルールはあってもいいかを全校生徒にアンケートで問い掛けた。回答のあった120人のうち、99人は「ない方がいい」とし、「快適に過ごしたい」などを理由とした。3年生からも「自分が1、2年の時もない方がいいと思っていた」との回答があった。一方で、19人は「あった方がいい」と答え、「自分たちもやってきた」「今までそれで成り立ってきた」などを理由に挙げた。
 生徒会は朝会で「裏ルールのことをみんなで考えよう」と訴える一方、市内の小学6年生と中学1年生全員が参加する集会でも「真剣に取り組んでいる。小学生の皆さんは安心して入学して」と呼び掛けた。
 生徒会を指導した教諭(43)は「これまで多くの子が嫌だと感じつつ、仕方なく従っていたのだろう。『おかしい』と感じたことを行動に移したことに意義がある」と話す。(深谷浩隆)

 ◆乙中の生徒がアンケートで答えた裏ルール(抜粋)
▽1、2年生(教室は3階)は、3年生の教室がある2階のトイレを使ってはいけない。1年生は、同じ階の2年生に配慮して3階トイレも使わず、1階だけを使う
▽1年生は生徒用出入り口に近い中央階段を使ってはいけない
▽1年生は体操着のジャージーのチャックを開けてはいけない
▽1年生は地味なリュックを使う
▽夏服は、1、2年はベストを着用。2年生はボタンを一つ開けていい
(2013年2月15日 読売新聞、一部改変)
-------------
「つながりを失った子どもたち」と評する論者もいるが、ここでは全く健在のようだ。明文化されてもいないルールが厳然と存在するのだから。生徒たちの社会性は(良くも悪くも)高く、帰属する集団の掟に従うことが自分の保身につながることをわかっている。靴にジャムを入れられてはたまらない。

また、教育側からは「生徒指導」とごく普通に語られるが、そんなことにお構いなしに生徒たちの間で「自治」が成り立っているとも言える。「いかに生徒を指導するか」という話の前に、「そもそも生徒を指導するなど、できるのだろうか」から問いを始めるべきだろう。「『おかしい』と感じたことを行動に移したことに意義がある」と聞く限り、呑気な口ぶりだ。これまでの「生徒指導」は何だったのだろうと、教職員の反省には向かわないのだろうか。

さいごに、いじめ問題に関連して。この裏ルールを守らず制裁を受けた場合、これはいじめになるのだろうか。いじめは正義の発露でもあると、何度となく私は主張しているが、その観点を外してはこの問題にうまく対処もできないだろう、と改めて感じる。「いじめ撲滅」を唱道する論者にうかがいたい。
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by walk41 | 2013-02-15 10:25 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

勉強

前から「つまらんアイディアやなあ、もうちょっと芸がないんかいな」と思っていたこと。どうして、「学年✕10分は家で勉強を」といった、勉強が苦痛になるようなルールを決めたがるんやろうか、学校は。

ただでも、すぐに役に立つ訳ではない学校の勉強(普通教育とはそういうものである)はやる気が起きにくいのに、それを少しでも長くするように仕向けるなどというのは、人間を理解したものとは思えないと感じていたところ、アランの『幸福論』に次の記述を見つけた。

「子供たちを一生怠け者にしてしまう教育家たちがいる。それはただ、彼らが子供たちに、のべつまくなしにやらせようとするからだ。すると子供は、のろのろと勉強する。つまりへたに勉強することになれてしまう。結果は、たえず勉強と混ざり合った一種の重苦しい疲労ということになるだろう。これと反対に、勉強と疲労とを切り離せば、両方とも不快でなくなる。だらだらした勉強は、ただ歩くため、空気を吸うための散歩のようなものだ。散歩しているあいだじゅう疲労している。家に帰ってくると、もうなんでもない。ところが、どんなにつらい仕事のうちでも、人は疲れも感じず気分も軽やかである。そのあとで完全にくつろぎ、最後にぐっすりと眠る」(「労働」1911年)

たとえば、学年にもよるだろうが、「家で1日、30分以上勉強してはいけないが、テストでは80点以上とること」といった、ゲーム感覚を伴うような仕掛けならばどうだろう。勉強を、疲労や苦役と少しでも切り離して捉えられるように思うんだけれど。

「学ぶ喜びを」などと謳いながら、時間を強いるなどとは全く矛盾しているのだから、その上で勉強するのであれば、より楽しくできるように考えなければならない。人間はどうすれば動くか、いわゆる教育実践もまったくの経営活動なのだから。
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by walk41 | 2013-02-14 19:36 | ことばのこと | Comments(0)

これも迷惑行為等防止条例違反

小学校教頭が痴漢「間違いありません」と供述
新潟西署は13日、新潟の市立小学校教頭(52)を県迷惑行為等防止条例違反(痴漢行為等の禁止)の疑いで現行犯逮捕した。

発表によると、同容疑者は同日午後8時20分頃、同市中央区を走行していたバスの車内で、前の座席に座っていた同市の女子高校生の体を衣服の上から触った疑い。女子高生がバスの運転手に被害を知らせ、運転手が110番した。同容疑者は「間違いありません」と供述しているという。(2013年2月14日 読売新聞、一部改変)
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盗撮が、迷惑行為等防止条例違反に該当し、その内訳が不明と思われるために、教員による「わいせつ」行為の発生水準を調べる上で含めることができないと、すでに述べている通りだが、痴漢行為についても同様であることに、改めて気づかされた。

これを含めた比較ができないのか、考えてみたいと思うと同時に、どうしてこうなってしまうのだろうか。いわゆるストレスゆえなのか、酒に酔っていたとも伝えられるが、残念に思う。

教職員のみなさん、とくに一番勤務時間が長いとされる教頭先生、くれぐれも肉体的・精神的・社会的な健康管理に留意してくださいね。とても、もったいないことだから。
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by walk41 | 2013-02-14 13:40 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「の」の遣い方は難しい

毎日新聞記事、「長野・ストーカー」(20130212)

「捜査本部は、…林道に止まっていた車の中から見つかった遺体が、○○さんと同居する叔母の元交際相手の30代の男と確認した。」

一読して意味がおわかりだろうか。遺体と○○さんとの関係は? 叔母って誰の?

思うに、まず、「の」が3つも遣われているのが拙いのでは。叔母「の」元交際相手「の」30代「の」男、と修飾が重なり、くわえて叔母、元交際相手と、誰との関係が不明確な単語がつなげられているから、いっそうわかりにくい。

たとえば、次のように書いてはどうだろうか。

「捜査本部は、…林道に止まっていた車の中から見つかった遺体について、○○さんの叔母が以前、交際していた30代の男と確認した。」

一度、「の」と書くと、どうしても「の」を続けてしまいがちなので、「が」に切り替えて文の調子を改めるのが一案かな。

とまれ文章は一生修行ものですね。大いに励みたく思います。
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by walk41 | 2013-02-13 08:42 | ことばのこと | Comments(0)

ドイツ語?

オーストリアの学校教育について、勉強を始めている。

彼の地の初等教育(1~4学年)を見ると、宗教、事物教育(Sachunterricht)、「ドイツ語」、数学、音楽、芸術、技術、被服、運動・スポーツ、が時間数の決められた必修科目、そして、外国語と交通教育が学校裁量の認められた必修科目だ。これらの他に選択科目もある。

ここがドイツならば、Deutschをドイツ語と訳して良いけれど、オーストリアではそれでよいのだろうか。

その一方で、たとえば「1月」はドイツ語のJanuarではなく、Jännerと綴られる。これは、オーストリア語と言ってよいのかな。

国名と言語名が一致しなくても構わない、また独自の言葉もある、ということは、方言みたいなもの? 方言と外国語はけっこう近いのかもしれない。
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by walk41 | 2013-02-12 18:40 | ドイツのこと | Comments(0)

芯の通った学校組織

大分県教育委員会が公表している、「芯の通った学校組織」推進プラン。

学校がいかに目標(芯)の通った組織となるべきかが述べられているが、これがより実効するために、どうすれば目標が教職員全体のものになるかを考えてみたい。

学校の業務が職員一人ひとりに委ねられる個業性に富み、それぞれの授業や学級で「出たところ勝負」な対応を余儀なくされることは明らかだ。なぜなら、校長がいかに目標を掲げようとも、あるいは教員がそれに沿うように励んでも、児童・生徒という学校には不可欠でありながら、学校の教育目標実現に必ずしも協力的ではない存在が認められるからだ。また、彼らは「児童・生徒」と一枚岩で捉えることができず、まさにケースバイケースの、授業ごと学級ごと、あるいは年度ごとに多様である。このために、短期間の意思決定が連続するのが実際的であり、数年間を跨ぐような目標設定は必ずしも妥当と言えない。

その一方で、教職員は個人では仕事をすることができない。学校やその設置者がいわば自分の後ろ盾にいてこそ、業務に就くことができる。これは組織人、つまり教員であることを意味しており、決して教師ではないのだ。文部科学省をはじめ、「教師教育」という言葉も遣われているが、その不適切さは明瞭である。制度的・組織的に教師なる人物は存在せず、観察されるのは、教諭、教職員、職員、教員なのだから。学校は、教室や体育館などの施設を誰かに貸しているのではなく、学校の名前において、組織構成員である教職員の業務を保障しているのである。

つまるところ、教職員とくにその最大数を占める教員は、一方で個々の児童・生徒に対応しつつ、いわば最大公約数的に学校の目標達成に努力する位置を与えられる。この両者は一致しない場合もあり、前者に偏ると「マイ・ルール」で暴走する教員を生み出すことに、また後者に偏ると、官僚制の逆機能が生じて「個に応じた指導」の原則と葛藤するといった、すぐれて両義的(ambivalent)なのだ。

この特性を踏まえつつ、目標が構成員のものになるためには、風通しの良い風土や雰囲気を生み出すこと、すなわち互いに認めあい、批判しあえる素地を学校に作り出すことだろう。「見て見ぬふり」をなくし、年長者優位の構図もなくし、論理的・感情的に各々の考えと思いの行き交う場を、職員室ほかで生みだすようにコミュニケーションを交通整理すること、これこそが学校管理職の役割である。

学校の各状況を持ち寄り、議論し、達成しうる目標に向けた修正や評価を含めつつ、構成員の満足や成就感を得ること、そして、来年度もこのメンバーで仕事をしたいと思えるようにすること、これでこそ、芯の通った学校組織だろう。多少の辛口も互いに聴く耳を持つこと、何より思っていること、感じていることをより正直に表出できる学校であること、著しい自己抑制から解放させるような「やりがいのある学校」づくりが、目標の達成という結果を導くのである。
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by walk41 | 2013-02-11 23:34 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

相手次第

ある学生が卒業論文でM.Buber(1878-1965)の"Ich und Du"(『我と汝』1923)を取り上げた。査読をしたが、十二分に記述できていたことに関心したし、私も「我-汝」と「我-それ(Es)」との関係についてより整理された。勉強になった。

大学でもシラバスを事前に入力することが求められ、以前の職場ではいつぞやの学長の「シラバス通りの授業をしているか確かめる」と、およそ人間を理解しているとは思われない発言に接したこともあるが、こんな問題の解き方をすでに久しく前に思索、表現していた人がいたのだなあ。

教育-学習という関係が、教えられる側の主体性を無視できない限り(教えられたとおりになることに価値を置くのではない限り)、教える側は教えられる側の彼らに出会う前に、教える内容と方法を定めることはできない。

なぜなら、教えられる側(学ぶ側)が教える側と教えられる内容を受け止めて初めて、教えられる(学ぶ)が成立するのであり、出会う前から相手に受け止められることを前提にはできないからだ。

このことは、教える側にもあてはまる。教えられる側をはたして自分は受け止めることができるのかどうかは、出会ってみなければわからない。つまり、何を教えるのか、あるいはそもそも教えることができるのかすら、出会ってからようやく考えることができるのである。

「我-それ」という関係ならば、相手の都合に関わりなく自分のあり方、動き方を決めることができる。石を割る、木を削る、動かないか動きがゆっくりした対象ならば、制御するのは容易であり、計画も立てられる。

これに対して「我-汝」は、相手の様子がわからなくては計画の立てようがないし、また相手は変化が激しく安定せず(とくに小・中学生はガサガサと落ち着かない)、さらに接する自分そのものが相手に影響を与えてしまう(「カッコイイ」「ダサい」「ウザイ」-どう思われるだろうか)ために、対象として確定するのがすこぶる困難なのだ。

相手も同様である。自分がどうあるかは近くにやってくる相手に左右されるし、教室で考えれば、教員よりもクラスメイトとの関係がより重要になるから(何しろ、座る場所が決められて自由に動けず逃げようがないのだ)、「こんな子」とラベルを貼られても(「見とり」)困る。違う学級だったら違う様子を見せるのだけれどな。

こんな相手次第の世界に、学校は満ちあふれている。そんなところでPDCAサイクルを回すとか、効果的な教育実践と銘打たれても、実際には無理な話なのだ。だから、学校評価や教員評価はどうしても二重帳簿、つまり公然の秘密が横行することになる。学校教育の可視化や数値目標といった発想と仕掛けは、教育委員会も巻き込みながら、校長はじめ教職員を嘘つきにするのである。
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by walk41 | 2013-02-11 12:26 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

きれいでした

休日気分の写真をもう一枚。

この週末、観光客が殺到したため、将棋倒しの危険があると上映が中止になった旨、報じられました。今年の札幌雪祭りの雪像のひとつ、開拓使によって建設された西洋ホテル「豊平館」でのプロジェクションです。

この時はさして人もおらず、ゆっくり楽しめました。数回、見ましたよ。雪像にプロジェクタの光と音楽、世界初の試みとのことで、日頃のあれこれの雑念を忘れるのに、十分なパフォーマンスでした。

「この頃、榊原はサボっているのでは?」とのご推察、おっしゃる通りです。でも不思議なことに、こうした時間を過ごすことで、うまく仕事も進むように思います。あまりシャカリキにならないことで、スムースな手順を思いつき、またちょっと新しいアイディアも生まれやすいように感じるのです(^^;)

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by walk41 | 2013-02-10 22:34 | Comments(0)

雪国の方、お疲れ様です

ハードな議論ばかりでは何ですから、ちょっと違うものも。

先日、札幌の街中で見た、私には新鮮だった看板です。この他、融雪のための小さな砂袋を収めた箱が「ご自由にお使いください」と交差点付近に置かれていたのも、印象的でした。

「あるはずのもの」を見に行くのが旅行かもしれませんが、「あるとは思っていなかったもの」を見つけること、つまり、自分がちょっと異質であることに気づけるのも、旅の楽しみです。

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by walk41 | 2013-02-10 13:40 | Comments(0)

学校教員が育つということ-いただいたコメントへの返信(2)

再びコメントを頂戴した。ドイツのソーセージとビールを愛するEulenspiegelさんからだ。

>私が考えておりました「実習」は教員免許を取得した後にできるだけ現場で研鑽を積めばよいのでは、ということです。ただ、あちこちの学校で何年間かというのは、お医者の仕事内容との比較でご指摘いただいたように、教育の場では不適当ですね。

ならば例えば、教員免許を取得した後に赴任する予定の学校で(せめて何か月間かの)研修を課すというのはいかがでしょう…教員としての身分であれば(学費を伴わず、大学の管理下でなく)おのずと本人の自覚もうまれると思いますが、楽観的すぎますか?私も、教員養成機関での学問的追及(?)のみでは、ただの「畳の上の水練(古すぎますか?)」になってしまい、現場では何の役にもたたないように思います。ただ、この考えにしても結局、新任の教師の補佐役として現場のベテランの方々に負担を強いることになりますけど。<
-----------
Eulenspiegelさま、

コメントをありがとうございます。

ご存じかもしれませんが、1989年度以来、初任者に対する1年間の仮任用と学校内外での研修が法的に義務づけられており、(たとえば、http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kenshu/index.htm を参照ください)、その実のいかんはともかくも、1年目の先生は「若葉マーク」に扱われています。

学校外では年間を通じて定期的に教育センター等に通い、講義、演習、実習などが行われます。宿泊研修などもありますよ。また学校内では、同学年を担当する先輩教員のアドバイスを受けることが多いようです。くわえて、拠点校指導といって、新任がいる複数の学校を指導教諭などのベテラン教員が巡回して指導、相談にのってもいます。

とはいえ、とくに小学校では学級担任でないことはまずなく、子どもやその保護者にとっては他の教員と同じように先生ですから「一人前」でなければなりませんから、おっしゃる研修とはちょっとイメージが違うかもしれませんね。

なお、大学での学修はたしかに「畳の上の水練」でもあるのですが、学校現場では毎日いろいろな水温、波や風に出合いますので、泳ぐ度に対応の仕方を決めなければならない点では、「昨日の泳ぎ」も「畳の上の…」に留まる面があります。

この点では、むしろ学校から離れているからこそできる、思考実験の良さを活かすことが、大学や教育センターでは可能でしょう。「いろいろな現実」にはその度に対応を考えなければなりませんが、それを支えているより原理的・根本的なものを探ることで、すっきり見えてくることもあるのではないでしょうか。

初等・中等教育教員の研修に関わる大学教員の役割はそこにこそあるし(「こうしたら良い[実践的指導]」とか「こうすべきだ[説教]」ではなく)、大学における学校教育研究は、そのための視野や分析の方法を問うことにある、と私などは考えているのです。

今後ともどうぞよろしくお願いします。
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by walk41 | 2013-02-10 10:44 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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