学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

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小さな子どもはこわれやすい

宿題忘れた小3男児、担任に壁押しつけられ骨折

 福岡市西区の市立小学校で昨年12月、3年生の男児(9)が担任の男性教諭から暴力を受け、鎖骨を折る重傷を負っていたことがわかった。男児側から被害申告を受けた福岡県警は傷害容疑で捜査を始めた。市教委によると、教諭は昨年12月19日、男児が算数の宿題を忘れたため、午前中の休み時間にやるよう指導。しかし、男児がその後も宿題をしているように見えなかったことから、胸ぐらをつかんで廊下の壁に押しつけるなどしたという。男児は午前の授業中に痛みを訴えて保健室で処置を受け、同日午後、帰宅後に保護者と一緒に医療機関へ行き、鎖骨骨折と診断された。学校側は同日、男児と保護者に謝罪した。市教委の聞き取り調査に対し、教諭は壁に押しつけたことを認めたうえで、「しっかり指導したいという思いだったが、感情的になってしまった。深く反省している」と話したという。男児は現在も痛みを訴えて登校しておらず、教諭も心労による体調不良を理由に、今月12日から欠勤しているという(読売新聞、20180131)。
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給食を無理やり食べさせ男児吐く、女性教諭処分

 東京都教育委員会は30日、男子児童が嘔吐おうとするまで給食を食べさせたなどとして、公立小学校の女性教諭(40)を戒告処分にした。発表によると、女性教諭は2014年1月、余っていた給食をお代わりするよう児童全員に命じ、男子児童の一人が「もう食べられません」と訴えたが、無理やり食べさせ、嘔吐させた。同年4月~11月には、女子児童から鉛筆を盗んだと疑われた別の男子児童に対し、十分に事実確認せず、「とったんじゃないの」と決めつけるなど不適切な指導をした(読売新聞、20180131)。
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東京の事例は児童の学年がわからないが、低学年・中学年くらい、つまり10歳までくらいだとすれば、まさに小さな子どもは心身ともにこわれやすい、心して接しなければいけないと思わされる。

「先生の言うことは絶対」「先生は神様のようなものだった」とは、教育学部に入学してきた学生が小学校時代を回想して少なからず口にする言葉である。家族に教員がいたりして、学校という場に馴染んでいれば、大人の光と影の両面を多少とも見ることができるだろうが、いわゆる素で学校という世界に放り込まれれば、小さな子どもはひとたまりもないと思う。

身体は自分より遙かに大きく、声も大きく、自信ありげに威圧的に接してくる。しかも自分のことを「先生」と呼び、疑いの余地を与えもしない(これに対して、私のような大学教員は「わからないなあ」と連発するものだから、学生から「わからないばかり言わないでください」と叱られる始末である)。

さらに、何をするか、どこまでやるのか、そもそもどこに座っているべきなのか、と内容と時間そして空間を全面的に支配するのが、教室にいる教員という立場である。こんな存在から真顔で迫られたら、小さな子どもは木っ端みじんなこと必至だろう。いったい、どんな抵抗やさらには反論ができるというのだろうか。

大人と子ども関係の典型のような、教員と小さな児童という構図は、前者優位の後者に対する圧倒的な暴力あるいは権力関係として説明できる。だからこそ、頼まれた訳でもなく、くわえて、少なくない子どもを預かる教員は、自身に対する相対的認識とこれに適ったセルフマネジメントの能力がいっそう必要だ。

実はそうでもないのに「社会は…」とか「人間って…」とわかったような発言を自重すること、「教育熱心」を肯定的だけでなく否定的にも捉えるバランス感覚を持つこと、「子ども理解」と自身が向ける眼差しと比べるべくもないほど、多くの眼差しを自分が向けられていると知ること、このように「先生然」としないように努めること、「教師らしくない教師の良さ」を常に考え携えることではないだろうか。

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by walk41 | 2018-01-31 13:50 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

開店祝いの花の持ち帰り

みなさんはご存じだったでしょうか。お店の開店祝いに届けられた花輪の花を、近所や通り掛かりの人が抜き取って持ち帰っても構わず、むしろ縁起物だからと花が残っている方が寂しいのだという指摘までもあるということを。

きのう今日に開店したばかりだなあと思われるお店の前には、お祝いの花輪が所狭しと並んでいました。まるで花屋さんかのようなさまに家人と驚いていたら、その前で堂々と花を抜き取る女性がいるではありませんか。えっ、盗んでいる? 何かの冗談だろうか。それとも通行人をねらった「ドッキリカメラ」の類か、と思ったほどに、手慣れた感じでたくさんの花を持ち帰っていったのです。

「何をされてるんですか」と尋ねる勇気はもちろんなく、いぶかしげに帰宅して、webで関係する発言を探しました。そうしたら、何と同様の問いかけが見つかりました。それらを複数検索した最大公約数的には、地域差もあるだろうものの、縁起物なので一向に構わないという話が成立しているようです。それなりに長く生きてきたけれど、まったく気づかずにきたことの一つだなあと、知らなかった自分に驚いた始末です。

もっとも、その店の前には「イベント中のため、花の持ち帰りはご遠慮ください」と張り紙がしてありましたから、今の持ち帰りはまずいのでしょうが、この張り紙が出るくらいに、持って帰るのは当たり前ということでもあるのですね。

何となく思っている習慣や価値基準、まあ当てにはならないものですね。自分の物差しだけで世の中を判じてはいけないと、改めて思わされたことでした。ああ、びっくりした。

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by walk41 | 2018-01-30 21:58 | 身体 | Comments(0)

ギムナジウムがもっとも好まれた学校種(ドイツ語記事)

バーデン=ヴュルテンベルク州ニュース、20180124(https://www.baden-wuerttemberg.de/de/service/presse/pressemitteilung/pid/gymnasium-bleibt-beliebteste-schulart/)より

2017/18年の学校進学は、全体として見ればふたたび安定的である。91444人の4年生の44.2%はギムナジウムに進み、前年比0.4%と微増となった(2016年は43,8%、2015年は43,4%)。

実科学校も同様に34.2%と、昨年度33.7%から少し増加している。また、職業実科学校/基幹学校は引き続き、減少傾向が明らかであり、最新の進学率は5.7%(昨年は5.9%)である。さらに、「社会的な学校(GMS)」は昨年の13.4%から0.9%低い、12.5%が進学することになった。

保護者は引き続き、基礎学校からのアドバイスに従っている。

ギムナジウムに進むことを決めた生徒のうち、基礎学校から職業実科学校/基幹学校への進学を勧められたのは1.5%(昨年は1.3%)、実科学校への進学を勧められたのは11.3%(昨年は11.7%)、そしてギムナジウムへの進学を勧められたのは87.2%(昨年は87.0%)である。

また、職業実科学校/基幹学校への進学を勧められた生徒が24.9%(昨年は25.2%)が実科学校に、実科学校への進学を勧められた生徒が56.2%(昨年も同率)、ギムナジウムへの進学を勧められた生徒が18.9%(昨年は18.6%)をそれぞれ占めるのが、実科学校への進学である。これを受けて文部大臣Dr. Susanne Eisenmannは「学校選択の状況は、政治に対して、特別に高い生徒の異質性に適った学校として、実科学校に資源の追加を強化すべきことを示している」と述べる。

さらに、職業実科学校/基幹学校への進学を決めた生徒の91.3%(昨年は92.0%)が基礎学校のアドバイスに従っており、実科学校への進学を勧められた生徒が7.5%(昨年は7.4%)が職業実科学校/基幹学校に、またギムナジウムへの進学を勧められた生徒はわずかに上昇して1.2%(昨年は0.7%)が職業実科学校/基幹学校への進学者の内訳である。

社会的な学校(GMS)への進学を選んだ生徒の65.3%(昨年は64.3%)は職業実科学校/基幹学校への進学をアドバイスされ、26.5%(昨年は27.3%)は実科学校、そして8.2%(8.4%)はギムナジウムを勧められた。「それぞれのGMSに多様な生徒がいる状況から言って、ギムナジウム上級段階(11-12学年)をGMSに創設することにより、私たちは、この学校種に対する十分な展望を持つこと、さらには信頼を勝ち取ることができる」と文部大臣。 GMS West in Tübingen と Gebhardschule in Konstanz では、2018/2019年からGMSに初めてギムナジウム上級段階を設置することが可能となった。

基礎学校から中等学校への全体として安定的な進学状況は、学校大改革の時期の後、学校構造における静寂と信頼がもたらされていることを明らかに示していると、文部大臣。「我々はさらに、教育の質の向上とデータに基づく追跡に関する多様なアプローチを背景に、既存のデータをより正確に分析するつもりだ。これにより、追加的な資源プランをより負担少なく建てることができるだろう」と期待を示した。

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ドイツの学校制度に関わり少し補足する。ドイツでは基礎学校4年生を終えると、子どもは大きく分けて、ギムナジウム、実科学校、職業実科学校/基幹学校、社会的な学校、のいずれかの中等学校に進学する。この州では2011/12年以前は、CDU(キリスト教民主同盟)による政権のもと、基礎学校での成績にもとづく保護者に対するアドバイス(勧告)は絶対的なもので、それに従い、中等学校を選んでいた。これに対して、保護者の教育権を侵害するもの、あるいは子どのも能力を固定的に捉えすぎと批判をしていたGruene(緑の党)とSPD(社会民主党)が政権を獲得することにより、このアドバイスは保護者に対して義務的なものではなくなり、あくまでも参考として提示されるにとどまるようになった。その後、2016/17年の州議会選挙の結果、GrueneとCDUの連立政権になったものの、この位置づけは変わっていない。

今回のニュースは、ギムナジウムへの進学はこれを勧められた生徒が87.2%を占め、実科学校については同じく56.2%、職業実科学校/基幹学校については同様に91.3%の生徒が、基礎学校からのアドバイスに沿う進学行動をとったことを報じている。つまり、ギムナジウムと職業実科学校/基幹学校については、ほとんどの生徒がこれらの学校を勧められたことに沿ったのに対して、実科学校を勧められた子どもは分化しており、ギムナジウム、職業実科学校/基幹学校、そして社会的な学校(GMS)へと散らばっている。このことは、実科学校の教育の在り方に大きな影響を及ぼしているだろう。

また、GMSへの進学を決めた生徒のうち、職業実科学校/基幹学校を勧められた生徒が微増、ギムナジウム、実科学校を勧められた生徒が微減という状況は、「GMSからどのような教育修了(卒業)も可能」という政府のスローガンが現実味を帯びなくなる可能性も示している。日本では9年生まで「学力差」がない(はず、あってはいけない)という社会的な「無言の了解」が得られており、高校進学に至ってようやく、階層分化するのに対して、ドイツではこれが5年生に上がる段階で明らかになっている。このことの良さと拙さはそれぞれあるが、私は公然としているドイツに、勇気と「割り切り」を見る思いがする。






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by walk41 | 2018-01-27 20:15 | Comments(0)

雪だるま

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この歳になって初めて雪だるまを作りました。家人の趣味に合わせたモードになったけれど、ご近所から「写真を撮っていいですか」と尋ねられたくらいなので、可愛くできたとしましょう。

みなさんは寒い冬、どんな風に楽しんでいらっしゃいますか。

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by walk41 | 2018-01-27 12:34 | Comments(0)

ゲルピン

家人が遠藤周作の著作集を借りてきて読んでいる。その一つ「わたしが・棄てた・女」(1963年)の文中に、「ゲルピン」という言葉が出てくる。ドイツ語の貨幣(Geld)とピンチ(危機)あるいは「貧」の組み合わせと言われる、お金のない様を指した言葉だ。

それを見ていて思い出した。以前の勤務地で知り合った化学の教授で、ご自身が学生だった頃に、お金が足りない時に「ゲルピン」とよく言ったものだと話をしてくれた。遠藤周作のこの作品にも出てくるが、お嬢さん(ドイツ語でMaedchen)を「メッチェン」と言っていた件も聞いた。

私より20歳以上は上の方だったかと記憶する。その彼が学生だったときに、ドイツ語をかじっていたのは、きっと学生のシンボルでもあったのだろう。哲学、医学ほか多くの学問がドイツ語圏からやってきていた中、ドイツ語に引っかけた造語がなされたのは、ごく自然なことだったと思う。

「インテリ」(知識人)としてのステータスシンボルが、外国語を知っている、さらには操れることだったかつてと比べれば、今ははたして何がこれに相当するのだろうか。学生帽はもちろん学生服も着られなくなり(ごく一部の「お嬢さん大学」に残されるばかりとなり)、街に出れば誰が学生かわからないほどだ。

大学生が高校生の延長に位置づくだけならば、ステータスシンボルは不要である。こうした大衆化(民主化)されたことの良さを喜ぶべきか、頭でっかちでも「ちょっと違う」と思わせるものがなくなったことを嘆くべきか。ええっと、大学ってどんな場所でしたっけ。


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by walk41 | 2018-01-26 22:12 | ことばのこと | Comments(0)

熱さと温かさ

北九州市若松区の市立小学校の男性教諭(20歳代)が今月23日、校内で6年生の男子児童の顔を蹴り、けがを負わせていたことが市教委への取材でわかった。児童は市内の病院に入院中で、福岡県警若松署が教諭から事情を聞いている。市教委によると、教諭は、体調不良を訴えて保健室にいた児童に、教室に戻るよう指示。その際にトラブルとなり、廊下で児童の顔を蹴った。児童は一時、意識を失い、病院に運ばれたという。市教委には保護者から「鼻付近の骨が折れた」と報告があった。 教諭は同日、校長らとともに病院で、児童の保護者に謝罪。24日から自宅謹慎中で、学校の調査に「感情的になってしまった。けがをさせて申し訳ない」と話しているという。市教委は「事実関係を確認し、捜査の動向を見極めながら厳正に対処する」としている。(読売新聞、20170126)

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「教師としての熱意」「情熱あふれる指導」「ダメなことはダメという熱血漢」と、教育に関わるお喋りには「熱さ」が含まれる。「熱を帯びる授業」といった言い方もある。教育への懸命さ、熱心さは、教育者の強いエネルギーを象徴し、これをより放出し、子どもに照射するかのような状態を望ましいと見なす価値観を成立させているのだ。


ただし、教育的文脈における熱意は、教員だけではどうしようもないことも踏まえなければならない。熱を照射する対象がモノであれば、おおむね操作できるけれども、ヒトはそれほど素直でなく、天邪鬼になることがある。相手への反発や茶化しから、白けたふりができるからだ。


相手との関係が成立してこそ熱意が有意義ということがわかっていなければ、「一人芝居」「空回り」とも言われる事態に容易に陥る。では、相手との関係を成り立たせるのは何か。それもまた、温かさ、思い、教育的愛情といった「熱」であることに異論はないだろう。「熱い」と「熱すぎる」の違い、「熱さ」と「温かさ」の違いを知り、さらに行為することは、かくも難しい。




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by walk41 | 2018-01-26 16:15 | 身体 | Comments(0)

ハッピーに終われない

授業も大詰めを迎えた。レポートが提出され、学生間でコメント交換をし、私も読んでコメントをくわえて、学生に返すまでに達している。「失礼な学生」で記したようなことはあったにせよ、それ以外は期日をしっかり守って臨み、よく励んだね、とハッピーに終わるはずだった。

ところが、蓋を開けるとそうではなかった。その理由では期限内にレポート提出できないことを認められない、提出しただけでコメント交換をしていなければ最終までたどり着かない、と伝えていたにもかかわらず、あるいは、前回の授業から1週間もあったのにその間、何も連絡をせず、なぜこの段に至って、という学生が現れるのだ。これはいったいどういうことだろう。

家人に愚痴ると、レポート提出と合わせてコメント交換をある授業時間に限ることが遠因ではないかと言う。確かに、その時間に来れない場合がある、ましてやこの寒い冬の時期に体調を崩すことは十分にありうることだろう。とはいえ、圧倒的な学生はそれに間に合うように段取りをして当時に臨んでいるのだから、不公平が生じるのではないかといたく懸念する。

また、大学時代の経験で提出したレポートが返ってきたケースはほとんどない中で、レポートを返すことを盛り込むからこうしたことが起こる(出しっ放しにすれば、期限内であればいつでも出せるのだから、の意味)のではないかとも指摘されたけれど、大昔の自分の経験、出しっ放しの不快さを繰り返したくないから、それはできない、そもそも学生へのフィードバックにならないと、是とはできない。つまり、極力この時間に来てもらわなければならない。

ブラックとも言われるアルバイトに従事している場合もあるだろう。他の授業での負荷で体調不良になることもあるだろう。けれどその上で、予め指定した日時には、どうにかでいいから「帳尻を合わせる」ことも一つの能力だと思うのだ。段取り力がより問われる教職に関わる授業ならばなおさら。

とまれ、そんなこんなで著しく消耗することになった。大上段に構えれば、授業は教員と学生との二人三脚で作っていくものだろう。ならば、互いの信頼と努力に基づかず何が授業かということになる。一つの授業の形として、学生たちには「こんな変な授業もあったなあ」と思い出してもらえるようであれば、嬉しく思う。



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by walk41 | 2018-01-23 13:08 | 大学のこと | Comments(0)

「させていただく」

昔のファイルを整理していたら、1985年の夏、大学院に入ったばかりの頃、学会にて共同研究を発表した際の原稿が出てきた。初めての学会参加と発表で、読み上げることもできるように用意していた発表原稿である。

その冒頭にこう記されているではないか。「以下、続けてご報告させていただきます」。

なんと、「自分の動作を指して、”させていただく”はおかしい」と吠えている自身が、この通りの発表原稿を用意していたこと、しかも今から30年以上も前にである。しかもご丁寧に、自分の発表を「ご報告」と指している。「”以下、続けて報告いたします”、で十分」と今なら叫ぶこと間違いない。

「なんや、あんた、問題やっていう言い方を、しっかり遣うてるやん」と批判されても返しようがない。

自分の記憶がいかにいい加減かということ、またこの表現が最近現れたとも言えないと、知ることになった。あ-あ、情けない。


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by walk41 | 2018-01-22 15:29 | ことばのこと | Comments(0)

正直

週末をつかって、学生のレポートを読み終える。仕事だから当然だが、けっこう骨が折れる。

その作業の中にあって、懸命に取り組んだ学生が多いことはとても喜ばしい。フォーマットの整い、キーワードの活用、論理的展開、アクセント豊かな語尾、学生自身の変化とテーマとの関係が明確、といったレポートは、読んでいて嬉しくなるほどである。

さて、こうしたレポートを読んでいて、受け止めに迷うのが「正直」という言葉の遣い方である。「正直無理だと思う」「正直精神的に病むと考える」、あるいは「正直に言えば」という記述だが、自分としてはなかなかしっくりと来ない。なぜそう感じるのかを考えてみると、私が次のように理解しているからだろうなと気づいた。

社会科学(と称する)の分野の記述は、複数の事実の関係を捉える(説明する)ことを目指すものであり、そこに事実を観察する人間の存在は、直接には現れないか、現れたとしても、せいぜい控えめでしかない、というのがマナーである。人文系であれば、「私は…感じた」「そんな感情を僕は抱いた」と書いても一向に構わないのだけれど、社会の出来事を説明可能なように想定し、それがよりできることを目標にする分野では、そうした観察者、当事者の主観性はできるだけ抑制されるべきと考えられる(もちろん、そうしたことは不可能だと、参与観察の立場があるし、社会を科学的に捉えることはそもそもできないという立場もある)。

こうした文脈にあって、自身の受け止めや感情の表出と親和性の高い「正直」という言葉を見ると、場違いに思うのだろう。感想、雑感を記す中では何とも思わないこの言葉が、可能な説明に臨むべき箇所で見られることに対して違和感を感じるのだと思う。

科学としてより純化されていることが必要な自然分野を想定すれば、明らかだろう。津波やハリケーンの研究レポートに「正直、こんなに大変だとは思わなかった」と記されていれば、調査後の雑記としては読めても、「本論中には入れるなよ」と、突っ込みの入ること必至である。学生にも少しづつでいいから、こんな感覚を培ってほしい。



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by walk41 | 2018-01-22 10:37 | ことばのこと | Comments(0)

アニミズムと神社

実に遅ればせながら「初詣」に出かけた。神社に行ったが、かといって神道を信じているわけではない。ハローウィンやクリスマス、七夕と同じように、季節の節目に何かしようかなという域を出ず、風物詩の一つとしてである。

本宮を訪れると、赤ちゃんを抱く人を含む数人が館に上がっているのが見えた。特別に依頼したのだろう、その少し前に鎮座した神官が祝詞をあげる間、ひたすら頭を垂れている。幼子の健康祈願に来られたのだろうか。

それを尻目に進むと、小さな祠が続き、学業成就の神様、夫婦円満の神様、台所の神様と、いろんな神様がいるものだと感心する。こちらは大半を「へえ-」と前を通るだけなのだが、一つ一つを回り、お賽銭を投じて柏手を打ち、深々とお辞儀をする人たちもいた。そのために神社に来ているのだから、当たり前と言えばその通りだが、アニミズムと神道の奇妙な共存が見えて興味深い。

井上寬司『「神道」の虚像と実像』(講談社新書、2017)を紹介する講談社HP http://news.kodansha.co.jp/20170503_b02 によると(自分で読んでおらず、すみません)、神道は、中国から輸入された仏教の向こうを張る必要から「日本的なもの」として形成され、その一方で多神教としての「神仏習合」の経験も長らく積み、さらに、明治期を前後して政府主導による「国家神道」になることで、「日本古来のもの」というフィクションをとくに戦争期に勝ち取った(「神風」)と見なせるようだ。

つまり、表面的には、靖国神社を頂点とする神武天皇以来の「万世一系」という物語性を保持しつつ、実態としては習俗的な、ましてや昨今はグローバル化の波を受けて、より鷹揚な場として位置づけられている(「来る人は拒まず」)と見るのが妥当なのだろう。特段、神道に法りという訳ではなく、アニミズムすなわち、どこにでもおられる八百万神を崇めることの延長として、とはいっても、少しは改まった場としていわば折り合いを神社がつけていると見れば、私のような不信心の者もやって来れるというものである。

お参り、詣で、お祈り、参拝-人々の精神世界を理解することは難しく、またおもしろい。

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by walk41 | 2018-01-21 17:20 | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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