学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

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春を楽しむ

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桜の開花、三分咲き、五分咲き、満開などと言いますが、これは同じ木なのに同じように咲いている訳ではないことを意味しますね。まだ蕾みのもの、もう少しで咲きそうなもの、見事に花開いたもの、そして早くも落ちて、あるいは散ってしまったものがあります。片やまだ蕾の枝があるのに、別の枝ではすでに若葉が出はじめているものもあり、驚かされることしばしばです。

鳥に留まられ、揺らされたのでしょう、きっとまだ咲いたばかりなのに、落ちてしまった花がありました。それらを集めると、こんなにもきれいに手の中で映えます。水面に投じたら、まるで小舟のようにぷかぷかと流れていきました。

もう何十回も春を迎えていますが、今年は格別に輝いて見えます。大切に過ごしたいと思います。



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by walk41 | 2018-03-31 20:37 | Comments(0)

春の訪れを祝う

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日本国内であっても、桜の開花にはずいぶんと幅があるでしょうが、ここ京都近辺ではまさに桜が咲き乱れ、の様相を呈してきました。

ほとんど人気のないところに、かくも立派な桜が咲いていました。この風景をしばらく二人占めしたことです。

少し寒い空気も感じながら、静かにだけどしっかりと咲いている、またこれから咲こうとする、そして花びらはもう散り若葉を控えている、いずれの桜を見ても感じます。それなりに厳しかった冬を振り返るとともに、ようやく訪れた春を、全身で嬉しく楽しく受け止めたいと。

「祝う」という言葉の意味を長らく理解することができませんでしたが、この春に至って少しわかったような気がします。

春の訪れを心から祝いたいと思います。





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by walk41 | 2018-03-29 22:04 | Comments(0)

学校部活動「適正化」狂想曲

学校での部活動を減らし、教員の働き方改革を進めるトーンが強まっているが、最前線の各学校とそれを支援する教育委員会では、混乱を極めているように思う。

教員の過重負担、長時間労働を抑制するべく、「土曜日及び日曜日は少なくとも1日以上を休養日とする」、「1日の活動時間は、長くとも平日で2時間、休業日では3時間程度とし、できるだけ短時間に、合理的かつ効率的・効果的な活動を行う」(スポーツ庁ガイドライン)などと出されているが、その現実味が乏しいために、いろいろな解釈がなされていると聞く。グランドの準備、道具出し、練習あるいは試合、片づけ、グランド整備をすべて含めて、この時間内に活動を終わらせることが実際にはできないからだ。

このため、たとえば次のような解釈がありうる。
・活動時間とは、生徒が部のスポーツをしている時間、たとえば走る、ボールを追いかける時間だけを指し、準備や片づけ、待ち時間などは含まない。

・土日曜日の少なくとも1日を休むというのは、土曜日の半日と日曜日の半日、合わせて、1日としてこれらも「1日を休む」ことと見なす。

もう無茶苦茶である。これだけ拡大解釈せざるをえないほどに、体育連盟などに加盟することに伴う活動実態があるということだ。だから、上記の基本線を守ろうとすれば、各学校には、こうした団体に参加しない、つまり試合に出られないという選択しか残らなくなる。でもそれでは、生徒がかわいそうであり、そもそも部活動をやる意味がない。じゃあ、部を廃止することになるが、それでいいのか、という話になる。

原理的また実際的に、これまでのような部活動を続けるのか、止めるのか。この帰路に学校と教育委員会は立たされている。あるいは、ドイツの学校のように、週に一度、2時間程度の活動でできるものにしていくのか。これまた「もっとやりたい」という声にかき消されてしまうだろうなあ。



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by walk41 | 2018-03-28 11:06 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

論文が出来上がりました

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森脇正博・榊原禎宏「教員の『わいせつ行為』に関する統計的再分析ー学校種間の発生率の検討」(京都教育大学紀要、第132号、201803)が出来上がりました。

文部科学省と警察庁のデータを用いて、教員による「わいせつ行為」の発生率を16年間分、調べたものです。同様の論文をこれまで二本書いていますが、今回は、学校種の違いを明らかにしたことが「売り」の一つです。電子データ化されたものが、じきに京都教育大学のページ上に載りますので、ぜひご一読を。もちろん、紙媒体ならば、すぐにお渡しすることができますよ。

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by walk41 | 2018-03-27 17:41 | 研究のこと | Comments(0)

自分を主語に他者のことを言う

みなさんは、自分を主語にして、他者のことを言う、言い方を換えれば、他者が自分のことを、あたかも自分のことかのように言うのを聞いたら、どう思うだろうか。

「私は静かにします」が、自分のことを自分で決めて行動するさまならば、「どうぞお好きに」で済む話だ。けれど、これを他者によって言われると不思議な感じがしないだろうか。「なに勝手に言うてんのん」って。

ところが、学校ではこうした不思議な言葉がまま飛び交うのである。自分のことなのに教員/教師という他者が、あたかも自分のことかのように言うことが。

「今はしゃべりません」「そこで立ちます」「宿題忘れはしません」と、教師自身のことかと思えば、実は児童・生徒のあるべき行動について話しているのだ。

この言い方は、二つの問題をはらんでいる。その一つは、私がそう言いたいのに、その点を隠して、あたかも中立的な、あるいは神の言葉かのように振る舞うことで、普遍的、一般的かのように装うこと。もう一つは、そう言いたい自分(たち)の暴力性を糊塗しているということである。

前者は、たとえば、かつて学校で席巻した教育勅語にも通じる。この文書を指して「言っているのは、ごく当たり前のことじゃないか」と擁護、肯定する人が今なおいるが(「当たり前のことなら、なぜことさら言われなければならないんだろう」という疑問は、この手の御仁には無縁だ)、それは誰が言っているかをぼやかしている点が問題なのである。発言の責任の所在がはっきりしない。

後者は、自分がある価値にもとづき他者を操作したいことを「〜しなさい」「〜してほしい」とは表現せずに、当人がそうして当たり前という態度で臨むことで、強いているのを隠すことだ。良く取れば、これは「自然に」そうさせているとも言えるが、馴染んでしまうと恐いことでもある。

こうしたお作法が何となく通ってしまうこと、つまり説明を伴わないことに、学校のルールの根拠のなさを見出せる。集団生活であるのは学校の都合であって、児童・生徒がそう望むからではない。だから、当たり前のように言うのではなく、より説得的であってほしいと思うのだ。


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by walk41 | 2018-03-27 06:37 | ことばのこと | Comments(0)

論理的でない言い回し

あまり根拠があるわけではないけれど、そう表現すると、周りからそうだそうだと声の上がる様子の感じられる言い回しがある。

「エリートは打たれ弱い」「一流大学を出てるからって頭がいいわけではない」といった類がこれに当る。恨み節と言うかルサンチマンと言うか、それを聞くと喝采を送りたくなるような言葉づかいである。

この表現は、溜飲を下げたいために急ぐせいか、同義反復(トートロジー)に似ているけれどちょっと違って、自分を否定するという点で特徴的だ。「富士山は山だ」「蛙の子は蛙」などは、AはAと意味はないが論理的に間違いではない。その意味で益もないが害もない。けれど、上のような例は、AはAではないと言っており、明らかに矛盾する。けれど、不思議なことに何となくそうだよなあ、って思う余地が生まれるのだ。

打たれ弱いのはエリートとは言えない、頭がいいわけでないのは一流ではないから、と、そもそもの言葉を疑い、言い直せばいいのだけれど、そこを端折ると、おかしな表現になる。もっとおかしいのは、そう話している自分を疑わない様子である。

ちなみに、教員も立場上、わかっているわけはないのにわかっているかのような振り、無理をしなければならないことがあるだろうが(だから、これからの時代、教員という言葉は消滅するのではないかと予想する)、AはAではない、という無茶な言い方をしていないか自身を点検してほしい。たとえば、「先生も間違うことがある」「先生も人間だ」と自己弁護するならば、あなたは先生ではない。感情に過度に流され、「だって人間だもの」と弱音を吐くのならば、冷静沈着でいるべき像としての「先生」などと自身を規定、また称しないことである。

あるときは教員然、そうではないときは友達然とするような様を「先生」という言葉で括る、私に言わせれば言葉を弄んでいるから、中途半端な立ち位置になる。だから、何度でも言う。間違っても自分で自身のことを「先生は…」と言わないと戒めるべきである。ある場面を指して、他者が先生と呼ぶのはありうる。けれど、自分で自分を先生と語ることの大きな問題は、自分を疑わなくなることだ。自分を疑わない人間の恐ろしさは、否定的な出来事を自分以外に帰属させること、つまり「こうなったのは、○○のせい」と思い込んでしまうことである。自分を反省できず、革新することができない人間が、どうして人様の前に偉そうに立つことができるだろうか。

公教育の課題は、何も政策や行政、制度のあり方によってのみ、もたらされるのではない。それは、児童・生徒に一番身近にいる「先生」という大人のいい加減さによっても生じるものである。自分を疑わない人間が、何の根拠も定義もないのに、身勝手に自分で自分を「先生が…」と語るというおぞましいことが、今日も各地で起こる。「先生の言うことが聞けないのか」「先生はあんたたちと違うんや」「それは先生が決めます」って。「あんた、いったい、何様やねん」という、声にならない児童・生徒のつぶやきや叫びが聞こえるだろうか。



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by walk41 | 2018-03-22 15:44 | ことばのこと | Comments(0)

人が亡くなったけれど、さわやか

ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演の「最高の人生の見つけ方」(2007年)を観た。一代で1000億円を超える財産を築いた男と、歴史学の教授になりたかったものの、子どもをもうけたために自動車整備工として45年間働いた男が、いずれも末期ガンを宣告されて、入った病室がたまたま同じだったことをきっかけに、人生最後の数ヶ月、世界を旅する物語である。

The Bucket List”(死ぬまでにしたいことをリストにしておくこと)という原題が示すように、これまでやったことのないことに二人で挑戦するという展開だが、旅の途中、後悔や諦め、喜びや自負を含めてそれぞれの人生を語る。家族に対する感謝と怨嗟も出てくる。その中で、自分なりの人生の総括をしていったのだろう。やがて二人は逝くが、リストをすべてやり終えた、その終わりはとても爽やかである。

「悲劇は死で、喜劇は結婚で終わる」というヨーロッパ演劇の言葉があるが、この映画にその区分は当てはまらない。誰もが避けられない死をどのように迎えるか、それまでにどのように生きるのかというテーマは、そもそも悲劇・喜劇の区分に馴染まないのかもしれない。けれど、このテーマはかなり普遍的と思うのだ。

他者の死を通して自分の生について考えさせられる、そんな良い作品だと感じた。

(写真は、https://imachan1965.muragon.com/entry/290.html より拝借)
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by walk41 | 2018-03-21 14:13 | 映画・ドラマ | Comments(0)

メッセージの発信と受信

年度末、人前で挨拶する機会が少なくない。

メッセージを発する側としては、相手の様子をできるだけうかがい、より伝わるように努めているけれど、それがどのように受けとめられているかは、なかなかわからない。むしろ、目に入った否定的な(そのように見える)振る舞いに心を奪われてしまい、挨拶のあと、ちょっと落ち込むことがある。

このことは、授業評価に関しても当てはまることだ。授業者としては、「良かった」「学ぶことが多かった」「楽しくできた」といった、授業評価での肯定的な回答よりも、「難しくてわかりにくかった」「まとまりがなかった」といった(授業者からすれば「学生にまとまっているかどうか、どうやってわかるんや」と毒づきたくなるものも含めて)否定的な回答に目が行ってしまう。たとえ、100人の学生中、たとえば後者が3人だったとしてもである。自分の中で、肯定的な評価がすっかり消え去ってしまう。

けれど、その後の何かの際に「いい話でした」「あのお話は心に染みました」と伝えられると、嬉しさもさることながら、「えっ、そんな風にも受け止められていたのか」と驚いてしまう。「みんなにしっかりと伝わったと思います」とまで言われると、立場上、多少のヨイショはあるにしても、「そうかあ、よかったなあ」と、先ほどまでのガッカリが飛んでしまうかのようである。

一対多という状況でのメッセージは、一対一、数人といった状況とは違うから、受け止めの様子を正確に捉えるのはいっそう難しいとは言え、発信と受信の間のずれはいずれの場合でも前提にしてよいかと思う。だから、教員がまま児童・生徒に言う、「それはさっき言ったでしょ」とか「何回言ったらわかるの」といった、発信すれば自動的に受信されるかのように勘違いしている場面に出くわすと、いたく残念に思うのだ。

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by walk41 | 2018-03-20 14:19 | 身体 | Comments(0)

学校の自律性はやっぱり担保されていない

1998年の中央教育審議会答申「今後の地方教育行政の在り方について」をきっかけに、 学校の自主性・自律性が盛んに喧伝され、「校長はボス、人的・財的にいっそう権限を持ち、学校経営に責任を負うのだ」と、けっこう長く叫ばれていたのではないかと記憶している。

けれど、これはあくまでも理念に留まり、まずは制度面で現実のものとするのはまあ難しいなあと思っていたが、最近、非制度的な文脈においてもこのことが当てはまると、強く思わされた。それは、かつてその学校に関わっており、今なお直接・間接に関わっている(と少なくとも本人は思っている)立場の人がおり、学校の管理職と言えども、その人に物言うのが難しい状況がある、ということだ。

こんな話を聞いた。ある学校の卒業式に来賓として出席したその上級学校の管理職が、この春にこの学校の卒業生の多くが自分の学校に入学するので、事前の準備づもりと写真を撮っていた。すると、当日同じく来賓として出席していた、すでにその学校を退職して10年は経つ元管理職から、「保護者でない方は、写真を撮らないで下さい」と、たしなめられたというのだ。

現在の管理職から言われることですら、いささか失礼ではと思うが(当人に言わせれば「進級先の学校の管理職が変なことに写真を使うはずがないやろ!」であった)、それがかつての、しかも往年の、いつの人や、という立場からの指摘である。

こうした様子を見ていた現在の管理職ですら、その人に物をいえなかったとこれまた当人から聞いたものだから、よけいにびっくりした。年長者に意見できないという教育の効果絶大である。

「こうしたオールドメンバーに、式への招待状を送ることなどないのに」と私が口を挟むも、「それができないんです」との返事だった。こうした例以外に、同窓会なども多くの学校にはあるし、学校を支援してくれている面もある。勢い、正規メンバーでないけれど、意見していいと思う余地が残るのだろう。だから、各学校の力など、そんなものなのだろうね、ちょっと残念ではあるけれど。

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by walk41 | 2018-03-19 16:51 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

校長から保護者と生徒へのメッセージ(ドイツ語版)

日本では卒業式の季節、梅が咲き、桜を待ちながら式を迎えた学校が多いかと思う。そこで校長は何を話したのだろうか。

ひるがえってドイツでは、日本と学年の暦が半年違っているので、7月末が年度末にあたる。その際、彼の地ではどんなメッセージを学校が発しているのかしらと思い探したところ、北ドイツのある中等学校のページ(http://rhs-trappenkamp.de/brief-der-schulleitung-zum-abschluss-des-schuljahres-20142015/)が偶然見つかった。以下を読ませてもらおう(メッセージは、2015.7.17付))。少し前になるけれど、両国の学校事情の違いと共通点も見つかるのではないだろうか。
ーーーー
保護者のみなさん、生徒のみなさんへ、
またも一つの学年が過ぎ去り、夏休みが-望むらくは、いい気候でありますように-目前に控えています。この後半の学年は、試験の季節でした。そして嬉しくお伝えできるのは、口頭試験に進んだすべての生徒が教育修了(合格)にたどり着いたということです。私たちの生徒、24人が最初の一般教育を修了(基幹学校修了相当)、28人が職業教育に進むあるいは他の学校でさらに学ぶ中等教育を修了(実科学校修了相当)、42人がアビトゥアを取得(大学入学資格相当)しました。おめでとう! 

お別れ会は、素晴らしい、質の高いまとめにふさわしいものでした。とりわけ、もう馴染んでいるGroehnさんの指導のもとでの吹奏楽とバンド、また、ことし創設されて初めてお披露目となったWohlrabさんの指導のもとでのア・カペラコーラスは。それらは印象深いパフォーマンスでしたし、将来、多くの皆さんから聴けるのを楽しみにしています。

今年度の前半の多くの行事のあと、短い期間ではありましたが、後半も多くの、私も数え切れないほどの、特別な授業と授業以外の計画が実現されました。スポーツ行事の替わりに、Norderstedtでのフェアプレイ杯にて女子および男子のサッカーチームが第三位を獲得、生徒競走でも成功を収めました。音楽でのハイライトは、音楽週間のオープニングを、上級学年のコーラスと他校の弦楽器クラスとの本校の吹奏楽との合同演奏で飾ったことでした。そこで本校の生徒たちは何ら恥ずかしがる必要がないほどの出来映えだったのです。

授業の中では、学校外の専門家との結びつきがありました。9年生へのアルコールと薬物の予防教育の実施はその一例です。本校の継続的で成果のある予防教育等を、依存症の専門家の養成と関与を通じて行えたことは、予防教育として表彰されました。様々な大学の研究者がほぼ定期的に本校を訪問してくださり、上級学年の授業の水準を大学の観点から広げてくれました。ちょうど先週は、ギリシャというテーマで経済学研究者が議論し、教える時間をほとんど取ることができないほどでした。

中でも強調したいのは、依頼に応えてくださり数日滞在くださった、イギリスのケーレ大学のKing教授の来訪です。そこでは教員に対する地学の研修とともに、生徒に対する素晴らしい講演をしてくださいました。しかしそれは、学校を元気にしてくれた外部からの刺激だけに留まりません。とくに教員の取り組み、そしてこれを通じた授業における生徒たちの素晴らしい出来映えをもたらしています。その成果は、最近の、しかし決して唯一の例ではない、生徒による3つの短い映像作品に示されます。8-10学年の芸術の授業でつくられたこれらの作品は、フィルムフェスティバルにて、学校開放の火曜日の晩に上映されました。

さいごに、人事異動についてでです。まずお別れについて、7/8学年主任のFrau Otzenが定年のため退職されます。Frau CarstensとFrau Jürgensは、他の学校に替わることになり、Frau WinterとFrau Forsterは、試補教員を終えます。新年度、5人の新しい同僚がやってくるのと同様に、5-12歳の130人の生徒を受け持つことを心待ちにしています。

みなさんが夏休みの期間、よく休めますように。そして新年度に会えることを楽しみにしています。

学校長名

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by walk41 | 2018-03-19 09:20 | ドイツのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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