学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und Schulmitglieder

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お雛様

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梅林を見に行った先で、展示されていた享保雛(きょうほひな)、1716-1736年の享保年間に京都で作られたものだという。

300年近くも保存されているなんて、まったく貴重だなあ。その一つに、男雛で赤い衣を身にまとっているものがあった。男雛に赤い色を使っていたのかしら。

あるいは昨今、「男の子は黒いランドセル、女の子は赤いランドセル」という「伝統」が揺らいでいるとも聞くけれど、これとて、80年も遡ると、そうではなかったことが、以下の絵からわかる。尋常小学校修身科の教科書中、「センセイ」と題したものだ(京都市学校歴史博物館所蔵)。当時の男の子のランドセルは、決して黒ではない。

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「昔からそうだったんじゃないかなあ」と何となく思うのはいいけれど、そのことと、あたかも本当にそうだったと認識することとは大きな隔たりがある。昔のお雛様を眺めながら、そんなことを改めて思わされた日だった。



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by walk41 | 2018-03-18 19:03 | 身体 | Comments(0)

「将来の夢」

学校の宿命とも言うべきことかもしれないけれど、こんな表現が学校であまりにも当たり前のように扱われているので、変なことではないかと、みなさんに問うてみたい。

それは、主に小・中学生に尋ねられる「将来の夢は」という投げかけである。この言い方は、次のような点を前提にしている。

その一、現在は将来のための準備や「投資」の期間であり、現在を生きることが「夢の実現」とは見なされていない。その二、いま語ることのできる「将来の夢」は、あくまで、いま見えるものに限られ、その意味で現実味を帯びない。

少し説明を加えるなら、一つ目は、「今は我慢」「今は耐える時期」と位置づけられるが、かと言って「将来」がいつなのかが明示されている訳ではない。「将来」は何となくの意味しか持ち得ない。

二つ目は、現在の知識すら十分に持ち得ない子どもが語りる「夢」は、あまりに断片的であり、そのまま追いかけることは、決してお勧めしない、さらには、おっかないものですらある。さらに、「将来」の射程が設定されておらず(何歳くらいが「将来」なのかよくわからない)、実際には長期に及ぶ「将来」(いま生まれた子どもは100年を生きるとすら言われている)が不変なはずもない(20代、50代、80代を同じように語るのは、きっと無理)のに、そうした想定を欠いている。

つまるところ、子どもが「お花屋さんになりたい」「サッカー選手」「研究者」「小学校の先生」と言っても、ほとんどのところ、何もわかっていない(現在のそれらについて)、また何もわからない(未来のそれらがどうなるかについて)から、そんな発言をさせても「おう、元気やなあ」という印象以上とを得ることができない。それを文字通り受け止めて、「そうか、サッカー選手か。じゃあ、クラブチームに入って、高校の勉強はほどほどに、大学まで行ってるようじゃ間に合わないぞ」と進路指導を始めたならば、それは罪作りというものだろう。サッカー選手以外の道も知る必要があるし、彼/彼女がそれなりの年齢になった時、この類の人気が凋落しているかもしれない。はたまた、いくつになってもこの立場という訳にもいかないだろう。

だから思う。子どもたちに問うべきは、「将来の夢」ではなく「現在のありよう」だと。いま、何に興味をもっていて/もっていなくて、何をしていて/していないで、いるかということを。そして、そこには見えていないことを言ってやることで、気づきを与え、もって「じゃあ、どうしようかな、これから」と考えるきっかけを提供すること。いい加減で、責任の取りようもない「将来の夢」など言わせるのを止めて(そもそも、高学年にもなれば思うのではないだろうか。「こうしたことを言うのって、けっこう恥ずかしい」と)、より視野を広げる方向でのやりとりへと誘うこと。これこそ、教育-学習の場にふさわしいのではないだろうか。

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by walk41 | 2018-03-17 10:15 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

不思議な文章

あるホテルの案内に、次の一文があった。

館内の換気は清掃時に十分にいたしておりますが、気になる場合はご容赦ください。

気になる場合は「おっしゃってください」とか「フロントに消臭剤がありますのでご利用ください」と続くと思いきや。

こうした不思議な文章は、国語教育の教材に遣えるのではないかしら。

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by walk41 | 2018-03-13 06:25 | ことばのこと | Comments(0)

「いじめ」問題の見方

中学校教員と話をしながら、なるほどと思わされた。その一つは、いわゆるいじめ問題についてである。

「嫌な気持ちになった」を含む「いじめ」被害について、ある生徒から訴えがあるとする。現在の定義では、本人がそう感じたら「いじめ」の認知件数に含まれるが、日頃、生徒たちに接している教員が感じるのは、むしろ、その生徒がまわりに、ちょっかいを出して(関西では、「要らんことしい」とも言う)煙たがられた結果、たとえば「みんなが自分を避ける」、「自分が仲間はずれにされている」と感じるに至っているのではないか、ということだ。

「いじめ」の起こることが望ましいとは決して言わない。けれど、これは対人関係上、一方向とは限らず、また、受け止めを問題にする限り、敏感さ/繊細さの度合いによって事態の認識が変わってくる点で、けっこうな相対感覚を要するテーマなのだと改めて思う。「いじめられた」と感じる生徒が遠因で事態が発生している可能性、「気にしい」が著しいゆえに認識されうる可能性も含めて(逆に、閾値が高すぎて、つまり、鈍いゆえに問題である可能性も含めて)、考える必要があるのだなあと思わされる。

この点で「いじめられる方にも原因がある」という生徒の言い分は、限定付きながら妥当性を持っていると思う。以前の拙ブログに書いたが、鼻水を垂らす児童がクラスメイトを追いかけた結果、当の児童が「みんなにいじめられている」と言い出すほどに、まわりから忌避されたケースを思い出す。回りの声を勝手に代弁すれば、「あんたがウチらに嫌なことをするからやんか」だろう。ときに、嫌な思いをする児童が多くなるほど、「いじめ」は認識されにくくなるのだろうか。

かくも、コミュニケーションの起点と展開は実に曖昧で、対人関係についてはおよそ正確に事態を捉えがたい。どこから始まったのか、何がどうなって、こうなったのか。漏れなく説明するのが非常に難しいのは、関係者の怠慢のせいとばかりは言えない、なぜって、当人ですらよくわからず、受け止めの主観性、記憶の混乱、感情のもつれ、といっそう複雑になっていくのだから。



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by walk41 | 2018-03-13 06:11 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

逆さスイレン

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大学と中学校にて、連続する勤務が続いていましたが、ようやく丸一日休みがとれました。

訪れた温室では、スイレンとハスをたくさん見ることができ、ほっこり気分になった次第です。

逆さスイレンとも言うそうですが、水面にスイレンが映り、上下に花開いたかのように見えます。水中から伸びる茎の先に、限られた時間、こんな美しい花を見せるとはと、自然の不思議さを実感しました。



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by walk41 | 2018-03-11 07:52 | Comments(0)

学ぶことと身体の解放

ある学校からの年度末報告を聞いて、思わず身体をのけぞった。授業で望ましい条件として、「膝を前に向ける」「気をつけ、礼。よろしくお願いします、で始める」「話している人の目を見る」といった、児童・生徒の身体の動きに関する細かな規定が挙げられていたからだ。

この手の精神論・根性論の源泉がどこにあるのかは知らないが、いずれであれ、人間の身体と認知・感情との関係を理解していない、少なくとも考えていないがゆえの「無茶ぶり」だと私は思う。学びに際して、身体が自由であること、その主体に委ねられることは第一の条件である。

新しい学習指導要領とキーワードとして散々に喧伝される「主体的・対話的な深い学び」は、文字通り学び論の立場を取る。ならば、児童・生徒がより学ぶことができるような条件を整えることが不可欠であり、そこに彼ら/彼女らの身体が視野に入らなければならない。

つまり、教育-学習論は、それぞれの児童・生徒の学び、とくに気づき、喜び、自信といった内的世界での変化に注目しており、そこには彼ら/彼女ら自身の身体とのつきあい方が前提とならざるを得ない。じっとして考える癖のある人も、歩いてこそひらめく人も、さらにはマルチタスクと複数のことを同時にこなして初めて、よりできる人もいるだろうから、みんなが同じように行動すればよい訳では決してない。

話の聞き方、反応の仕方、そもそものその場への臨み方は一様ではない、と認めること、諦めることこそ、「個に応じた指導」や「多様化するグローバル社会への対応」に適うのであって、とりわけ教育しようとする側には寛容さと忍耐が求められる。ところが、これを十分に持ち得ない教員が、「今、何もしゃべる必要はないでしょう」とか「人が話をしているとき、その人の目を見るのは当たり前」と、さもわかったようなことを反論困難な児童・生徒に言い放ち、「正義の使者」然したりする。人間を理解しない、理解しようとしない、あんぽんたんである。

現在の教育思潮は、個人の主体性に強く立脚しており、それぞれの裁量や余地(free space)を必ず伴う。児童・生徒の外的変化を求める時代にあっては、一挙手一投足が指導の対象となったが、内的変化こそ彼ら/彼女らの自主的、自律的な認識、判断、行為を導くと考えるならば、その身体の扱いもすぐれて個々に委ねられなければならない。

だから、何を着るか、どんな格好で臨むか、が一括りにできず、またそうすべきでもないことを、教育関係者は新たに学ばなければならないが、旧態依然の態度で「そんなものでしょう」「それが当たり前のことでは」と自己革新がさっぱり行われない。児童・生徒の学び論が興隆する一方、学ばない教員があまた見られる状況がまだ続いている。



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by walk41 | 2018-03-09 09:59 | 身体 | Comments(0)

国歌とジェンダーバイアス

3月8日の国際女性の日に寄せて、ドイツ家族省の地位平等問題担当官が、ドイツ国歌の歌詞の変更を提案した。具体的には、「父なる国」を「故郷」に、また「兄弟のように心と手を携え」を「勇気を持って心と手を携え」へと変えるというものである。

オーストリア国歌の歌詞が「故郷は大きな息子たち」から「故郷は大きな娘たちと息子たち」へと変更されたこと、最近ではカナダの国歌が性的中立的な歌詞へと変更されたことを受けてのものだが、これに対して、キリスト教民主同盟(CDU)や歴史学者の一部から批判が出ているという。メルケル首相もこの変更案に否定的と報じられている。

歌詞の歴史性と現在の平等理念との釣り合いをどう取るかは難しいが、問題提起としてはとても興味深いと記事を読んだ。翻って日本は「君が代」。「君」が男性か女性かなんて、議論すら起こらない状況だからね。

ニュース記事は、https://www.tagesspiegel.de/politik/deutsche-nationalhymne-heimatland-statt-vaterland/21030122.html(20180304)
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by walk41 | 2018-03-07 16:47 | ドイツのこと | Comments(0)

国家と言語の統一

ドイツのメディア、Spiegel-online で報じられた興味深いニュース(20180302)。

昨年の連邦議会選挙で躍進した右派政党の「ドイツのための選択」(AfD)が、ドイツにおける言語はドイツ語ということを連邦基本法に定めるべきだと提案。これに対して、社会民主党(SPD)の議員が、自分の母語はPlattdeutschであり、高地ドイツ語(ハノーファーを中心とした「標準ドイツ語」)だけに限るのはナンセンスだと、この言語Plattdeutschを交えながら演説したのだ。以下が原文。動画もある(Die AfD fordert Deutsch als Landessprache im Grundgesetz. Der SPD-Abgeordnete Johann Saathoff führt darauf diesen Antrag ad absurdum - in seiner Muttersprache Plattdeutsch.)。

これへの補足としてSpiegel誌は、wikipedia を引いて、いわゆる少数派言語として、Plattdeutsch, Nordfriesisch, Saterfriesisch, Dänisch, Sorbisch, Wendisch,Romaniといった言語のあることを挙げている。いわゆる方言ということだろうね。

国家として人々を国民として統一していく上で(同時に、外国人を排斥する上で)、言語が決定的に重要なことは歴史的に明らかだから、AfDはそこに着眼したのだろうが、これに異を唱えることが、21世紀初頭のグローバル化に適ったものだろう。この反対演説を支持したい。

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by walk41 | 2018-03-03 23:51 | ことばのこと | Comments(0)

surimi

ドイツの友人宅で晩ご飯をご馳走になった。

色々なお皿や鉢をところ狭しとテーブルに並べてくれたが、その一つに、エビの形をした練り物があった。食べるとけっこう美味しい。これはとたずねると、surimiだと言う。なるほど、瓶詰めのパッケージにもそう記してあった。「すり身」かあと驚いた次第だ。

webページを検索すると、紀文アカデミーのホームページ https://www.kibun.co.jp/knowledge/neri/geography/eurokikou02/ 中に、スペインのマーケット訪問記が載っていた。彼の地でも、魚のすり身が売られているとのことだ。

Tofu豆腐、Sushi寿司などと並んで、Surimiも国際語になるのだろうね。面白いなあ。

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by walk41 | 2018-03-02 22:17 | ドイツのこと | Comments(0)

研究の国際交流

ドイツを訪問した際に、授業の主観的側面と客観的側面のいずれにも配慮した授業研究、「エビデンスにもとづく授業診断とその開発方法」(Evidenzbasierte Methoden der Unterrichtsdiagnostik und–entwicklung, 略記してEMU)に携わっておられる、Herr. M. Ade-Thurow氏と面談する機会を得た。2011年に始まった研究だが、その進捗状況と課題についてお考えを伺うためだ。

その後、同氏からメールを頂戴した。研究代表であるKoblenz-Lindau大学のA.Helmke教授に、過日の私との話を伝えられたところ、2014年に日本語で紹介した論文(榊原禎宏・清水久莉子「授業を観るとはどういうことか―ドイツにおける「エビデンスにもとづく授業診断とその開発方法」の提案―」『京都教育大学紀要』No.1252014https://docs.wixstatic.com/ugd/b7f39f_c29a6986e8224f149834c8a8a2a03587.pdf) を、EMUのホームページ (www.unterrichtsdiagnostik.info) に掲載していいかと問い合わせがあったというのだ。実に嬉しいことである。

おそらく近々、同ホームページにアップロードされるだろう。より丁寧に研究に臨みたいと思う。




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by walk41 | 2018-03-01 10:36 | 授業のこと | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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