学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

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「置き勉」

「ランドセル 重くない?」(朝日新聞、20180528)を興味深く読んだ。

約40年前の教科書とくらべて今の教科書は、サイズも大きく紙質もよいために、かつての倍ほどの重さがあるのだという。首都圏でのある調査では、小学生のランドセルの重みは平均5~7キログラム、ランドセル自体の重みも加わって、小さな子どもには相当のものだろう。これに傘やあれこれの持ち物もありうる。

それに対して、「全部持ち帰りするのが普通」という同調圧力が、教員や子どもたち間で加われば、子どもの肉体的・精神的負荷はかなり大きくなる.学校での勉強以前の環境として問題にすべきではないだろうか。必要のな教科書は学校に置いておく「置き勉」も、一部では認められているようだ。

ひるがえって、ドイツの初等・中等学校での教科書は貸与制。子どもは学校でこそ教科書を遣うものの、教科書は学校のつまり町の財産だから、家にはもって帰らない。宿題もワークブックか配られるプリントが主と思われる。だから持ち帰りもそれほど重たくはないはずだ。

教科書無償法によってすべての子どもに教科書が配られる仕組みが、「だからもって帰りなさい」ということにも繋がっているとは、「予期しない結果」、まったく皮肉なことでもある。デジタル時代、紙媒体の教科書はもうおしまいなのだろうか。

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by walk41 | 2018-05-31 09:40 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

音楽教育のスタンダード論④

音楽の特別の位置

音楽科はスタンダードの議論の例外と扱われてはならない。音楽科が新たな「違う立場」へと押しやられなければ、ようやくギムナジウムのほかの教科と関連づけられ、また適切な教育スタンダードをめぐる、すでに何年にも及ぶ活発な議論に関わることができる。学年ごとのテスト、とりわけ中心教科でのテストと数学のカンガルーテスト(訳者注、オーストラリア、シドニーの数学教師が開発した多選択肢式の競争テストが原型。1978年に始まった。ドイツではベルリンのフンボルト大学数学研究所が担っている。)などの競争テストがいい例になる。音楽を、教科内あるいは教科をまたぐ教育内容を持つ、複数教科群の中の独立した教科と見るならば、他の教科が独自性を持つと見なされるのと同様に、音楽もまた検討されなければならない。

そして、PISAといった国際的な研究が、音楽的、美術的、歴史的な知識を抜いた、わずかな教科や領域に限られている状態で、その課題や目標にふさわしいのか(あるいは、ふさわしくあるのか)べきかどうかという疑問が強まるのである。

スタンダードのための事例ー5学年から7学年における音楽実践

下級学年での検討によって、音楽科のスタンダードをいかに作成すべきかが明らかになるだろう。その際、バイエルン州立学校教育・教育研究所による音楽に関する専門的知見に言及したい。新しい学習指導要領における音楽科は、全学年の教育内容と目標を、音楽実践、文脈における音楽、音楽とその基礎で構成されることを本質にしている。そこでの基礎的な音楽教育での知識は、自分で歌うこと、音楽を奏でること、ダンス、表現と音楽鑑賞と常にまた専ら関連づけられる。ここから、スタンダードの定義については、音楽実践の領域にとくに留意されることが明らかである。

「歌う、音楽を奏でる、運動する」領域

・歌を歌う、カノン、台詞、ポップス、スピリチュアルの演奏、伴奏、前奏・間奏・後奏、リズム合わせ、シーン・物語・写真・テキストへの音入れ、音楽に合わせた動作、ダンス、民族舞踊。

・コンピテンシー段階1:自作の楽譜と編曲のメロディとリズムの演奏、同様にグループでも。簡単な伴奏の正確な演奏、聴き取った後を含む簡単なメロディの演奏と伴奏、簡単な動作とダンスでの相応しい表現、その際、正しいリズムでのグループでのコーディネーションを含む。

・コンピテンシー段階2:正確な振る舞い、呼吸、発声、正確な演奏技術、長い曲においても間違いのない表現、楽器の確実な操作、自分の音楽的アイディアの記譜、複雑な曲も操れること、ふさわしい動作のできること。

・コンピテンシー段階3:高い演奏能力、卓越した、強く確かな表現、演奏を暗記していること、長い複雑な曲の卓越したまた創造的な表現、優れた技術を駆使できること。


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by walk41 | 2018-05-29 18:55 | ドイツのこと | Comments(0)

「女子力」

「均等法」は解決策か(朝日新聞、20180529)の記事中、ケネス・盛・マッケルウェイン氏の語りに、自分の考察のなさを知らされた。

曰く「3年前、20年ぶりに米国から帰国して驚いたのは、「女子力」という言葉ができていたことでした。飲み会で料理を取り分けたり、字がきれいだったりすると、「女子力が高い」と言われる。女性は周囲に気を遣うべきだという意識の現れです。世界的な規範は、人を性や人種などの型にはめるのではなく「個人」として尊重する方向に進化しているのに、逆行だと感じました。」

なるほど。特定の想定にもとづく「女子」に近づくことが高評価を得るという仕掛け見抜かなければならないのだなあ。「男たるものは」「女のくせに」と同じだということにちゃんと気づいていなかった自分のあんぽんたんさに呆れる。

これを敷衍すると、「〜力」という言い方は、認知資源の消耗を避けるためか、十把一絡げに物事を捉える方向へと誘う、それこそ力があるように思う。束ねて捉えることの意義もわかるけれど、それで事足りたとしない「わからなさに耐えることのできる能力」(negative capability)をより養いたいと思う。あれっ、これも「〜力」の一つかしら。

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by walk41 | 2018-05-29 07:54 | ことばのこと | Comments(0)

当たり前を疑うことの大切さ

奈良県警は、奈良、大和郡山市の人身事故が多発していた交差点2か所で、歩行者用信号機が車両用よりも5~6秒早く青色表示するよう改良したところ、人身事故がゼロになった。(読売新聞、20180528)

歩行者用信号を早く青にすることで、クルマが自動車用信号に従って歩道に進入する時には、すでに歩行者が歩き始めており、ドライバーの視野に入りやすいことを狙っての新たな措置、どうしてこのことに気づかなかったのだろうと思う。

あるルールや基準が決められると、それが慣性を持ってしまい、あたかも自然現象かのように生活に馴染んでしまう。ところが、そのルールの根拠をと問われると、よくわからない。何となくそうなのだと返すしかないのだ。

そこで一つ踏ん張って、違うルールを導入すれば、思わぬ効果を得られることがある。これを促すべく、日常という怠惰さを振り払う気力と勇気を持つこと、そのための思考体力が重要だなとまたもや思わされる。

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by walk41 | 2018-05-28 14:25 | 身体 | Comments(0)

雰囲気が一変

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伊丹空港にて。到着ゲートが一本化され、閉鎖されたかつてのANAゲート。

人の動き、お店の様子で、雰囲気ってこんなにも変わるものですね。

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by walk41 | 2018-05-28 11:50 | Comments(0)

音楽教育のスタンダード論③

57ページ スタンダードの一般化と成功裡の実現へのステップ

音楽教育を成功に導くには、次のようなステップと教育スタンダードを関連させることが有意義だろう。
・教科の教育目標に関する合意
学校種または学校のプロフィールに適うミニマムスタンダードあるいはコンピテンシーの段階を伴った、コンピテンシーモデルに関する合意
・教育の実施と教材の担保、コンセプトと教材開発、研修
・教科専門グループによる学校カリキュラムの開発
・参考例と評価に向けたテストの開発
これら5点がすべて伴って始めて、音楽科の質的開発のプロセスは意味あるものとなる。加えて、州をまたぐ取り組みが適切でありまた効果的だろう。州ごとのエゴイズムにもとづく政治的関与は、これらの開発を妨害または台無しにするものである。
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極めて具体的にスタンダードを考える Markus Köhler

バイエルン州での8年制ギムナジウム(G8)の導入は、教育スタンダードに関する現在の議論をバイエルン州の視点から補うものになるかもしれない。それは、2つの観点において重要と思われる。

バイエルン州の概観
バイエルン州のギムナジウムにおいて、音楽は非中心科目(Nicht-Kernfächer)の枠内で選択必修の「同等の」科目として、7学年から位置づけられ、5学年から10学年を一貫してすべての生徒へ必修科目としてされている(5-7学年は2時間、8-10学年は1時間)。

8年制ギムナジウムのコアとなる集中的授業時間は、中心科目の知識を確実にし反復することを基本とすべきものであるが、それはすべての教科に適用、つまり音楽にも充てることができる。このことは、、とりわけ中心教科に集中する必要のない生徒たちにとっては有意義なことだろう。8年制ギムナジウムのこの先、11、12学年においては、音楽は2時の音楽との選択必修になる。

中央アビトゥア試験(訳者注、大学入学資格試験)を意義あるものにするには、スタンダードが下級、中級の学年においても意識されることがさらに重要である。
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by walk41 | 2018-05-27 21:25 | ドイツのこと | Comments(0)

音楽教育のスタンダード論②

教育スタンダードと音楽教育のためのスタンダード

教育スタンダードという教育改革は、3つの内容で特徴づけられる。

a)各ドメインにおける教育目標の合意ーたとえば音楽教育

b)構造を伴うコンピテンシーとしてのスタンダードの確定

c)実際に獲得したコンピテンシーの検証・追跡

a)に関して。学校の教科としての音楽科の、一般的な教育目標は次のように記されうる。生徒は日常の個人的な音楽的環境に加えて、継続的に多様な経験を得ることを通じて、自身を育てることができる。生徒は様々な目的にふさわしく音楽を活用でき、さらに美学的に自身と世界の理解を拡げることができるようになる。

b)に関して。教育の過程は音楽的コンピテンシー(追跡できるパーフォーマンスで示される)を求め促し、また様々な部分においてではあるがスタンダードが形作られうる(たとえば、動く、歌う、楽器を演奏する、気づく、読む、記す、聴く、知る、そして文章を記す)。スタンダードの具体的な定式化は、これまでのところ、芸術教育のナショナルスタンダード(訳者注、アメリカ音楽教育協会NAMEによる)あるいは、バーデンーヴュルテンベルク州のギムナジウムでの音楽科に見られる。

コンピテンシー獲得の持続性という点については、あらゆる部分が重要である。現在の音楽教育においては、持続的な遂行能力を得ることなく、部分的な内容が学習者に示されることが比較的好まれると予想すべきだろう。その際、実施されるべき授業のための拘束力を持つスタンダードが、さらに有効である(すべての学習者のための最低限のスタンダードそして/あるいは、そうした様々なコンピテンシー段階)。

c)に関して。持続性または教育スタンダードへの学習過程の結果を検証・追跡し改善を図るために、3つ目の内容として評価は是非とも必要である。「アウトプット」の実証研究からは、実際的な、希望的観測だけではない学習過程に関する知見があり、また学習過程を向上させるヒントも提供してくれる。また、コンピテンシーモデルそのものの検証や追跡に加えて、連邦研究教育省(BMBF)の専門家は調査を実施することがスタンダードにもたらす3つの機能について言及している。

・システムあるいは教育モニタリングは、教育スタンダードがシステムレベルにどれほど影響を及ぼしたかを検証するものである。

・学校評価は、ある学校が教育上の目標をいかに達成したかを検証し、その個別の条件を明らかにする。それは改善へのヒントでもある。

・個人の診断は、個々へのサポートへのヒントになる。

現在の教育修了や個々の達成評価に関する比較作業において、学習結果の改善とその条件に注目すべきという最近の評価論は、必ずしも一般的ではない。それどころか、成績の振るわない生徒は自身の不十分な学習条件に責任を負うべきとの論調すら導きかねない。こうしたことは、教育スタンダードそして音楽教育を擁護する立場にとって正に反対のことである。


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by walk41 | 2018-05-26 21:52 | ドイツのこと | Comments(0)

女の子の振る舞い

学部生での授業で、学校文化と青年文化の葛藤、対抗文化としての「真面目嫌い」および、それへの同調としての友人関係が、とくに女子に観察されるのではないか、と投げかけた。

聴く限り、多くの学生は学校が好きで教員にも好かれ、かつ友達とも仲良く楽しく過ごしてきたらしい。彼ら/彼女らが、往々にして反学校的な青年文化とが上手く付き合うことができたからこそ、教員になりたいと教育系の大学までやってきているのだなあと、その器用さを少し羨ましくも思った。

学校の価値観をおかしいなと思いつつ、その一方で実にいい加減な教員たちに呆れつつ、「真面目」であることから離れられず、成績の良さや学級委員に選ばれるといった「正統」派を自認するしか生きるすべがなかった。そんな自分の中学校時代を思い出すに、出会う学生のたくましい「生きる力」に驚かされる。

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by walk41 | 2018-05-26 10:32 | 身体 | Comments(0)

音楽教育のスタンダード論(ドイツ話題)①

21世紀に入ってすでに久しいが、この間、日本でも公教育の質保証、数値化ほか客観化されたエビデンス(証拠)重視、といった主張のもと、学校教育としての達成すべきスタンダード(基準)が発表され、またこれに対して議論がなされている。

この背景には、児童・生徒によって学び方は多様であり、生涯学習とも言うのであれば、学力や意欲、態度などが短期的に測定、評価されうるはずもないという立場と、投じている様々な資源を有効かつ効果的に活用してこそ、公教育としての責任を果たすことができるという立場との葛藤がある。

この帰趨はどのようだろうか。それは、主要教科などとも呼ばれる領域ではないところを見ることで明らかになるだろう。なぜなら、主要教科には、歴史的に3Rsとも称されてきた「読み、書き、計算」があるが、これらは、実際の生活でも必要性が高く、何らかの基準や目標は必要であり意義あることと考えられてきた点で、現在のスタンダード論との親和性が高い点で、上記の葛藤が少ないと考えられる。

これに対して、実技科目とも呼ばれる芸術、音楽、スポーツについては、いわゆる「生まれつきの得手不得手」もあるかのように言われる面もあり、また個人の好みや偏りも少なくない領域と見なされることから、基準を立てることには大きな抵抗があると推測される。はたして、この領域で達成すべき目標を、さらにそれをコンピテンシー(遂行能力)として求めることができるのだろうか。また、それはコンピテンシーや広く学力の捉え方にどんな影響を与えるものだろうか。

こうした問題設定から、以下、ドイツでの資料を複数回に分けて紹介したい。それは“Musik und Bildung-Die Zeitschrift für Musik in den Klassen 5 bis 13(音楽と教育ー5学年から13学年における音楽誌)という季刊の雑誌に、「音楽科におけるスタンダード」というテーマで意見が開陳されているものである。ここでは、中等教育段階での音楽教育を前提にしていることを踏まえる必要があるだろう。まずは拙訳を行い、その後、議論を試みたい。
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Musik und Bildung 4/200456-63ページ。

討論ー音楽科のスタンダード①

Johannes Bähr スタンダードー議論の前提と目的(前半)

普通教育学校での音楽の授業が成功しているならば、スタンダードに関する議論は不要だっただろう。成功しているとは、学ぶほぼすべての者が少なくとも数年間ー予定されている授業時数のようにー比肩に値するまた質的に高い学習機会を得ていることであり、それが音楽的能力、達成、知識や視野を持続的に確かなものとするのである。

こうした成功した音楽の授業を想定することがほとんどできないのは、経験的に明らかである。またその原因もせいぜいのところ部分的にしか明らかでない。量的には、教員不足と恐ろしい授業時数から、隙間だらけで、多くのところで十分な音楽の学習というには不十分な状況である。どれだけ多くの子どもと青少年がほんのわずか、あるいはまったく音楽の授業を受けていないことだろう(どれだけの授業不足が起こっているかの研究は残念ながら知らないが)。質的に見れば、著しく不均一であり、音楽的技能や知識への持続的効果をほとんど見込めないものが大半であるーこれまでの残念ながらごく僅かの実証研究から、そのように推測しなければならない。

これらを踏まえると、スタンダードをめぐる議論は方略に関するものと、内容に関するものの二つのテーマを立てることができる。まず方略に関しては、スタンダードが国家/州によって拘束力あるものとされるならばーそうでないのならば、何ももたらさないからー論理的帰結として、すべての者に対する適切で同様の条件を作り出すことをも義務づけるものとなる(加えて、十分なスタッフ、時間、教員の養成と研修、施設設備)。それが適切に運営されなければ、スタンダードと結びついているコンピテンシー(遂行能力)は達成されえない。よって、方略上の議論のゴールは、比肩に値する良い諸条件を創出することである。

また、内容上のテーマについて、スタンダードは教育ドメインでの音楽科に関する集中的な義論を通じてのみ確立され、適用されうる。音楽の授業でしべての子どもに何が(少なくとも)学ばれるべきか、が議論されるべきだろう。それは、教育内容と教員の養成・研修に大きな影響を与える、教育方法上の結論とコンセプトに関する実際的でで実現可能な音楽教育の目的についてである。よって、スタンダードに関する内容面でのゴールは、音楽教育のさらに質的な発展にも繋がっている。


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by walk41 | 2018-05-25 17:32 | ドイツのこと | Comments(0)

ダブルスタンダード(二重基準)

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中央本線沿い、警報器や遮断機のない「第四種踏切」または「勝手踏切」とも言われるところを見た。

入るなというメッセージの一方、フェンスの間が空けられ、階段もつけられている。おそらく住民は日常的には通っているのだろう。だからこそ「観光客等の皆様へ」とあるのだと思われる。住民は別だよというメッセージでもあると読んだ。

ダブルスタンダードという言葉は、良くない意味合いでまま使われるが、この場合はこれでいいのかなとも思う。生活に馴染んでいる人が通る場合と、いわば一見さんの観光客が通る場合の危険度の違いを想定してもよいだろうから。

とまれ、鉄道と生活圏との共存はなかなか悩ましい。「こうした踏切はなくすべき」「すべての踏切に警報器、遮断機をつけるべき」のいずれにも行きにくい、白黒つけがたい例のひとつかと思う。

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by walk41 | 2018-05-24 10:03 | ことばのこと | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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