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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

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これも異議あり Ich erhebe Einspruch

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みなさんはどう思われるだろうか、このような学級目標を掲げることについて。私は異議あり、反対だ。

クラスと呼ばれる学級は、たまたまそうなった、同一年齢の児童‧生徒の集合に過ぎない。何かを一緒にやろうと集った仲間でもないし、そもそも目指すべき目標がある訳でもない。中学校や高校で懸命に臨む生徒もいる部活動のうち、チームプレイが求められる活動ならば、このスローガンはあてはまるだろう。もちろん、それは学級や学年をまたいでおり、クラスの事項ではない。

くわえて、目標は児童‧生徒の外から与えられる進級や卒業、上級学校への進学であり、彼らの自発的なものとは見なせない。また、仮にそうだと想定しても、一緒にやるべき事柄ではない。学級を単位に行われるべきことは、文化祭での合唱や劇などであり、それとて皆が全員やりたい訳でもない。一部を除けば、まあ消極的なお付き合い留まりなのだ。

現に、「みんなで助け合って」「互いに協力して」などと言われる一方、定期試験などになると、クラスメイトと切り離されて、カンニングができないように監視されるという矛盾が起こる。なぜか、「一緒に満点の答案を作ってごらん」にはならない。こうした試験をしてこそ、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」なのに。

つまるところ、上のようなスローガンに合わない仕掛けとして学級が位置づけられているのに、教員個人の好みや偏見に過ぎないものを、いいことだと自分が思うから「なんとなく」作らせ、教室に掲げる。

実際には無理なことを、そうあるべきと自分の価値観を優位させて無理を求める。現実的でないことを「そうなければいけない」と、認識の逆立ちをする。こんなことをする教員は、まさに「頭でっかち」で「机上の空論」を振りかざしているのだ。そして、これに反する言動(「塾があるから帰ります」「それは人それぞれだと思う」といった)が見られると、学級目標を錦の御旗に見立てて、糾弾する。「みんな、仲間じゃないか」、「人という漢字は互いに支え合ってという意味からできている(間違い)」と。

学校教育法、学習指導要領、各学校の教育目標にも掲げられていない、少なくとも現在の社会では公共性の低い価値観が押しつけられる。力関係が明瞭な状況での、教員の児童‧生徒に対する暴力とすら言える行為がここかしこに見られること、まったくの悲劇である。



by walk41 | 2019-03-31 14:01 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

こんなことが許されるのか Ist das genehmigt in der Schule?

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私の知る限り、ドイツの学校では、学級目標なるものはないといってよいと思う。クラスのルール(物を大切に扱う、互いに敬意をもって接する、といった)はあっても、クラスのメンバーを方向づける、束ねるような文言は見当たらない。

翻って、日本語で学級目標と検索すると、上の写真のようなページが出てきて、まったく驚かされる。ここで「戦闘」が「たたかうこと。特に、兵力を用いて敵に対し、攻撃・防御などの行動をとること。」(goo国語辞書)だとすれば、日本国憲法に謳う平和的な態度に反する点で大きな問題であるし、存在しない文字を公然と示している点で言語教育上も看過できない。

こんな担任教員の趣味や偏りが放置されるほどに、学校はチームではないし、協業的でもないとも言えるだろう。思い出すのは、もう5年ほど前になるだろうか。ある中学校を訪問した際に見たのは、「狂力」(きょうりょく)と記された「学級目標」だった。およそ上品な表現ではない。

教育という活動が、個々の状況認識と判断、そして行為にならざるを得ない面があるために、各教員の個業性が残ることは職務特性だけれど、それは自動的に、各教員の「好き勝手」を認めるものではない。こんな「学級目標」を見た生徒が呆れて教員につきあってくれる構図にとどまればまだ幸いだが、教員が「目標実現に向けてみんな頑張ってるのか」などと叱咤しようものならば、笑い話ではすまなくなる。ホラーである。

だから、教員は自分を「教師」と個業性を前提とするような言い方は避けるべきだし、ましてや自分を指して「先生はそう思わないなあ」などと先生呼ばわりする愚を犯してはならない、と私は強く思う。


by walk41 | 2019-03-30 10:04 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

大きくなる公共圏 vergrössertes Öffentlichsgebiet


ドイツでは、2020年から「諸州の財政的バランスに関する新規定」(Neuordnung des Laenderfinanzausgleichs)が発効。連邦政府は97.5億ユーロ、およそ1兆2000億円を州に対して支払うことができるようになる。この措置のためには、連邦基本法(連邦憲法)の13の条項の改正が必要であった。

これにより、高速道路、遠距離鉄道、学校教育などの分野での、連邦の州に対する関与が強まる。連邦国家において、どこまで連邦が関わることができるかという問題である。

この決定に至るまで、経済力の高い州、たとえばバイエルン州は、州が支出すべき総額のおよそ半分をも自州が負担することになる「極めて不公正」だと、憲法裁判所に訴えを起こすなど反発を強めていた。この規定の結果、たとえば、ザクセン-アンハルト州は、8億ユーロ、約1000億円多く受け取ることになる。

社会保障、難民対応を含めて、かさむ費用に苦しむ州をサポートするには、連邦の出動を要する。そのための原資をどのように調達するか。ここに連邦国家としての団結、連帯(Solidarität)が求められるが、人々の抱く故郷、国家、公共に関する理解には、相当の幅がある。けれど、対応、解決すべき問題はより広域化、複雑化しており、より広い公共圏が生じていることも事実である。


by walk41 | 2019-03-29 08:59 | ドイツのこと | Comments(0)

変わる社会

便利な世の中になったもので、昔のテレビ番組をインターネットで見ることができる。1991年放送の「101回目のプロポーズ」を見ていたら、現在と違うと思われるシーンをいくつか見つけた。

①武田鉄矢が演じる主人公星野が、シャンパンを「シャンペン」と言っている。

②屋内でのタバコと灰皿が(自然な光景として)映っている。また大学キャンパスの食堂で喫煙をしている。社員食堂のシーンで、星野がたばこを吸いつつ、蕎麦を食べている。

③外での電話は黄緑色の公衆電話である。また家電話の子機が、高さ30センチはあろうかとても大きく、テーブルに立つほどである。なお、かかってきた相手の電話番号や名前は言ってもらわないとわからない。受け取った側も名乗るのが普通である。個人単位のケータイ、さらにスマホは、もちろん見当たらない。

④電車に乗り込むシーンで、駅弁の上にプラスチック容器に入ったお茶(ペットボトルではない。実に不味いものだった)が載っている。また、東京-浜松間が、ちょっとした旅行として描かれている。

⑤会社の事務机の上に、パソコンがさっぱり見当たらない。

もっとも、意外だったのは、この時代ですでにセクハラという言葉が市民権を得ていることである。

他にも違いがあるだろうが、この約30年の間、着実に社会の環境や人々の意識が変わってきたなと思わされる。



by walk41 | 2019-03-28 14:07 | ことばのこと | Comments(0)

グローバル化という葛藤 Konflikt mit der Globalisierung

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びっくりするニュースに接した。2019.3.27付けSpiegel Online http://www.spiegel.de/panorama/justiz/brunei-fuehrt-todesstrafe-fuer-gleichgeschlechtlichen-sex-ein-a-1259961.html、によると、厳しい保守的なイスラム国家として知られる、ボルネオ島北部に位置するブルネイでは、来週水曜日から施行される新憲法に、同性間のセックスに対する死刑が定められたという。

これまでも同行為は違法とされてきた同国だが、それが厳罰化の方向を取っているとSpiegel誌。また、万引きに対する罰則も強化され、初犯は右手を切断するとともに、繰り返し万引きを行った者には左足を切断することがある、と定められたとも報じている。

これに対して国際的人権団体アムネスティは「残酷で非人道的」、同性間のセックスは触法行為ではないと、即時の停止を求めている。

グローバルに物事を考えようとは言われるけれど、そこで生じる葛藤に私たちははたして耐えることができるだろうか。



by walk41 | 2019-03-28 08:54 | 身体 | Comments(0)

形式重視の学校 Form orientierte Schule

。「何度も卒業式の練習、必要か」(朝日新聞、2019.3.19、投書欄)を読み、この点も日本とドイツの学校の違いではないかと思わされた。

南ドイツのある初等‧中等学校に伺っていた際、翌日のスケート教室のことで校内放送が流れた。声の主は校長である。「明日のスケート教室に行く人は、8時5分に出発するバスがあるので、これに乗ること。」以上である。日本ならどうだろう。バスが出発する30分前が全体の集合時間になる。遅れる人が出た時のためだ。教員はそのさらに30分前に集合しなければならない。最終の打ち合わせのためだ。管理職はさらにその15分前に学校にいること。こんなスケジュールが組まれること、必至である。結果、教員も生徒も手持ちぶさたな時間がしっかり流れる。しかも、待ちくたびれておしゃべりを始めたら、「静かにしていなさい」と説教される。楽しい行事なのに、のっけからわやである。

また、ドイツの同じ初等‧中等学校で月に一度ひらかれる全校集会。体育館で行われたが、基礎学校1年生こそ学級担任に連れられて固まっているものの、決して整列などではない。他の生徒たちは、友達と一緒だったりの三々五々である。それらは列をなしていないどころか、学年もクラスもばらばら、いわばぐちゃっとした状態で、壁にもたれかかっている生徒も、その辺に寝転がっている生徒もいる。教員もばらばらとあちこちに見える。おおよそ全員が入ったと思われた頃、校長が話しはじめた。「もっとみんな真ん中にいらっしゃい。はじめるよ。」こうである。

対して、日本の学校、とくに中学校以上はこんな感じだろう。学年ごと、クラスごとに整列、しかも男女別(ジェンダー化の促進効果がある)、名簿順や背の順など、自分が何番目にいるかも決められたりしている。一度は座るかもしれないが、全員起立のかけ声で立たされ、「小さい気をつけ」などと腕を伸ばしては等間隔に並びなおさせられる。「人の話を聴くときは顔を上げるのが常識です」などと小言を言って、人を不愉快にさせるのに長けた生徒指導主任がいたりもする。司会も、およそ楽しい雰囲気とは無縁の緊張した調子で次第を進める。学校生活という言い方もあるが、こんな生活は嫌だな。

言わずもがな、卒業式、入学式も同様である。実に形式的で(見た感じを重視する)そうあるべく準備や確認に手間をかける。なるべく短い時間でとはならない。「何かあったときのために」「きっちりしていることが大切」という信念から解放されていないために、加重負担に拍車もかかる。学習指導要領の儀式的行事に「厳粛で清新な気分を味わい」とあるが、その達成を外から見て判断すべきという偏りがあるのだろう。気分はどこまで外からわかるのだろうか。

ともかくも、時間を惜しまず、丁寧に、くどく、形式重視で行われがちな日本の学校教育-さて、こうした見立ては適切だろうか。



by walk41 | 2019-03-25 17:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

各人に各人のものを jedem das seine

ドイツが第二次世界大戦中、ユダヤ人、ドイツ国内外の政治犯、アメリカ軍の将校まで拉致、閉じ込めた強制収容所(Konzentration Lager, Consentration Camp)を数多く設けたことは周知だが、そこでは収容者にとって大変皮肉なスローガンを伴っていた。

アウシュビッツほかの入り口には「働けば自由になれる」(Arbeit macht frei)という標語の掲げられたことが有名だが、このほかにも、ドイツ国内、ワイマールの近く、Buchenwaldの強制収容所ほかでは、"jedem das seine"(それぞれにそれぞれのものを)という、古代ギリシャにおける正義の理念に由来する言葉が使われていたことを知った。

http://www.migazin.de/amp/2018/05/24/jedem-seine-modeunternehmen-nazi-spruch/ より。
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この作品はドイツ人建築家、Franz Ehrlichによって製作されたが、それは彼が共産主義者であったために、この強制収容所に投獄されたことをきっかけにしていたと、wikipediaにある。

正義論が凶行を正統化することにもなる例と言えるのではないだろうか。人間はどこまで残酷になれるかということと合わせて考えてみたい。

by walk41 | 2019-03-25 12:26 | ドイツのこと | Comments(0)

本当かしら wirklich?

中国の四川省から日本に来ているという、留学生と話すことがあった。

懇親会の気さくな雰囲気だったので、前から思っていたことを尋ねてみたのだ。「どうして中国の人って声が大きいのかしら」と。

彼女の答えは次のようだった。昔、遠く離れている人と話をするために大きな声を出さなければならなかったこと、また、学校でも大きな声を出すようにと、教員が子どもに話すため。

聞いて、そうなのかと思う反面、そうなのかなとも思わされた。そもそも、一括りに中国の人って尋ねる方がいけないのだけれどね。

Beim gemeinsamen Essen, habe ich eine Studentin aus China gefragt, warum Chinese so laut ist. Dafür war ihr Antwort so. D.h. in der frühen Zeit war die Distanz räumlich zwischen Menschen groß, deshalb mussten sie sich mit lauter Stimme besprechen. Noch sagt Lehrer in der Schule den Kindern sie sollen mit lauter Stimme äußern.

Einerseits habe ich das logisch gefunden, jedoch andererseits war ich dafür skeptisch. Selbstverständlich ist die Frage um Chinese eigentlic nicht richtig, d.h. es besteht klar unheimliche Variante unter dem gleichen Namen Chinese.

by walk41 | 2019-03-24 15:34 | ことばのこと | Comments(0)

おおらかさ Großzügigkeit, Ungenauigkeit

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いつまでも繰り言を言うのもいかがでしょうが、ふと思い出したので、紹介します。

2018年8月、一ヶ月だけ契約したドイツテレコムの画面には、2067年3月までインターネットが使える旨が示されています。それではあまりにもおおらかすぎるだろう、と苦笑したことです。こうした不正確なことにけっこう出合ったのが、ドイツ暮らしの一面でもありました。

by walk41 | 2019-03-24 12:49 | ドイツのこと | Comments(0)

躓きの石 Stolperstein

「人はその人の名前を忘れるとき、初めて記憶から失われる」と考えた芸術家、Gunter Demningによって始められた「躓きの石」は、ナチス時代に犠牲となったユダヤ人ほか人々のことを忘れないと、亡くなった方の名前と成年、没年などを住んでいた家の前などに埋め込まれた金色の板として街中に生きています。http://www.stolpersteine.eu/

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2011年3月11日に始まる地震、津波、原発事故と避難という、日本での出来事を忘れてはいけないと思わされた時に、ドイツでのこの取り組みのことを思い出しました。




by walk41 | 2019-03-24 12:42 | ドイツのこと | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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