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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

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「星の王子さま」 Le Petit Prince

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https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784001156768 より拝借。

「大切なものは見えないよ」といった台詞で有名なこの本を、どうにか読み終えた。世界で1億冊以上も売れたとも聞くが、私が文学作品がからきし苦手な故だろう、もう一度読もうとは思えなかった。ごめんなさいね。

この中で一つ引くならば、次の箇所である。
「あんたが友だちがほしいんなら、おれと仲よくするんだな」「でも、どうしたらいいの?」と、王子さまがいいました。キツネが答えました。「しんぼうが大事だよ。最初は、おれからすこし離れて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目で見る。あんたは、なにもいわない。それも、ことばっていうやつが、勘ちがいのもとだからよ。一日一日とたっていくうちにゃ、あんたは、だんだんと近いところへきて、すわれるようになるんだ……」(98ページ)

コミュニケーション能力の育成とか「コミュ力」と言われて喧しいけれど、言葉が勘違いの元、というのは言えて妙だと思う。

ある事実を名付けする、つまり言葉を与えた時点で、事実は広がりと動きを止めて死んでしまう。とくに、人間関係における言葉は、官僚制を保つには適しているけれど、蓋然性を楽しみ、革新を誘うには足手まといにもなる。だから上の一文、諸刃の剣として言葉を捉えるべきことを伝えるものと読んだ。




by walk41 | 2019-05-31 20:08 | ことばのこと | Comments(0)

かわいい文化 Kultur „hübsch“

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知りませんでした。この春から、ハローキティ環状線プロジェクトというものが始まっていたことを。

大阪駅の表示も写真のよう。日本の文化の一つに、「かわいい」がしっかりと根付いていることを示しているように思います。



by walk41 | 2019-05-29 14:01 | 身体 | Comments(0)

「先生」という呼称

学校教育における「先生」という呼称には、敬称に留まらない意味が認められる。

それは、被教育者にそう呼ばせることで教育活動に伴う上下関係を明示化し、間接的に服従させること、そして教育者自らが自身をそう呼ぶことで、教育側の優位性を無前提に正統化し、学校を秩序立てることである。

だから、教員と児童・生徒の間では、「先生」は後者から前者への一方向しかありえない。教師が子どもに「先生」と呼ぶことは、冗談を除いて起こりえず、それすらも教育上の上下関係を危ぶませる。教育側のリスクマネジメントとして取られるべき方略ではない。

また、子どもから教師への「先生」は必須であり、尊敬できないから呼び捨てとかせいぜい「くん」「さん」にするといったことも許されない。被教育側は教育側を常に「先生」と呼ばなければならず、これを侵すこと自体が「問題行動」と見なされる。ちなみに、生徒指導論のいい加減さは、この辺りからも確かめられる。

児童・生徒の「深く、対話的な学び」を、などと唱道するのであれば、学校での主体は子ども側のはずである。ならば、彼ら/彼女らをいたずらに抑圧し、しかも自ら従わせる(呼び捨てが続く表現を乱暴にするのと同様、先生という呼称に続く表現は丁寧になりがちである)ような呼称を強制したり、それを強めるべく自身でそう呼ぶようなことは、できるだけ避けなければならない。

にもかかわらず、あまりに馴染んでいるために疑われることの少ない「先生」という呼称が、今日も学校で飛び交っている。学習指導要領にはない、各学校の教育方針にも見られないけれど、厳然と存在する学校の「隠れたカリキュラム」の代表格かと思う。



by walk41 | 2019-05-29 09:01 | ことばのこと | Comments(0)

once "elf"

アメリカのテレビドラマ、ERのシーズン8に次のようなシーンがある。

薬の飲み方を間違えたラテン系の女性が、救命救急室に運ばれてきた。薬瓶を持ってきた家族に尋ねて、その理由がわかる。"once a day"(1日に1回)をスペイン語に引っ張られて、once, 11 と勘違いしたのだ。

日本語は基本的にアルファベットを用いないから、こうした間違いは起こりにくいが、他方、似たような漢字は多いから、日本語話者でない人が日本で暮らすのは容易でないと思う。

日本における日本語を母語にしない児童・生徒とその保護者の研究と実践をしている同僚から、次の話を聞いた。

外国人児童・生徒が多く在住する滋賀県湖南市の中学校教員、青木義道氏が、写真のスタンプを考案した。ブラジルの国民的キャラクターが魅力を添えている、http://www.kinjudo.com/monicastamp.html 

素晴らしいことだと思う。

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by walk41 | 2019-05-26 09:20 | ことばのこと | Comments(0)

暴力的であることを期待される男性教員? gewalttaetiger maenner Lehrer?

高知県教育委員会による児童・生徒に対する調査で、2017年11月から1年間の間に、体罰など教諭による不適切な指導、84件が認定されたと報じられた。それらは、叩く、蹴るといった「有形力の行使」、暴言による児童・生徒の「尊厳を損なう行為」などという。(読売新聞、20190524)。

児童・生徒に尋ねる前にどれだけ明らかだったのかは不明だが、子どもに訊くことで明るみに出た事案もきっとあることだろう。57166人にたずねてこの件数とは、約0.146%、700人に一人の子どもが、教諭による暴言・暴行を認知していることになる。

アイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young)は、On Female Body Experience: "Throwing Like a Girl" and Other Essays, (Oxford University Press, 2005)にて、女性が主体的に活動するというよりも、見られる立場を期待されている可能性があると、マーゴ・デメッロ, 田中洋美 (監修, 翻訳)『ボディ・スタディーズ―性、人種、階級、エイジング、健康/病の身体学への招待』(晃洋書房、2017)で取り上げられている。仮にこの理解を受けるならば、男性はより主体的、活動的であるべきという期待を背負い、役割演技をしていることになる。

教育と異なって学習は、静的で非連続なものである。自分ですら気づかず、また行きつ戻りつする非線形なものである。だとするならば、動的で連続する、明示的でサイクルを描くことを想定した教育イメージは、男性的である。この立場から見れば、不確かでまどろっこしい学習は不快さの遠因になるだろう。そこには、教育課程の設定や「学力競争」に煽られているという背景もあるだろうが、最前線の男性的教員は、昨今の「主体的・対話的で深い学び」と親和性が低いという可能性を導ける。

ちなみに、乱暴な比較だが、「わいせつ等行為」により懲戒処分を受けた教員は、全国規模で見ればおよそ0.02%、5000人に一人だから、上の数値の約7分の1に相当する。もっとも、「わいせつ等行為」の約98%は男性によるものであり、仮に上記の「不適切な指導」も男性がより多く該当するとすれば、男性教員による問題状況の発生率は高くなる。男性的であることが持ちうる暴力性について考えてみたい。

by walk41 | 2019-05-24 16:09 | 身体 | Comments(0)

Michael Sowa の世界 Die Welt des Michael Sowas

1945年に生まれて以来ベルリンに住む、画家・デザイナーMichael Sowa の作品、”Lieber Lesen"(読書の方が好き)です。

ドイツの本屋さんにこのポスターが掛かっていたのを見て「いいなあこれ」と私が呟いていたことを家人が憶えており、こんど贈ってくれました。

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彼の作品は、facebookで観ることもできます。

その魅力をうまく形容できませんが、お勧めです。


by walk41 | 2019-05-24 08:15 | Comments(0)

「ちゃん」という呼称 Rufen mit „chen“ beim Namen

教員が児童や生徒をどのように呼ぶのかという呼称の問題について、私がとても気にしていることをご存知の方もおられるだろう。

小学校の時に「くん」や「さん」とおしなべて丁寧に接してもらっていた児童が、中学校に上がった途端に呼び捨てをされるという「中一ギャップ」の問題や、呼び捨てにするとそれに続く言葉も乱暴になりがちというリスクマネジメントの問題があり、なるべく丁寧に話すこと、また少なくとも子どもにどう呼んでほしいかを事前に尋ねるべきではないか、と研修の場で叫んできた。

そんな研修が終わった後、校長経験者の男性からこう尋ねられた。「先生は、“ちゃん“と言う呼び方についてどのようにお考えですか。」これについてしっかり考えたことがなかったのだけれど、次の瞬間にこう答えていた。「それはマスコット扱いの印象を受けますね。」

あとから振り返っても、それほど的を外した答えではなかったように思う。子どものことを可愛さ余っての表現だとわかる一方、自分の手中に収めていることを相手にも伝えているかのような表現を「気持ち悪い」と受け取る人もなるほどと思わされる。

学校段階が上がるほど、教員が自分のことを先生と呼ばないように、生徒も呼び捨てやちゃん付けで呼ばれなくなるのが適切と考えるならば、小さいながらも子どもの人権を尊重する立場としては望ましいとは言えないのではないだろうか。皆さんのご意見を伺えればありがたい。

by walk41 | 2019-05-21 16:50 | ことばのこと | Comments(0)

問題は「お金の価値」ではない。 Das ist falsch „Wert des Geldes“ zu äußern

読売新聞、2019年5月20日付に、電子マネーでお金の価値を子どもにどうやって教えたらいいのかと悩む、40歳の主婦の投書がある。

言葉が日々移り変わっていくのと同じように、言葉の関係、すなわち論理も変わっていくことをとても興味深く思う。現代から見れば、「現金か電子マネーか」という話になるけれど、時代を遡れば、現金などというものは物の価値を象徴するにすぎず、大事なことは、物そのものだという批判をきっと受けたことだろう。

それは、物々交換できること、特にそのものを自分が直接に得たことに意味があるのであり、物の姿が見えないお金にどんな意味があると言うのだろう、という批判である。この点では、現金か電子マネーかという比較は、何の意味も持たない。お金そのものに価値はないのだから。

思い出すに、 1980年代後半以降、ワードプロセッサが普及し、手書きが激減したときに、ワープロよりも手書きの方が味わいがある、といった論調が見られた。これも同じことで、時代を遡れば、鉛筆やペンではなく、毛筆でこそ礼儀にかなっているという主張があったことだろう。さらに昔に戻れば、そもそもお礼をするのに相手の家を尋ねず、郵便で済まそうとはなんと失礼かという考え方もあったに違いない。

ところが、 短いタイムスパンで物事を見ると、ワープロより手書きとか、電子マネーよりも現金、といった主張がまことしやかに見えたりもする。こうした区分は、少し視野を広げればほとんど違いのないことであるにもかかわらず。かくも当事者には大問題に映ることが、見方を変えればそうでもないということが、人間の認識の特徴を示している点で、とても不思議でかつ悩ましい。

by walk41 | 2019-05-20 23:39 | ことばのこと | Comments(0)

問題は「お金の価値」ではない。 Das ist falsch „Wert des Geldes“ zu äußern

読売新聞、2019年5月20日付に、電子マネーでお金の価値を子どもにどうやって教えたらいいのかと悩む、40歳の主婦の投書がある。

言葉が日々移り変わっていくのと同じように、言葉の関係、すなわち論理も変わっていくことをとても興味深く思う。現代から見れば、「現金か電子マネーか」という話になるけれど、時代を遡れば、現金などというものは物の価値を象徴するにすぎず、大事なことは、物そのものだという批判をきっと受けたことだろう。

それは、物々交換できること、特にそのものを自分が直接に得たことに意味があるのであり、物の姿が見えないお金にどんな意味があると言うのだろう、という批判である。この点では、現金か電子マネーかという比較は、何の意味も持たない。お金そのものに価値はないのだから。

思い出すに、 1980年代後半以降、ワードプロセッサが普及し、手書きが激減したときに、ワープロよりも手書きの方が味わいがある、といった論調が見られた。これも同じことで、時代を遡れば、鉛筆やペンではなく、毛筆でこそ礼儀にかなっているという主張があったことだろう。さらに昔に戻れば、そもそもお礼をするのに相手の家を尋ねず、郵便で済まそうとはなんと失礼かという考え方もあったに違いない。

ところが、 短いタイムスパンだけで物事を見ると、ワープロより手書きとか、電子マネーよりも現金、といった主張がまことしやかに見えたりもする。こうした区分は、少し視野を広げればほとんど違いのないことであるにもかかわらず、当事者には大問題に映ることが、人間の認識の特徴を示している点で、とても不思議でかつ悩ましい。

by walk41 | 2019-05-20 23:36 | ことばのこと | Comments(0)

排斥が進むオーストリア Exklusion in Österreich

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同じドイツ語圏ではあるけれど、多様性や異質性を重視しようというドイツに対して、隣国のオーストリアは少し事情が違うようだ。

Spiegel online, https://www.spiegel.de/politik/ausland/oesterreich-beschliesst-kopftuch-verbot-an-grundschulen-a-1267656.html は次のように報じている(写真も)2019.5.15付け。

オーストリア国民党とオーストリア自由党の賛成により、基礎学校におけるヘッドスカーフを禁じる法案が可決。

オーストリアの基礎学校では、子どもはヘッドスカーフを身につけてはならない。右派の保守政権の賛成によりオーストリア議会が議決。しかし、この通りに法律化されるかどうかは、まだ不透明だ。

保守の国民党と右派の自由党の賛成、可決により、今後「頭を覆うという、世界観あるいは宗教色に彩られる衣装を身につけること」が禁じられることになった。ただし、雨や雪から頭を守るためという医学的理由は除外される。また、ユダヤ教のキッパ(男性が頭につける小さな覆い)については、「頭全体またはその大部分を覆っている」という衣装禁止の点から言って、許容範囲である。もっとも、この法律に対しては、憲法裁判所への異議申し立てが行われる見込みだ。

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いかがだろうか。宗教的アピールだと反対を主張する立場と、思想・信条の自由あるいは宗教の自由を主張する立場の衝突。「社会の秩序」と寛容さとの葛藤を、いかに乗り越えることができるだろうか。


by walk41 | 2019-05-19 13:42 | ドイツのこと | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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