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学校・教職員の現在と近未来 Gegenwart und nähere Zukunft der Schule und ihrer Mitglieder

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教員こそルールを守るべき Vor allem soll Lehrer die Regeln befolgen.

学校教員の中には、「社会にルールがあるように、学校でもルールがあり、これを守れないようでは立派な大人になれないぞ」と、したり顔で言う人がいるだろう。そもそもルールとは何か、またそれはいかに守られるべきか、変えられるべきか、を思考していないかもしれない、その薄っぺらさは脇に置いて、「ルール重視」をまま唱える教員が、実はルール違反をしているという話をしたい。

たとえば、席決め。「自分が好きなところに座っていい」と始めたところ、「ここに座りたい」と生徒の間で衝突が多発。すると、「決められへんのやったら、先生が決めます」と勝手にルールを変更する。最初のルールは守られずである。

あるいは、教室の係や行事での役割を決めるとき、最初は「係の人数枠を越えた場合は、じゃんけんで」と生徒に伝えていたのに、いざ決める作業が始まると、「この係は大事やから、クラスのみんなの投票にしよう」とか、酷い場合は、「やっぱり、先生が決めるわ」と、驚くべきアクロバティックな展開を導いたりする。始めの決めごとは、かくも容易に反故にされる。かくも、教室は無法地帯であり、専制者である教員による人治主義が横行する。

はたまた、授業中にトランプを始めた生徒を見て「トランプをしていい曜日を決めたいと思います」と的外れな提案を行い、関係ない生徒を巻き込んだりもする。ルールの必然性は教師の胸三寸である。

こうした「学級王国」の状況が出現するのは、教員がルールの意義と限界をよく理解していないからと、私は思う。ルールを適用するには、人による支配を回避し、誰もが従わなければいけないルール(法治)を設定することで、普遍性を担保する意義(平等や公平の点で)と合わせて、臨機応変さに欠けたり手続きに多くのコストを要する限界(「杓子定規」や「ムダ」といった)もあることを理解する必要がある。このことを、どれほど教員は踏まえているだろうか。

いわゆる問題状況の背景には、教員によって宣誓されながら恣意的にも運用される「ルールらしきもの」がある。その不確かさが生徒を疑心暗鬼にさせ、ルール無視こそ生き残る技だと学ぶ機会を提供する。「正義によるいじめ」が頻発する背景も、同様である。

さて、ルールと言うならば、教員にとっても上位に君臨するものとしてそれを設定する勇気を、はたして教員は持ち得ているだろうか。





by walk41 | 2019-08-30 09:43 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「先生、がんばって」 "Lehrer, mach's gut!"

夏の教員研修には、教諭だけでなく、養護教諭や事務職員が参加してくれる場合もある。

ある研修にて、学校版の「悲しいとき~」(いつもここから)を作ってもらったら、事務職員の方から次の一句が出た。

「悲しいとき~
 -先生が初めて自分で出張届けを書いてくれたと思ったら、間違えていて、結局、全部書き直しになったとき~。
 -先生に任せたいけれど、まかせたら仕事が増えるだけだと実感したとき~」

教諭のみなさん、いかがだろうか。

「へ-、そんな学校もあるんだ」と思われただろうか、それともひょっとして耳の痛い話だろうか。


by walk41 | 2019-08-29 08:00 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

恥 Scham

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引き続き、滋賀県平和祈念館の資料から。

写真は1944年3月の「壮丁の栞」(大津連隊区司令部)、徴兵検査を受ける男子に向けたものである。

これは「徴兵検査に當りて」「寄留地検査の励行」「現役検査に就て」「検査を受ける心得」「徴兵検査の結果に就て」「幹部候補生志願に就て」「入営延期者に就て」からなるが、うち最初の項目を見てみよう。読みやすいように適宜、字間を空ける。

「諸君は萬邦無比の皇国に 天皇陛下の赤子として生を享け 皇恩の下 限りなき父母の慈愛、恩師の訓育、社会の恵みに依って斯く迄立派に成長し 目出度 徴兵適齢の年を迎えて元服し、母の胸に抱かれていた時から錬りに錬り 鍛えに鍛えた修養した身体の一切を捧げて今こそ 天皇陛下の御為に皇国の隆替を 此の一戦に賭する大東亜戦局の第一戦に 馳せ参じるの秋を迎えたという幸福感と、銃後一億が諸君に期待する絶対の期待に応えて、必ず其の使命を完遂せずんば止まないという覚悟が充満して居ることを確信して 衷心よりお慶びに堪えぬ次第である。

徴兵検査は諸君も既に能く承知して居る筈であるが、日本男子として只今も述べた所の 醜の御盾と成り得るか否やを決定される生涯一度の洵に意義深い 且神聖な検査であることを感銘し、旺盛なる志気と、健全なる心身を以て、厳正に受検することが必要であって、苟も自分の不注意や不心得から自分は勿論のこと 親の名を恥かしめ、一門の面目を潰し延いては郷土の名誉を汚す様のようなことがあってはならないのである。

今日迄に夫々市町村の方から詳しい御注意を頂いている筈だが 特に諸君が心得て置かねばならぬことを申述べておく。」

いかがだろうか。これは父権主義(パターナリズム)とファシズム(全体主義)の塊だと私は捉える。ひとりの男性の生のありようは、その個人によってではなく、天皇、父母、親戚縁者、郷土によって定められているという観念と、それを国家として一元的に回収して然るべきという立論が見られる。

また、これに応じないことが恥ずかしいことという言及は、いっそう個人を萎縮させる。なぜなら、恥は他者からの眼差しを自身の眼差しとして内面化し、他者に見られていない時でさえ自身を強く縛るものだからである。

こうして若者に対して徴兵検査が行われ、実際に徴兵され、多くが人を殺しまた殺されていった。あたかも「自然な仕組み」かのように見えるまでに浸透して、人々の意識と行動を方向づけていく「制度」を研究する意義はここにある。既存の「制度」を疑い異議申し立てする勇気を持ちたいと思う。


by walk41 | 2019-08-28 07:49 | ことばのこと | Comments(0)

天皇主権 Herrschaft des Kaisers

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滋賀県平和祈念館を訪れる。1931年から1945年の太平洋戦争では、滋賀県からも多くの兵士が出征、3万人を数える死者が出たとある。悲惨である。

その中に、1945年8月15日の京都新聞、第一面が展示されていた。天皇による終戦宣言の行われたことを示しているが、私にとっては驚くべき箇所があった。

以下、同紙面にある、御前会議での天皇の発言である。

「朕は世界の大局と我が国の情勢を慎重に考慮したる結果、祖宗又一般国民に対し忍び難きを忍びてかねての方針どおり進みたいと思う卿等はいろいろの意見もあろうが回答文は、天皇主権を承認しているものと考えるからみなもそのように解釈せよ  朕は国を焦土と化すことを思えば仮令朕の一身はいかにあろうともこれ以上国民が戦火に斃れるのを見るのは忍びない」

これに対して京都新聞は、「…との有難くも辱い御言葉を賜った。何という御叡慮の深遠さであろうか」と続けている。新聞社による、まさに「生き神様」に対する崇め奉りぶり。反骨精神の欠片も見られない「御用新聞」そのものである。

さて、私が驚かされたのは、降伏にあたって連合軍が日本政府に求めた条件に、天皇に対する責任が明示されていなかったのか、「天皇主権を承認しているものだから降伏してもよいだろう」旨を天皇が述べているくだりである。

天皇主権とは、この9ヶ月後に発布された現在の日本国憲法の根本、国民主権と対峙するだけでなく、この戦争の責任を天皇が回避する可能性を示唆する。というのは、天皇主権が維持される一方で、天皇の責任が問われるという状況を考えにくいからだ(当時の天皇の責任を問うた上で、次の天皇に主権を与えるという筋書きもありうるけれど)。

さまざまな主義主張や思惑が交差する中での発言ではあっただろうが、まさに国が焦土と化し、広島と長崎に原子爆弾を投下されてなお、「天皇主権の承認」(「国体護持」)が最も重要だったという思考あるいは状況に愕然とさせられる。戦後、国民主権へと歴史のページが大きく開かれたことを喜ぶとともに、これを守り発展させなければならないと強く思う。



by walk41 | 2019-08-25 19:53 | Comments(0)

パン Brot

パン屋さんに行った。レシートを見ると、店名に "pain de ...”とある。painとは? と辞書を引くと、フランス語でパンのことだとわかる。

そこでと調べると、次のようだった。pain(フランス語)、pan(スペイン語)、pane(イタリア語)、pão(ポルトガル語)と、もとは、panis(ラテン語)に由来するとのこと。なるほど。

だから、無い物ねだりかもしれないけれど、戦国時代にポルトガルから「パン」が伝わったと社会科あたりで子どもに教えるときに、「ちなみに、近くの地域では似たような言葉があってね」といった説明が教員からあればいいのになあと思う。そうすれば、たとえば、ヨーロッパの地理に興味を持つ場合もあるだろうし、もちろん言語を知りたいという場合も出てくるだろう。

ちょっとしたお喋りが、「関心・意欲」を促すきっかけになるとすれば、教員の「雑学」はすぐれて重要ではないだろうか。




by walk41 | 2019-08-24 19:46 | ことばのこと | Comments(0)

プロフェッション Professionalität

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http://e-kangeki.net/ より拝借。

ひょんなことから、大衆演劇を観る機会があった。温泉施設内の舞台で、そのときの観客は30人くらい。大音響と毒々しいくらいの光が飛び交う中、舞踊と呼ばれる踊り、寸劇、歌謡、太鼓とオムニバスが約60分間続いた。

驚かされた。というのは、あくまでも私が見た舞台の限り、上手な学芸会の域を越える出来映えとは思われなかった、にもかかわらず、大方は年配の女性だった観客は、熱心にまた懸命に応援しながら舞台に視線を注ぎ、全体として親和的な雰囲気が感じられたことに対してである。

たとえば、陳腐で常套句な台詞、よく知られているのに歌われると何の曲だかわからないような歌謡(わざと外しているのか思ったほどである)、突然に途絶える音源、こじんまりでシンプルな舞台装置である一方、浴衣姿の観客は応援のバチを持ち、舞台に合わせるかのような派手な原色のイルミネーションライトで応え、幕間には用意していたレイを渡しに行くという具合だ。また、公演の最後部には一同が舞台に現れ、座長が観客に向かって語りかけ、終了後は観客をお見送りするというサービスぶりだった。

帰宅後、大衆演劇の動画を見たが、上記HPの説明にあるように、家内労働的で座長以下、子どもを含む家族と親族が中心の10人程度のメンバーによって公演が行われ、温泉施設内で寝泊まりしながら各地を巡業し、一年間ほぼ休みなし、というのが通常の環境の業界があること、こうした劇団が全国に120ほどあり、平均一日あたり24000人が観劇しているという事実に、さらに驚かされた。

公演案内を眺めると、入場料が1万円といったものもあり、同じ大衆演劇の劇団でも千差万別なのだろうが、上記のような大方の劇団の環境から察するに、産業革命以降の近代化で見られる、分業を基本とするプロ(専門家)の台頭と進展という流れとは別の職業集団が存在することに、これまた自分の無知を知らされる。

あるテレビ番組では、劇団のお母さん、実子の母親、役者、舞台の裏方、金庫番等と、何役もこなす女性を取り上げていたが、それだけできる(やらなければならない)ということは、分業されていないゆえの労働上の専門性に限界がある(プロではない)とも言える。なのに、この女性は取材班に「プロですから」と語っていた場面が印象的だった。

「夏休みだから舞台に立った」子役に例示されるように、資格も認証基準も曖昧で、制度的な養成、採用、研修も伴わず、おそらくは厚遇と言えない労働環境の中で、素人とそう変わらないように見える公演が開かれている。そして、これに対してそれなりのしかも熱心な人たちが気軽に見に来ているという事実、に不思議な魅力を感じる。

また、歌、踊り、演奏、いずれも専門的でなければ舞台に立てるはずがない、また観客にはドレスコードが求められ、観劇中のマナーを守ってこそといった理解が、いかに「大衆」から離れているかとも思わされる。文化政策、文化振興と口にする人もいるけれど、そこでの「文化」理解の薄っぺらさに、改めて気づかされる。



by walk41 | 2019-08-23 08:00 | ことばのこと | Comments(0)

通夜のような授業 Unterricht als ob er vor dem Beerdigung

大学のオープンキャンパスにて高校生たちと出会う。

模擬授業として、規律と秩序が重んじられる学校で身についてしまう習慣、大人しく話を聞く、ルールを守ることに馴染んでいる身体になっているのではと、学校論を話す。その流れから、「高校の授業は今でもお通夜みたいに静かですか」と彼ら彼女らに尋ねると、控えめな反応ながら、複数の参加者からそうだと返ってきた。教員が一方的に話し、生徒たちが静かにノートを取る姿が目に浮かぶ。

教科や単元にも拠るだろうが、これだけアクティブラーニングが叫ばれ、個に応じた学習の重要性が喧伝されているのに、もっぱら伝達として授業が進められているとすれば、ある意味で一種のホラーである。高校教員からは「大学入試があるから」と常套句が挙がるだろうが、はたしてそうだろうか。むしろ、人文社会系に限って言えば、大学での学修の準備として、「お通夜」とは違う授業を高校で経験しておいてくれればと強く願う。

とまれ、きょう大学に来てくれた高校生と来春あるいは再来春に、学生として会えれば嬉しいな。

by walk41 | 2019-08-20 18:58 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

戦争と子ども(2) Krieg und Kinder

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1939年9月以降、ドイツ支配下のワルシャワで、幼い子どもが郵便配達人として、市民による抵抗運動を支えたことがわかる写真です。

ワルシャワ蜂起博物館の資料から。

by walk41 | 2019-08-17 20:44 | Comments(0)

パーセント Prozent

自分が何となく知っているつもりだけで、よくわかっていないことは山ほどあるが、パーセントという言葉もその一つだ。

英語でpercent、cent は100分の1だからと合点していたが、するとperの意味が弱まってしまう。なぜ、per-hundredではないのだろうか。

さて、percentを改めて引くと、古くは、per centum、100あたり、というラテン語にもとづく。なるほど、だからcentury は100年、1世紀なんだね。けれども、centimeterは、centumから来ている言葉なのに、100分の1の意味である。どこで変わったのかしら。

スペイン語では、por ciento またはpor cien と100あたり、の意味で綴られる。またドイツ語では、Prozent、これも、per centum 流れに位置する。

言葉の成り立ちは、一貫しているような、いないような、まあ大らかなものと解した方がいいのだろうと思わされる。




by walk41 | 2019-08-17 12:11 | ことばのこと | Comments(0)

戦争と子ども Krieg und Kinder

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「戦争と子ども」と聞くと、どのようなことを思い浮かべますか。

太平洋戦争を基本に考えがちな日本的発想というものがあるのならば、それは疎開船が撃沈、空襲などによって命を失った子どものほか、早くも10歳代後半で戦場に送られた少年兵というイメージが強いのではないでしょうか。

もちろん、それ自体すでに悲惨なことですが、1940年代前半の第二次世界大戦においては、もっと幼い子どもが兵士としてではなく、支配者に対する市民の抵抗勢力、パルチザンとして戦争に参加した事実もあることに、愕然とさせられます。

写真は、1944年8月に起こったポーランド、ワルシャワ市民によるドイツ、ナチスに対する蜂起を記念するものですが、ここに写る子ども、とくに右上の銅像に示される10歳に届かない子どもは、ワルシャワ市内に張り巡らされた地下道を通って、市民間の手紙を届ける、郵便配達人の役割を担っていました。占領下で生活する人々をつなげ、励ます上で郵便は、人体にとっての血流の役割を果たしたことかと思います。

その際に使われた地下道はとても狭く、陽の光も届かない暗い中を歩くのは、大人よりも子どもにより適していたのでしょう。多くの子どもがこれに参加し、そして痛ましいことに、やがて地下道の存在に気づいたドイツによる攻撃によって命を落としました。こうした子どもを含めて、亡くなったワルシャワ市民は20万人にも上るとされています。

8月は日本にとって、広島と長崎への原爆投下、終戦という月ですが、ところ変われば、占領軍に対する蜂起を記念する月でもあります。暑い夏、過去を振り返り、二度とこうした悲惨なことが起こらないように、天下国家を論じるだけでなく、日々の自分の生活を問い続けることが、大切だと感じることしきりです。

by walk41 | 2019-08-16 21:47 | Comments(0)



榊原禎宏のブログ(Yoshihiro Sakakibara Blog) 教育学の一分野、学校とその経営について考えます(um die Schule und ihre Verwaltung und Management)
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